仕事と自由の複雑な関係
一般的に言えば、仕事とは不自由の象徴かのように扱われてます。
「早く仕事終わらないかな」「もう帰りたい」という嘆きの声が日々SNSでは満ちあふれていますし、「月曜日が来るのが怖い」とするサザエさん症候群ももはや伝統的文化として不動の地位を確立しています。
仕事という不自由時間から解放されて、アフターファイブや休日といった自由なオフタイムを満喫したいという常識的感覚がここには表れています。
江草としても、それはその通りだと思いつつも、実は必ずしもそうではない、つまり仕事が不自由をもたらすのではなく仕事こそが自由時間をもたらしているケースも少なからず世の中にはあるという、仕事と自由の複雑な関係性が存在していることにも留意がいると思うんですね。
たとえばこのポスト。
仕事を楽にするために設置された井戸のせいで、逆に「川に水を汲みに行く」という「仕事時間という名目の自由時間」が奪われたことに対する不満が出たという皮肉な話です。
これはアフリカのエピソードみたいですが、同様の話は日本社会でも聞かれます。
たとえばこちら。
昔は書類を取りに行くだけの「ほぼ自由時間みたいな仕事」があったのが、メールやチャットの発達でその仕事を名目とした自由時間が失われたと。
あるいは、このネーモさんの記事も同様の光景が描写されています。
コンビニが仕事時間中に時間を潰す人たちのたまり場となってるという指摘です。営業回りの途中に寄っただけ、トイレ休憩していただけなどと言えば、仕事中であるという建前がつく。つまり、彼らは仕事という名目で自由時間を確保してるところがあるわけです。(ちょっとネーモさんの記事の主旨とは逆の解釈になりますが)
また、こうした「仕事という名目で自由時間を確保する」という性質は正式な仕事時間内にも限りません。
学会が「学術研究のための仕事の一環」という建前でありながら、その実、公費で行ける「福利厚生的な慰安旅行」という性質を含んでることが否めないし、それに対する批判もあります。(てか、江草自身がそのエスカレートぶりには苦言を呈してます)
あるいは、先日読んだ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という書籍でも、前世紀の日本において、通勤時間中に「何か暇つぶしすること」を求める人々のニーズから文庫本が登場し、文庫本のおかげで通勤時間中に本を読む社会的習慣が広がった様が描かれていました。
今では文庫本ではなくスマホをいじってる人がほとんどになってる情勢ではありますが、通勤時間にそうした本を読んだりスマホを読んだりする自由時間という性質があることには違いありません。
仮に人々の通勤時間がたちまちゼロになったとしましょう。それで生まれた時間が完全にフリーな時間として再び個々人に与えられるかと言えば、まず「その浮いた時間も仕事をしろ」とか「家のことをしろ」とか「子どもを迎えに来い」とかあれやこれやの社会的圧力が急に襲いかかってきて、必ずしもそうならないわけです。通勤時間という名目があるからこそ個人の自由時間が確保できている。
すなわち「仕事のために移動中である」という名目でこそ、そこに自由時間が生まれているのです。これは「水を汲みに行っている」という名目で自由を確保していた冒頭のアフリカの方のエピソードと全くもって同構造と言えましょう。
もちろん、いくら自由時間といっても、満員電車では言わずもがなの凶悪環境で自由時間も何もあったもんじゃないですし、そうでなくとも「電車内にいなきゃいけない」などの制限はあり、完全な自由時間とは言えません。アフリカの方だって「水を汲みに行っている」という名目で出かけているのなら、ちゃんと水を汲みに行くルートを辿らないといけないわけで、そういう意味で同じく部分的に自由は制限されています。
ただ、それでも完全監視の下で時間あたりの生産性をきっちり測られているような裁量権のない仕事についている場面よりは自由がありますし、ワンオペで育児をしている主フに比べれば、コンビニなりで独り気兼ねなくほげっとすることもできるし、好きな店にふらりと入って好きな食べ物でお腹を満たすこともできます。大きく正規ルートを外れなければ、多少は散歩や寄り道をする自由もあるわけです。
もっと言えば、面倒な人間関係や行事の誘いを断るときにも「仕事があるから無理なんだ」は最強万能のジョーカー的切り札となっています。嘘であったら問題になりえますが、本当に「仕事だ」という名目が立つのであれば、それは自由を確保するための最強のツールとなるのです。
つまり、仕事は不自由の象徴として扱われがちではありますけれど、その一方で、世の中では「仕事という名目で自由時間を確保しているケース」が少なからずある。
ここに、仕事と自由の実に複雑な関係性があるわけです。
もちろん、ご承知のことと思いますが、全ての仕事にこのような高い自由確保性が伴っているわけではありません。「川に水を汲みに行く」系の仕事や、あるいは監視がゆるくて暇が多い職場など、一部に限られます。
仕事というのは大変に多様なのです。だから、自由確保性が高い仕事もあれば、低い仕事もあります。
仕事に求める価値が多々あるので、必ずしもこれだけで決まるわけではもちろんないものの、このように仕事の自由確保性の強弱にバリエーションがあるならば、自由がある仕事の方が人気が出がちです。それで、世の中で自由な仕事をゲットしようとする競争が生まれるわけです。
あくまで文脈としては別の話をしているので援用に注意は必要ではありますけれど、たとえばこのポストが指摘している、みんな「高卒でできる仕事」をなんだかんだ避けたがっていて、それゆえに大卒の学歴を欲しているのではないかという視点。
これも、大卒系の仕事の方が、高卒系の仕事よりも自由確保性が高いことが多いことが背景にあるんじゃないかと江草は思っています。もちろん、これも上述のように仕事が多様であるがゆえに、現実には個々の仕事の事情に強く影響されますが、全体的な傾向としてこういう傾向があるのではないかという意味です。
これは印象論としてのあくまで直観的な話ではあるのですが、大卒がホワイトカラー志向であり、高卒がブルーカラー志向であることに起因していると考えています。
ホワイトカラージョブは知識労働で「頭を使って考える」という抽象的な作業が多いために、外見上は物理的な作業をしてなくてもそれでも「仕事をしている」という建前がたちやすい。一方のブルーカラージョブは現実の物体を相手にすることが多いために、外見上明らかに物理的な作業をしてなければその時点で「サボってる」のが明らかになってしまいやすいわけです。
巷にあふれる仕事術系の指南書が「メールの処理はこうする」とか「生産性をあげるデスク環境」などと明らかにホワイトカラージョブしか想定してないものばかりであることも、各自の工夫によって時間を生み出すことができる自由裁量権がホワイトカラージョブにこそ備わっているということの証左でありましょう。
つまり、みんな「仕事時間の中」で、言い換えれば「仕事時間という名目」で、自由を得ようとして競い合ってるところがこの世の中にはあるんではないかと言うことです。うまく用いれば「仕事という名目」こそが現代社会において自由を得るための最強のツールとなっているからです。
なお、これは本題から少し外れた余談ですが、これがあくまで「仕事という名目」が最低限確保しないといけない必須要件であるがゆえに、誰もがその自由を確保するために「私は忙しく重要な仕事をしていますよ」というフリをしないといけなくなっています。それが「ブルシット・ジョブ」を生み出す温床となってるわけです。
本人の本心としては「たいした仕事をしてない」と自覚しているのだけれど、それでも対外的には「すごい仕事をしてるんですよ」という仮面をかぶらないといけない欺瞞性に悩むというのが「ブルシット・ジョブ」の病的な性質です。
しかし、この悩みを友人などについ吐露などしようものなら「そんな自由に好き勝手しながらお金がもらえる仕事なんてうらやましい!」と逆にうらやましがられてしまうという話も書籍『ブルシット・ジョブ』内では指摘されています。この逆説的な現象も、本稿が提示している「仕事と自由の複雑な関係」の一幕と言えましょう。
というわけで、そろそろまとめます。
仕事は確かに間違いなく不自由の象徴かつ主要な原因でありつつも、実際には人々が仕事によって自由を確保しているという側面もあるという、ややこしい二面性があります。
仕事と自由の問題を語る時にはこのややこしさにも留意する必要があるかと思っています。
今回は「じゃあどうすべきなの」みたいな話は割愛して、そんなただの現状分析ですが、あしからず。
以下、過去の関連記事。
本稿は自由裁量権に注目しましたが、大卒と高卒の待遇(金銭)面での綱引きも今後ひとつの大きなイシューになるかもしれないなあと思って以前書いた記事がこちら。
また、「仕事という名目」と切っても切れない関係にある「お金」も同様に自由のための最強ツールとなっていることを指摘した記事がこちら。
この流れで、実はほとんど本稿と同じテーマで書いた過去記事もあります。
主旨はほぼ一緒ですが、切り口が違うので多少は味わいは違うかと。
そして最後、子育て世代は「お金」と「時間」とどちらを欲しているのかという議論を紐解くことで、育児と自由の困った関係性を描き出したのがこの記事。仕事と自由の関係性を考えた本稿と合わせて読むと面白いかと思います。
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