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「脱労働」の世代論

世代論というのは、同世代を一括りにして語ってしまう以上、どうしても世代内の個人の多様性を無視した画一的で乱暴な考察になりがちなので注意が必要なんですが、まあ、たまにはいいでしょう。

「縄文時代の人々はこうだった」とか「平安時代の人々はこうだった」とか「江戸時代の人々はこうだった」とかも、言ってみれば世代論みたいなものですし。

なぜ急に世代論についての前置きから始めたかと言うと、ちょうど昨日の話に関して、世代論の目線で見てみると今後の展開の推測ができるかもしれないと思ったからです。

「脱労働」時代が来るぞ、という予測がとりあえずそれなりに妥当であるとして。

では、それはいつどのようにやって来るのか。それを紐解く鍵が世代論にあるんじゃないかというわけです。

まず、この「脱労働」というのはある種の思想転換なわけです。人種差別の撤廃とか男女平等とかと同じく、具体的な何か建物ができたとかテクノロジーが発明されたとかではなく、世の中の人々の考え方が変わることで達成される時代転換です。

もっとも、現実世界の具象的現象が関係ないというわけではなく、むしろめちゃくちゃ関係あるのですけれど、それでも思想転換に「脱労働」の本質が強く依ってることには違いないでしょう。

でもって、人というのはなかなか考え方を変えるものではありません。この性質は必ずしも悪いわけではないのですが(騙されにくいとか一貫性が担保されるとか良い面もある)、悪く言えば頑固で保守的であって、新しい考えはなかなか受け入れられないものです。

科学者のマックス・プランクの名言に有名なものがありますね。

新しい科学の真理が勝利を収めるのは、反対者が説得されるからではなく、反対者が亡くなり、新しい世代がその真理に親しむようになるからである。

A new scientific truth does not triumph by convincing its opponents and making them see the light, but rather because its opponents eventually die, and a new generation grows up that is familiar with it.

これ、「科学は墓とともに進歩する」と皮肉めいた言い方もされます。古い考えの人は生前には考えを頑なに変えないから、彼らが死んで世代交代をすることでようやく人々の考え方が変わっていくという悲しい現実を指摘する、なかなかに面白い名言かと思います。

となると、「脱労働」という思想転換に対して抵抗する、従来勢力の「仕事中心主義」がこの社会から将来抜けていくとした場合、従来思想の人々が考え方を変えるからというよりは、その人たちが退場して「脱労働」の思想に親しんだ新世代が増えるからという展開になる可能性が高いと言えそうです。

実際、男女平等みたいな今や大分普及したと言ってもいい思想転換も(十分浸透したと考えるかは人によるでしょうけれど)、前世代が考え方を変えたからというよりも、男女平等の思想を有した新世代が社会の主力になってきたからという側面が強いことは否めないでしょう。

で、働き方の考え方の面でも、同じような現象は見て取れます。

たとえば、「働き方改革」が出てくるようになったのは、ちょうど団塊世代が定年で仕事の現場から退場した後からなんですよね。これはガンガンに滅私奉公的に働いて会社に貢献することを良しとしていた世代が仕事現場からごっそり抜けたことで、ようやく働き方の問題に手をつけられるようになったと考えることができます。(なお、これは別件の話ですが、引退した団塊世代は今度は社会保険料負担の問題で現役世代とバチバチにコンフリクトしている形になってます)

ただ、ではこれで「脱労働」にまで社会の思想転換が至ったかというと、そこまではならなかったんですね。

というのも、今の40代、50代が「新自由主義」的な過酷な社会を生き抜いた、いわゆる「氷河期世代」なためか、なにかにつけて「仕事を努力してスキルアップ・キャリアアップして世知辛い世の中を生き抜かねば」みたいなことを言う方々であるからです。

確かに滅私奉公的なマインドからは抜けてはいるんですが、今度は「個の生存のために必死で働かなければ」という自己中心的・利己的な思考によってドライブされていて、また別のロジックでの「仕事中心主義」が保存されているわけです。なんなら「自分の利益のためなら会社だって利用してやるぜ」と言わんばかりの生き馬の目を抜くような生き方ですね。

この世代、自世代の過酷な境遇に対する憤りが「このひどい社会環境を次世代には残さないでおきたい」という想いにつながる人も少なくないのですが、そうではなくこの「過酷な社会環境」を永遠不変の所与の前提として置いている人の方が多いように思われます。

別にこの状況が良いとは思っていないけれど、これは変えがたい現実だから仕方がないという諦め感が見て取れます。この現実に文句を言うのは重力に文句を言うような愚かなことだと言う人もいますね。良くも悪くも、自身の経験した社会環境が個人の思想の内に見事インストールされてるわけです。

なので、この40代、50代世代は、「脱労働」的な考え方に対しても、なんだかんだ個々の自由を愛する性格から「まあ好きにやったらいいんじゃない」と言いながら、「それでどうなってもしらんけどね」という自己責任論的な冷たい目線を注ぐ面があります。結局は「努力して仕事にフルコミットしてこそ(あるいは抜け目なくこの世の中を泳いでこそ)、この社会で生存できる」という感覚に基盤があるわけです。

その感覚が、「現実として社会というのは過酷なのだ」という客観的事実認識であるのか、実は「我々世代がそれで苦労したのだからこれからも過酷な社会でないとズルい」という主観的信念なのかは、とても興味深いポイントと思うのですが、いずれにせよ、こんな調子でまだ今の40代、50代は「仕事中心主義」が主流のままと言えましょう。

そして、40代、50代というのは、まさに仕事社会で脂が乗ってるメインプレーヤーですから、現状、発言力が強い世代となっています。なんだかんだ年功序列的な思想も根強い日本社会ではなおさらそうでしょう。

そういう彼らが考えを改めることがないならば、「脱労働」が社会に実効的に広がるためには世代交代を待つしかなくなるということになります。

40代、50代の発言力が強いということは、自然と社会の中で彼らの発言が目立って多くなるということでもあります。

Web記事でもSNSでも書籍でもなんでも「社会をどうやって生き抜くか」「どうやって合理的に効率よく成功するか」みたいな言説が盛んに飛び交ってます。これを見ると、未来永劫こうした過酷な生存競争社会が続くのではないかと思わされますよね。

でも、そうした発言が多いのは、彼ら世代がちょうど今のメインプレーヤーであるからに過ぎない可能性があります。言ってしまえば、彼ら世代の固有の世界観をただその発言力の強さのままに披露してるだけなんです。

しかし、「お国のために」とか「会社に滅私奉公する」みたいなさらに古い世代の方々の思想が、その世代が現役の時には当然永遠に続くはずの常識的価値観としてとらえられていたにもかかわらず、結局あっさり主流の座から引きずり下ろされたように、世代が交代する時の思想の転換っぷりは侮れません。

今の40代、50代の世代は、そもそも自分たちもそうした前世代の思想を転換した経験を持つ張本人であるにもかかわらず、なぜか自分たちの価値観は未来永劫保存されると考えている節があるのは、少々滑稽と言わざるを得ません。


とはいえ、江草も世代交代で価値観は変わりうると言っているだけで、ほっといても必ず変わると言っているわけではありません。

今の価値観が未来永劫保存される保証がないのと同様に、今の価値観が必ず変わるという保証もないのも事実です。もっと言えば、たとえ変わるとしてもどのような方向に変わるかの保証もありません。

だからもし「脱労働」が次の時代に来ると思うなら、いえ、来るべき、、、、だと思うなら、世代交代を見据えた何かしらのアクションを取るべきなのかもしれません。

確かに昨日の記事で語ったように「脱労働」の機運は高まってはいるとは思われますけれど、それは確実な時代到来を保証するものではないのです。

あいにくの少子高齢化のせいで、そもそもの社会成員における世代交代の速度が遅くはなっていますけれど、それでも年齢中央値が毎年1歳ずつ上がって永遠に追いつけない「アキレスと亀」というわけではないので、いずれは今の次世代が社会のメインプレーヤーとなる時は来ます。

その世代交代の時に果たして「脱労働時代」が来ているかどうか。

その結果を運命に委ねるか、積極的に動かしに行くか。

各個人がここで試されてるなと思います。


おいっ!脱労働時代!!

来るのかい?

来ないのかい?

どっちなんだいっ!?

……。

……くーるー!

パワーッ!


お後がよろしいようで。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。