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『手放す練習 ムダに消耗しない取捨選択』読んだよ

ああ。

渇愛を滅尽したーーい。
モノを減らしたーーい。
部屋を片付けたーーい。


というわけで、はむっち先生が以前ご紹介してらっしゃった『手放す練習 ムダに消耗しない取捨選択』を読んだのです。

引き続き読書の秋ということで、今日はその感想文を。



↓はむっち先生による紹介記事


実を言うと、著者のミニマリストしぶさんという方は存じ上げてはなかったのですが、ホームページなどを拝見すると、確かに筋金入りのミニマリストの方のよう。

さすがはむっち先生の推薦本なのもあって、ミニマリズムのコンセプトやメソッドを分かりやすく解説してくださってる良書でありました。

もっとも、江草は、こんまりさんの本も含めこれまでもミニマリスト系の書籍を読んではやっぱり片付けられてないという残念な人間。
それゆえ一応はミニマリズムの思想自体はもともとおおよそ知ってはいたので、今回は復習としての読書体験であったという側面が強いです。


で、毎度ミニマリスト系の話を聞くたびに思いますが、いやはやほんとモノは減らしたいですね……。

江草の家で目下ヤバいのは本棚でして、本がギュウギュウ詰めになっているのです。しかも読んでない積ん読本も多々あります(ピケティの『21世紀の資本』なんてブームの時に買ったままずっと積みっぱなしという恥ずかしさです)。
これでも昔よりはだいぶ減らした方なのですが、本書を読んだことにより、またちゃんと本を処分するかと改めて思い立ちました。


モノを減らすのって、物理的に言えば本来誰でもできることのはずなんですよ。捨てたり売ったりってのは面倒ではあっても、勉強不足・スキル不足でできないということはおよそない活動です(捨て方を調べたり重いものを運んだりぐらいの能力は要りますが)。
フェルマーの最終定理を証明できたりとか、英検一級が必要だったりとかみたいに、一部の人しか得られないスキルや資格を要するものではないんですよね。

それでもなぜ私たちがモノを捨てられないかと言えば、本書でもどこかで書かれていたように思いますが、やっぱりそれは「気持ちの問題」「心情的問題」であって、仏教的に言えば「物への執着」となるわけです。

ある意味単純な問題ではあるのですが、単純だからこそ難しいというか。
執着を捨てるのが簡単だったら仏教は要らないわけですし。



で、本書の中で印象的だったエピソードが、著者のしぶさんが、親が自分にマイホームを譲ろうとしてることを批判している箇所です。


リモートワークが普及しているのだからなおさら、場所に縛られる人生を送るのはゴメンである。また、今後は海外にも住んでみたいと思っているので「子供を住まいで縛ることが、子供の夢を邪魔すること」につながっている。辛辣な言い方になったが、これが「親のマイホームは負の遺産」と言う所以だ。だから、実家を無償で譲り受けられるとしても、全然嬉しくない。正直、「自分の持ち物なんだから、自分で後始末してくれ」と言いたいくらいだ。「なんて冷たい子供なんだ」と思われるかもしれないが、親であれ子供であれ、究極は他人だ。

ミニマリストしぶ. 手放す練習 ムダに消耗しない取捨選択 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2131-2136). Kindle 版.


確かに、ここまで確立したミニマリスト生活を送っていれば、親が好き勝手に散らかし放題にしている「実家」なんて厄介なものに違いないでしょう。自分の管理が行き届いた「片付いた家」に住んでいるのに、急に「片付いてない家デラックス版」が送りつけられてくるようなものですから。


ただ、このエピソードを見て思うのは、ミニマリズム活動において「自分の心」というのももちろん強敵ではありますが、実のところ最大最強のハードルは家族などの「他者」なのではないかと。

実際、著者のしぶさんもお一人暮らしのようです。
もちろん一人暮らしであろうともミニマリスト生活を確立するのは容易ではありませんが(江草の一人暮らし時代の汚部屋っぷりは人に語るのもはばかられる状態でした)、それでも家族や親族がらみの家庭環境下でミニマリズムを徹底するよりはまだやりやすいだろうなと思います。


たとえばこないだもNHKの『あさイチ』で実家の片付け問題を特集されてましたが、親に「片付けて」と言ってもほんと全然片付けてくれないのですよね。
あるいは、いつのまにか物を動かしたり買ったりしてくる(場合によっては勝手に捨てる)パートナー。
さらには、育てるために新たに物を増やす必要が絶対出てくるし、かつ本人の欲望も無尽蔵&抑制不能であるなど、圧倒的なカオスパワーを誇る子どもたち。

これらのまず自分の思い通りにならない強力な「他者」の存在を考えても、自分で好きに管理できる一人暮らしに比べて、家族や親族がからんでくる家庭の設定では格段にミニマリズムを実現する難易度は上でしょう。


ミニマリズムが「物への執着」を捨てる、いわば仏教の修行的な活動だとすれば、本来の仏教は出家することが前提でもあるわけですから、親族がその達成への障壁になるのもむべなるかなです。(ブッダが産まれたばかりの自分の息子に「ラーフラ(障り)」と名付けたのは有名な話です)

すなわち、ミニマリズムを目指すにあたっては「片付けの支障にならないように自分の家族関係もミニマルにしたくなる」というのはつい出てきてしまうであろう発想と言えます。

そういう意味では、ミニマリズムは究極的に言えば「親と縁を切る」「結婚しない」「子どもを作らない」という感覚にも地続きなのかもしれません。


そう考えると、とくに現在進行系で子育て中の家庭では、色んな意味でミニマリズムを徹底するのは難しいのが現実ではあるのでしょう。

家の中が雑然としてしまうのも、子育て中家庭としての象徴的な現象であって、いたし方ないものと言えそうです。


……と、ここまで言い出すと、これはこれで結局「片付けない言い訳」を都合よく用意してるみたいなものであって、これこそがやっぱり「物へ執着」している江草の人間としての心の弱さの表れなのでしょう。


ああ。

やっぱり片付けなきゃだめかあ。

ミニマリストへの道は険しい。

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