見出し画像

民主国家とトロッコ問題

シロクマ先生のこのブログエントリを読みました。



シロクマ先生ご自身の付記コメントも踏まえ、先生のブログエントリの要旨を勝手にまとめると


新型コロナの第7波が猛威を奮っているが、社会は今までの医療重視を諦め経済重視を選択している。これは実質的にはトロッコ問題だと言える。医療重視にせよ経済重視にせよ、その選択の是非にかかわらず、トロッコの切り替えレバーを引いている責任は民主国家の主権者たる私達国民にあるはずだ。しかしどうにもその責任を国民が自覚しているように見えないことにモヤモヤを覚える。そもそも、私達は人の顔が見えてる状態でレバーを引くことができるものなのだろうか。

という感じでしょうか。(あくまで江草の解釈です)


これは非常に興味深いポイントに触れられてると思うので、江草も勝手に相乗りして、この「民主国家とトロッコ問題」について掘り下げてみようと思います。(そういう意味ではシロクマ先生のエントリへの回答や返答というわけでもないです)


例によって勢いで書き下ろしますので、乱文駄文の非礼はあらかじめお詫びしておきます。


トロッコ問題が問うてるもの

まず、トロッコ問題についておさらいしておきます。

色んなバージョンがありますが、一番オーソドックスなのは

暴走しているトロッコがあってそのまま行くと線路の先に居る5人が命を落とす。ちょうど分岐レバーのところにいたあなたがレバーを引けばその5人は命が助かるけれど、その代わり分岐線の先にいる1人の命が失われる。この時、あなたはレバーを引くだろうか。

このパターンでしょう。

機械的に考えれば(功利主義的に考えれば)、「5人の命」vs「1人の命」なので、1人の命の損失の方がマシなのだからレバーを引くほうが合理的だと言えそうです。

ところが、レバーを引くことは本来死ぬはずでなかった1人の命を奪うことになります。つまり、レバーを引くという選択をしたあなたのせいでその人は死ぬことになる。
これはあなたがその1人を殺したと言えるのではないか。

そういう人の命を奪う責任を負うことへの躊躇から、意外と「レバーを引く」という決断をするのは難しい。

このことを実感させるのがトロッコ問題の一番ベーシックな役割になってます。


「そんな恐ろしいこと自分にはできない」とためらう人もいる一方で、このトロッコ問題を経ても「それでも合理的に考えてレバーを引くよ」「功利主義を選ぶしか無いよ」と強い気持ちを持つ方も少なくありません。


ところが、このトロッコ問題には有名な続きがあります。
悪名高い、線路の上に「太った男」を落とすバージョンです。

この「太った男」バージョン。
基本的なトロッコ問題の設計は先のオーソドックスバージョンと同じなのですが、「レバーを引いてトロッコの走行先を変える」のではなく、「ちょうど目の前にいた何の罪もない太った男を線路の上に突き落とし彼の死をもってトロッコを止め5人の命を救う」というシナリオになってます。(なんとまあよくこんな恐ろしい思考実験を考えるものです)

この「太った男」バージョンも「5人の命」vs「1人の命」の構図は変わりません。
だから、素朴に功利主義的に考えるなら「突き落とすべき」となるはずです。

しかし、レバーを引く以上に「突き落とす」選択は重く、先のオーソドックスバージョンで「レバーを引く」強い気持ちを持った方でも、この「突き落とす」バージョンではたじろいでしまうことになります。


ここにトロッコ問題が私たちに問いかける本質的な課題が見えてきます。

理屈の面では合理的な選択であっても、その犠牲がより直接的に実感を伴うものであればあるほど、私たちはその選択をできなくなる。

口では「功利主義であるべきだ」とか、「合理的に考えよ」などと言っていても、いざとなれば直接手を下すのはできないのが人間なのではないか。
顔が見えたらレバーを引けないのが人間ではないか。


つまり、良かれ悪かれ、「理屈」だけでなく「実感」も私たちが選択するに際し大きな役割を果たすことを顕わにしてくれるのが「トロッコ問題」なわけです。


ですから「トロッコ問題」に対して「功利主義的に考える」と回答するのでは十分でないのです。

「理屈は分かった。で、お前は実際に直接手を下せるのか?本当に日和らないのか?やれんのか?」と問われてるわけですから。



どの本で読んだかは失念してしまったのですが、核ミサイルの発射を大統領が実行するためには「側近をナイフで刺し殺してその体内から発射コードを入手しないといけないようにした」という話がありました。

「人を刺し殺さないといけないなんてそんな残酷な」と思われるかもしれませんが、核ミサイルを放つ方が万単位で人が死ぬわけですから、正当な理由があるなら本来そこでためらうのは変な話なわけです。

つまり、大統領が自身で人一人刺し殺せるぐらいの覚悟や正当性がある時にだけ核ミサイルは発射すべきであると。

むやみな核ミサイル発射を防ぐためのなかなか興味深い方策と言えます。


そんな方策が成り立つほどに、人間というものは、顔が見えない人たちには残酷になれるし、顔が見える人には同情的になるものなのでしょう。

数値計算の理屈だけでは割り切れない人間の特性がここにあるわけです。



そういう意味でいうと、今回のシロクマ先生の「顔が見えてるのにレバーを引けるのか」という疑問は、そもそもの「トロッコ問題」を問い直してるだけとも言えるかもしれません。


(なお、もしかすると「太った男」バージョンですら自分はやると断言するツワモノもいらっしゃるかもしれませんが、そうすると、犠牲になる命の人数が増えたり、犠牲にする人物が最愛の人に設定されたり、と「トロッコ問題」はどこまでも容赦なくあなたの覚悟を問い続けるという鬼畜仕様になっております)



そうして政治は「アピール合戦」となる

「5人の犠牲」と「1人の犠牲」。
それならば「1人の犠牲」を選ぶのが合理的。

理屈の上ではそうですし、多くの方もこう聞けば「やむを得ない政治選択だ」と感じることでしょう。

コロナ禍対策において、以前の医療重視のフェーズでも、経済重視のフェーズでも、(その妥当性の是非はどうあれ)こうしたメリット・デメリットの合理的な比較検討の上で方針が立てられた……ということになってます。


ところが、先の「トロッコ問題」を踏まえると、違った風景が見えてきます。


理屈がどうであっても、犠牲者の顔が見えるとためらい、選択を変える(もしくは選択を放棄する)のが人間。

であるならば、自分が「社会のための犠牲者」に選ばれかねない状況に陥った時、あえて同情を誘うように自分を積極的に社会にアピールすることはひとつ有効な生存戦略となります。

なにせ、顔を見せれば社会が自分たちを犠牲にするのをためらってくれることが大いに期待できるわけですから。


現に、コロナ禍において無理やり「感染者たちをなんとかしろ」と責任を押し付けられたように感じた医療界は、医療逼迫の窮状を盛んに訴えました。マスコミやSNSを通じて悲痛な声を社会に届けました。

一方、強まる自粛戦略で切り捨てられるように感じた飲食店や観光業の方々も盛んに自分たちの窮状を訴えました。

他にも、ショービジネス界、教育界などなどありとあらゆる業界から、危機が起きるその度毎に声があがりました。


もちろん、それぞれが不当な訴えをしていたというわけではありません。
おそらくむしろそれぞれ正当で正直な真実の訴えであったはずです。

しかし、その各々の必死な叫びはどうしたって「自分たちを犠牲にするな」というメッセージであり、各々のポジショントークの視点にとどまっています。

結局、そこに「功利主義的に考えよう」などと社会全体を俯瞰する視点はほとんど見受けられなくなってしまっていたわけです。それは、民主国家の主権者として誰もが持つべき視点のはずだったのにもかかわらず。


つまり、悲しいかな多くの人にとって「確かに功利主義的に考えるのが合理的で良いと思う。ただし、自分が犠牲にならない時に限る」というのが正直な気持ちなのでしょう。

しかも、コロナ禍のような甚大な社会問題では少しでも油断すると自分に貧乏クジが回ってきかねません。
その危機感からとりあえず誰もが「自分が犠牲になること」を防ぐのに必死で、「功利主義的な判断」というのは後回し、せいぜいが「自分のポジションは大丈夫」な時に考えるぐらい、もっと言えば自分のポジションの保身を図るために「功利主義」のお題目を利用する、なんてことになってたように思われます。


そもそも「功利主義的に合理的に判断しよう」といっても、社会において犠牲者候補の矛先が今誰に向いてそうかは結論が確定する前に薄々分かります。

その対象者が黙ってただ犠牲者になるわけでもないのは人情でしょう。

自分が犠牲者になりかねないのであれば、それに抵抗するために社会にアピールをするのは誰にとっても自然な行為となります。


しかも、功利主義的にやるにせよ、現実はトロッコ問題の「5人vs1人」ほど単純ではなく、そもそもメリットとデメリットの計算も複雑かつ不明瞭なものです。

ならば、難しすぎる理屈を議論するよりも、結局は「自分を犠牲にするレバー」を引かせないためのアピール合戦こそが身の安全を図るためのシンプルかつ有効な手段となり、万人による万人に対する闘争として政治における重要な活動になってしまったわけです。


民主国家において確かに国民は主権者であり、誰もが大きな責任を持っていると言えます。
しかし、それと同時に誰もがかよわい一人の人間でしかなく、自分の身の安全が脅かされてるのであれば、社会のことはさておき、まずは身の安全を図るでしょう。


それゆえに、

「誰も暴走するトロッコのレバーを握ってるように見えない」

そんなシロクマ先生が困惑するような事態に陥ってしまったのではないかと思うのです。


トロッコのレバーを引く者自身がトロッコに轢き殺されかねないなら、誰もレバーに近づくことはないのでしょう。

少なくとも、レバーを引くべきかどうかをゆっくり冷静に考える余裕はないと言えます。



政治家に「トロッコのレバー」を押し付ける国民たち

また、「トロッコ問題」を踏まえると、そもそも「トロッコのレバー」を誰も握りたくないという問題もあります。


マックス・ヴェーバーが語ったように政治というのは本質的に「暴力装置」であり、社会で誰を犠牲にするかを決める「トロッコのレバー」です。

暴力を振るうのは嫌なものです。

「太った男」を突き落とすのはもちろん、「トロッコのレバー」を引くのだって生理的な嫌悪を誰もが感じます。

だから「トロッコのレバー」を握らなくていいなら握りたくない。

実に皆が優しいからこそ、そう考えるのも無理はないのです。


この悩める主権者にとって、こと間接民主制の国家においては、格好の解決策があるのです。


それは、政治家のせいにすることです。


たとえば、

政治家が腐敗してるから

政治家が無能だから


このように言えば、(その真偽はどうあれ)あいつら政治家のせいで自分の握ってる「トロッコのレバー」は機能してないんだ、あるいは自分は「レバー」を握らせてもらえてないんだと主張することが可能になります。

「レバーを握りたいんだけどできないんだよね、だって悪いやつが邪魔してるから」と、自分が積極的にレバーに関与しない(してない)格好の言い訳になるのです。

自分は(政治的)暴力を振るってない、自分の責任ではないと自己正当化ができるのです。


外見上は「握りたい」という素振りを見せながら、その実、内心は「握れなくてホッとしている」矛盾した国民の姿がここにあります。



「レバー」を握るというのは、いわば「生殺与奪」の権力を持つことです。
権力と言えば誰もが欲しがるものかと思われそうですが、案外そうでもなく、このように他人に押し付けたくなるものという側面もあるのです。

先に見たように、「権力を持つことの不快さ」をまざまざと見せつけてくれたのがまさしく「トロッコ問題」でもあります。


ボードリヤールは『悪の知性』において、この権力の押しつけ合いの構図を鋭く描いています。

各人が呪われた部分の分け前をもつということが、民主主義の原則だ。だが「市民」はこの至上の義務にしたがうことを本当は望んでおらず、自分自身についての自由裁量を怖がっているように思われる。
それゆえ権力は、ある種の人びとに割り当てられることになるだろう。それが政治家だが、彼ら自身もたいていは権力を放りだすことしか考えていない。彼らがあらゆる手を尽くして権力を再分配するのを見ればよい。 彼らは一方で自分が権力をもっていることに納得し、他方で誰もそこから逃れられないようにするためにそのことを行なっている。というのも、権力を受け入れない者は危険だからだ。
(中略)
政治の存在自体にとって大きな危険は、人びとが権力をとるために競いあうことではなく、権力を欲しないことなのだ。

ジャン・ボードリヤール『悪の知性』p204-205

人びとは政治家が自分の無用さ、不誠実、腐敗を告白することをつねに期待している。われわれは彼の演説や日頃の行ないについて、最終的にその欺瞞が暴かれることをつねに待ちかまえている。だが、われわれはそれに耐えられるだろうか。というのも、政治家はわれわれ自身の仮面であり、もしわれわれがそれを引き剥がすとしたら、われわれは剥きだしの責任に直面する危険があるからだ。まさに彼のために、われわれが放りだしたあの責任に。

ジャン・ボードリヤール『悪の知性』p207-208


ここに、シロクマ先生の疑問を解くもうひとつのヒントがあるように思います。


社会全体で「トロッコのレバー」を確実に引いてるはずなのに、誰も「人殺しの顔をしていない」のはなぜか。


それは、みな「レバー」は政治家に託したから自分たちのせいではないと「思っているから」です。
もしくは「思おうとしているから」でしょうか。



これを民主国家の主権者たる国民として覚悟が足りないと責めることもできるでしょう。

でも、やっぱり「トロッコ問題」が示す通り、善良なる人たちにとって「レバー」は重すぎる存在だったのだと思われます。


死刑執行人も複数人で同時にボタンを押して、誰が直接的な執行者だったかわからなくしてると聞きます。

それだけ命を背負うのは人にとっては厳しく重いことです。


いくらでもいつまでも耐えろというのは多分酷なのです。

防衛機制が働いてもおかしくない。



だから。



コロナ禍も2年以上が経ち、国民の中でも比較的握力が強かった人たちでさえ、一人また一人と重すぎる「トロッコのレバー」から手を離していった。

そして、犠牲者の顔を見れば見るほど、なお一層辛くなるから見ないようにした。

できる限り犠牲者の顔を見ないようにするためには、その窮状アピールを取りあげないのがちょうどいい。

コロナの感染者数の状況なんて、毎日の日経平均株価のニュースのようにさらりと流してしまえばいい。

医療が逼迫してるかどうかなんて、積極的に知りにいかなければ問題ない。

もう日常になったのだ。

犠牲者なんていないんだ。

さあ、お祭りに繰り出そう。

別になにも自分のせいではないのだから。


……と、こんな調子で「誰もレバーを握ってない顔をしてる社会」が生まれたのではないでしょうか。

もっと言えば、「レバーを誰も握っていないのに社会の空気でなんとなくレバーが引かれる社会」が。


これを悪いと見るか、仕方ないと見るか。


これこそ「トロッコ問題」からの私たちへの究極の宿題なのでしょう。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。