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子どもたちの定時出勤

保育園に子どもを送る時の道すがら、たまに、泣きじゃくる子どもに苦戦してる親御さんを見かけます。なだめてたり、強引に引っ張ってたり、もはや無反応だったり。

見かけるたびに「大変だよね、わかるよ」と親愛なる同志を見る眼差しを送ってしまいます。

嫌がって泣きじゃくる子どもを無下にしたくないという気持ちと、定時に間に合わなくてはいけないという社会の規律との間で板挟みになってる苦悩。基本的には前者を採りたいと思っていても、ほんとにタイムリミットが迫ると半ば強引に突き進む道を選んでしまうしかなくなる時がある。

江草家でもどうやって定時に間に合わせるか日々苦労しています。幸い、たいていの場合はスムーズに登園できるのですが、時には力及ばず子どもが泣きじゃくってしまうこともあります。それでも行かなきゃいけないという大人の事情に合わせさせる時には、申し訳なさすぎる気持ちになります。

で、育児をしていてやっぱり思うのは「子ども」と「定時」の凶悪なまでの相性の悪さです。

登園に限らず、電車の予約をしてる時とか、施設利用の予約をしてる時とか、時間通りに動かないといけない場面はあります。ただ、その予定通りにたどり着くのはほんと一苦労なんですよね。

小さい子どもにとってはまず「時間」「時刻」という感覚がない。だから目標としてそれを共有できません。うちの2歳の子にも、一応「何時に行くからね」とか「時計の針が3になったらね」などと声かけはするものの、まださすがにそれを共有目標として捉えることは難しいようです。

そしてそもそも「予定」という感覚もありません。そんな抽象的な未来よりも、今目の前の道路の隙間に花が咲いてたらそちらの方が気になる。自動販売機を見かけたら取り出し口をパカパカして遊びたくなる。まさに目の前にある具体的な「今ここ」を子どもは生きてるので、見えない「いつかどこか」の予定なんて気にしないのです。

こんな子どもたちを定時出勤させようというのが至難の業になるのは必然なんですね。子どもたちにとって、「定時」とはなんなのか、なぜそれを守らないといけないのか、全く意味が分からないのですから。

もちろん、そんな子どもたちも成長するにつれて徐々にそうした抽象的思考を身につけるようになります。うちの子もちょっとずつその気配があります。
そして、そうした社会の掟、「時間を守らないとダメだよ」とか「約束は守らないとダメだよ」みたいなことを、子どもたちに教え、身につけてもらうのが教育なんだ、躾なんだという考え方もあるでしょう。実際、全く社会のマナーやルールを身につけないのも困りものですからね。

ただ、それも程度問題ではないかとも感じます。

さすがにまだ抽象的な思考が身につきようもない子どもたちを定時出勤に付き合わせるのは酷すぎる気が正直しちゃうんですよね。まだ背丈が足りないのにジェットコースターに乗せるような、まだ訓練も何もしてないままに新兵が戦場に送り出されるような、そんな酷すぎる突き落としな感じが否めない。

「教育」の甲斐あって、子どもが定時出勤に素直に付き従うようになったとしても、それは別に「時間」や「予定」といった抽象概念を理解したからではなく、「定時に間に合わなきゃ」という親の必死の形相が怖くて従ってるだけかもしれません。

そして、それは「ふと道端できれいな花を見かけても定時を優先して無視せよ」と教えてるようなものでもあります。ふとした寄り道、ふとしたセンスオブワンダーを、親に怒られる「悪い行い」としてしつけることです。

もちろん、きれいな花を見かけたからといって周りを見ずに真っ直ぐ突っ込んで車にひかれてもいけないので、自重すること、慎重であることは必要だとは思うのですが、「気ままな寄り道(ワンダリング)」それ自体がいけないと思われてしまうことはやはり危険な香りを感じます。

これは必死に奮闘してる親たちが悪いとか怠慢だとか言ってるわけではありません。冒頭でも述べた通り、江草自身が定時に間に合わせようとしてる親の一人でもありますし。

ただ、こうして子どもたちを見てると、逆に大人たちこそが問い返されてるように思うんですよね。

「そんなにしてまで(私たちを泣かせてまで)守ってる定時出勤てなんなの?」と。

実際、なんなんでしょうね。

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