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それは単純因果か相互因果か

世の中、何につけても単純因果のモデルに基づいた言説が多い気がしていて。

それはそれでダメってことはないのですが(理由は後述)、それがやっぱり一面的な話に陥りやすいという点は注意した方がいいんじゃないかなあと思ってはしまいます。

つまり、本当は相互因果的な関係の現象を、その(自分に都合の良い)片方の因果の側面だけ切り取って単純因果として描いてしまってるんじゃないかと。


はて、さっきから江草が言ってる、その単純因果、相互因果とやらはなんじゃらほい。

他力本願的に書籍の解説を引用しましょう。

YがCを決め、同時に、CがYを決める。
YもCも、この相互作用のシステムによって一遍に決まる。
C(消費)とY(国民生産=国民所得)の二者のどちらか一方が、他方を一方的に決めるというのではない。
どちらか一方が原因、、となって他方が結果、、となるのではない。
CもYも、双方、、共、原因となり結果となり合う。
もしどうしても、原因(cause)と結果(effect)という言葉タームが使いたければ、次のように言える。
相互作用のシステムが原因となって、その結果としてYもCも同時に決まる。
これもまた因果(関係)であると見るならば、これを、同時因果 (simultaneous causality)と言う。また、相互因果(mutual causality)とも言う。
これに対し、一方的な因果、つまりAが原因でそれによってBが決まる因果(A→B)を単純因果(simple causality)と言う。あるいは線型因果(linear causality)とも言う。

小室直樹 日本人のための経済原論 (pp.337-338). 東洋経済新報社. Kindle 版.

これは経済学的な視点での用語説明となっていますが、本稿では経済学に限らない一般論を考えていくつもりですので、経済学的な要素はあまり気にしないで大丈夫です。

つまり、単純因果とは(A→B)みたいな一方的な因果関係で、相互因果とは(A⇄B)のように双方とも互いに影響を同時に与えてる因果関係を指しています。

で、実際には相互因果(A⇄B)である現象について、「BなのはAのせいだ。Aを止めろ!」と言う人がいたとします(ここでは悪い現象が起きていてそれに対しどうすべきか議論が発生している場面のイメージです)。
これ、必ずしも荒唐無稽とか間違いであるとは言えないわけです。
なぜなら相互因果(A⇄B)の中に(A→B)の因果関係の成分は確かに含まれているからです。
ただ、その人は同時に(B→A)という逆方向の成分については無視しているのも事実でしょう。

だから、ここで、往々にして逆に反論する人が出てきます。「逆だろ。BのせいでAになってるんだから、Bを止めろよ!」と。
これはこれで必ずしも間違いではないのです。
先ほどと同じく、相互因果(A⇄B)の中に(B→A)の因果関係の成分は確かに含まれているからです。
ところが、これはこれで(B→A)の成分を強調するがあまりに、(A→B)の成分を無視していることになってしまってます。

すなわち、双方ともに必ずしも間違ったことを言っているわけではありません。ただ、双方ともに現象の片側しか注目してないがために、問題の総体を俯瞰して見れていない、文字(記号)通り平行線(⇄)の議論になってしまうのですね。

この議論が堂々巡りになるのは、良くも悪くも双方ともに一面の真理は捉えてるというこの性質が効いてます。どちらも理屈は通っていて主張の筋も悪くないし、客観的根拠(エビデンス)も探せばいくらでも見つかります。
だから、自身の主張が間違っていると疑う理由もない(実際間違ってるとは言えない)。「自分は正しいことを言っているだけである」という立場を捨てる必要がない。これに反論してくる方こそ誤っているのだと。そして立場上(信念やポジショントーク的に)自説を固持することが重要であるのなら、なおさらその自身の主張を疑うことはないでしょう。

この一方向性の単純因果視点に固執することの問題は、その主張内容そのものの誤りにあるのではなく、「自説が正しい時には真逆の主張は必然的に誤りであるはずだ」という誤った暗黙の前提を抱いてしまっていることです。
でも実は自説が正しいからといって必ずしも真逆の主張が誤りであるとは限らないわけです。両方が同時に真として成り立つことがある。
つまり、自分が主張する方向での単純因果が真であったとしても、逆向きの因果も真でありうるのだという可能性を忘れているのです。勝手に「両者が背反である」と思い込んでしまっています。


抽象的な話が続いたので、具体的な事例を見ていきましょうか。

まず、せっかく引用文が経済の話だったので経済の話から。

まさに引用箇所の後にはその話が続くのですが、相互因果の典型例はいわゆる「スパイラル」です。デフレスパイラル、インフレスパイラルどっちでもいいですが、ここではデフレスパイラルで見てみましょうか。

「人々の所得が減る」と「消費が減る(商品が売れない)」。
「消費が減る(商品が売れない)」と「人々の所得が減る」。

便宜上めちゃくちゃどシンプルにした構造ですが(「物価が下がる」とか省いてます)、これがデフレスパイラルの不景気悪循環の相互因果なわけです。

この不景気から脱するために、「賃上げをしろ」と労働者側は言います。確かにそうして人々の所得が上がれば消費が増えて(商品が売れて)景気が回復しそうです。

ところが企業側はこう言います。まず景気が回復してから(商品がたくさん高価格で売れるようになってから)でないと賃上げはできないと。これも気持ちは分かります。企業としても無い袖は振れないのだからまず儲けがでてからでないとどうにもできないのは事実でしょう(本当は資産を隠し持ってるはずだとかそういう話はここでは置いときます)。

だから、企業側の論理としては「賃上げのためにはまず商品をたくさん売れるように社員が一層努力して生産性を上げてからだ」みたいな話になっていきます。

こうした個別の企業努力が全て意味がないとまでは言いませんが、そもそも人々の所得が少ないと、それはそれで無い袖は振れません(消費を増やせません)。結局は、そうした大きな要因が改善されないと消費増には自ずと限界がありますし、企業同士のレッドオーシャン的な競争が激しくなるだけでしょう。

今回は「デフレスパイラルの脱し方の解説」が目的ではないので(というか江草の手に余る難題です)、詳細を追うのはこの辺にしておきます。

ここで言いたいのは、労働者側も企業側も往々にして自分の都合の良い因果の方だけを強調するということです。相互因果の問題を単純因果に切り取ってしまいがちなんですね。

繰り返しになりますが、これはどちらかが間違ってるとかそういう話ではありません。どちらも間違ってはないけれど、どちらも偏ってる。そういう話なんです。


他の例も見てみましょうか。

相互因果問題については、女性に対するアファーマティブアクションの是非の議論も典型かなと思います。

最近でも東大で女性の学生が少ないことを問題視するキャンペーンが張られているようです。

女性に対して「高学歴は必要ない」「家庭を守るべき」みたいなステレオタイプな見方をする社会の圧力があり、それが「言葉の逆風」として女性の進学の妨げになってるとする立場のものです。

現行のNHKの朝ドラ『虎に翼』も、この女性に対する役割偏見の問題がひとつテーマになっていると聞きます。

つまり、依然として女性に抑圧的な社会の環境や文化の至らなさが女性が本来可能な活躍を妨げている。こういうロジックですね。

こうした「ステレオタイプ脅威」的なロジックについては、再現性の問題も指摘はされているものの、直観的には確かに現にあるだろうと感じますし、どうにかせんといかん問題だなと江草も思います。


ただ、一方でこの問題については逆向きの批判も常に存在しています。

東大に女性が少なかったり、企業の重役に女性が少ないのは、高偏差値大学やSTEM系の学部への進学を避けたり、あるいは大きな責任のある仕事を避けて家庭に入ることを女性自らが選好しているからだろうと。

現に女性たちが上方婚(自分よりも高い社会経済的地位のパートナーと結婚すること)を望む傾向があるからこそ、男性は女性よりも高い社会経済的地位にあらねばならなくなっている。まず、女性たち自身がその甘えをやめて、下方婚も許容したり(家計を支える大黒柱となる)、STEM系学問を積極的に修めたり、重責のある役職に家庭を省みず粉骨砕身して挑む姿勢を見せるべきだと。

つまり、女性本人たちに自ら道を切り開こうとしている意欲や姿勢が見られないからこそ、その結果として男女人数差が生まれてるのであって、環境や文化のせいにするなという立場ですね。

この主張には、結局は当の女性本人たちの選好のせいで男女差が生まれているのであれば、「なんだかんだ言って女性は研究や仕事に打ち込むことを途中でやめて家庭に入るんでしょ」という色眼鏡で見る「統計的差別」が生じるのも仕方がないという含意があるでしょう。(もっとも、それはそれで堂々たる差別には変わりがないのですが)


総合するとこういうことになるわけです。

「女性は家庭にいるものだ的な社会文化になる」→「女性が進学・出世しようとしない」
「女性が進学・出世しようとしない」→「女性は家庭にいるものだ的な社会文化になる」

この相互因果の構造であると。

もっとも、「女性が進学・出世しようとしない」というのは、内心の話を指しているので、その真偽の判定は極めて困難なんですね。その選択が、自由意思なのか(内発的なものなのか)、外部環境(構造)に条件づけられた適応的選好にすぎないのか(外発的なものなのか)は、どうにも究極的には確定しがたいところがあります。

「適応的選好」の解説は、例によって書籍を頼りに他力本願しておきます。

 また、「女性は男性に尽くすのが当たり前」と教えられている男女不平等の社会を考えてみよう。そのような社会で育ちそれに適応した選好を持つ女性は、男性に尽くすことによって幸福感を得ることになるだろう。ここには上のインド人女性の話と同様の構造がある。男性に都合のよい選好を抱くように育てられてきた女性は、そのような社会に問題を感じておらず、たとえ問題点を説明されても何が問題なのか理解できない可能性がある。そして、男性に尽くしたいという選好が叶い、幸福感を得られているのなら、何も問題ないではないかと言うかもしれない。だがはたして、そのような社会に住み、自らの望みが叶えられた女性は、本当に幸福なのだろうか。
 このように、非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために通常は必要だと思われる選好を持たなくなる可能性がある。これを適応的選好の形成と言う。選好が充足されたかどうかだけで幸福を計ることが問題なのは、この適応的選好形成があるためである。

児玉聡. 功利主義入門 ──はじめての倫理学 (ちくま新書) . 筑摩書房. Kindle 版.

原因が内部にあるのか外部にあるのか問題の厄介さについては、以前記事にもしています。

だから、「女性が進学・出世しようとしない」→「女性は家庭にいるものだ的な社会文化になる」という方向の因果の見立てについては、「そんなことはない(それは適応的選好にすぎない)」と反発する意見は多々出るでしょうし、現に出ています。

ただ、適応的選好の可能性が否定しえないことは、それが100%「適応的選好」成分であると判断するのが正しいことを意味しません。適応的選好の可能性が否定し得ないと同時に、自由意思による選好の可能性もまた否定し得ないところが、この問題の厄介な点です。それを忘れて一方に肩入れするのはやっぱりフェアではないのです。

(余談ですが、「適応的選好」のロジックを濫用すると、最終的には外部環境の条件によって決定論的に選択してるだけの自由意思を持たないゾンビのような人間像に至る点も、「環境のせいだ」ばかり言う態度の微妙なところです)

ここは、正直なかなかにナイーブな問題ではあるのですが、江草個人的にはこの女性アファーマティブアクションの議論の裏返しである、男性アファーマティブアクション問題を経験的に実感してるからこそ、あえて指摘してるところがあります。

詳細は以前この記事で語ったところですが、

女性が進学やキャリア形成に依然として社会的抑圧がかかってるというのと同様に、男性に対しても家事育児参画に依然として社会的抑圧がかかってます。「男なら仕事だろ」という空気感はもちろんのこと、ベビールームで男子禁制みたいなところもまだまだありますし、育児グッズや育児支援サービスにはびこる「ママたちへ!」みたいな父親無視のキャッチコピーも不快感を覚えないかと言えば嘘になります。

そして何より、他ならぬ女性たちからこそ「旦那が育休とっても邪魔なだけ」などの心無い言葉が時に投げ掛けられています。あるいは女性(妻など)が男性の育児家事スキルを一方的に批評・指導するような企画やコメントもしばしば見られます(逆はない)。上から目線で、男性が育児や家事をすることの意欲や質をハナから疑われてるのです。
しかし、これはまさに先の女性進学に対してぶつけられる「心無い言葉」と同類なのではないでしょうか。

つまり、「言葉の逆風」という意味では、男性の家事育児参画にも同じような逆風があるわけです。

女性に対する進学やキャリア形成の抑圧を取り除くべく女性に対するアファーマティブアクションが進められるなら、同様に男性に対する家事育児参画のアファーマティブアクションも進めてもいいのではないかという提言が先ほどの記事でした。

だから、男性が家事育児に参画するための社会的抑圧を取り除くべきと江草自身も思っているわけです。

しかし、それと同時に、確かに実際に家事育児に参画する気がない男性陣がいることにも気づいています。十分ではないにせよ、男性が家事育児に参画するための制度や雰囲気はできてきてはいます。でも、動かない。

確かに社会的な逆風はまだある。まだあるんだけれども、それでもそれに立ち向かって行く気概はないのかいとモヤモヤしないかと言えば嘘になります。特に、それなりに恵まれた余裕がある立場で実際に参画可能な立場にあってもなんやかんや言って動こうとしない、そうした男性陣にこの状況に対する責任がないとも思えないわけです。

以上のことをまとめて相互因果の構造にセットするとこうなります。

「男性は仕事をするものだ的な社会文化になる」→「男性が家事育児しようとしない」
「男性が家事育児しようとしない」→「男性は仕事をするものだ的な社会文化になる」

ここで、江草は「男性は仕事をするもの」的な社会的抑圧を問題視すると同時に、「男性自身が家事育児しようとしてない」という意志の問題も指摘しているわけです。つまり、双方向の相互因果の問題であるとしてこの現象を捉えています。

だから、女性の進学・キャリア問題についても、その社会的な抑圧を問題視すると同時に、その本人達の意志の問題もやはりあるだろうと思うわけです。後者の問題をまるで存在しないかのように語るのはそれはあまりに偏った考え方であるし、もしそうするのであれば、男性陣の家事育児参画の意志や質について批判することは許されないでしょう。


さて、男女共同参画問題についつい深入りしてしまいましたが、本題はこれではなくって、相互因果の話でした。

上述の具体例で分かる通り、双方向の因果にもかかわらず、自身の都合の良い片方向の因果ばかりを強調するというのはありがちなわけです。しかし、それは問題の一側面しか見ていないがためにあくまで偏った言説です。

そして、社会問題においては、往々にして、それぞれのポジションが両岸に分かれるがために、それぞれが自分の都合の良い方向の因果だけを強調して、余計にこの相互因果が拮抗して外れないという「囚人のジレンマ」に陥っているわけです。双方が自分の立場視点で合理的な行動を取ってるのに、全体として悪循環が止められないという非合理が生じるという「合成の誤謬」の典型例とも言えます。

それぞれが合理的であり、しかも上述の通りそれぞれある意味で「正論」は述べているという点で、結局スパイラルから脱せられない、これが相互因果の問題が大変に厄介な理由なんですね。


では、こうした相互因果問題を脱するにはどうしたらいいでしょう。

もちろん、大変な難題なのですが理論的にはいくつかの方向性はありえます。


まず、強引に一方の因果を断ち切ることで解決する方法。

先のアファーマティブアクションがまさにそうなんですが、とりあえず強引に「女性を高学歴・高キャリアの地位につけてしまう」。これによって相互因果の片側の要素である「女性が進学・出世してない」を破壊するわけです。これで因果が回り続けるスパイラルは解消はされるのですが、一方的に片方の要素だけを解消するがために、逆側の立場のステークホルダーからの強い抵抗に遭うことになりますし、実現したとしても対抗側の者がかなりの不遇な立場に追いやられうるために、新たな問題の火種となるというデメリットがあります。

冒頭で「単純因果ばかり強調することもダメってわけではない」と書きましたが、これは要するに、この「一方の因果を破壊する」という解決方法を志向するという意味では有効な可能性もないわけではない、というニュアンスであったわけです。ただ、上述の通りかなり問題含みで粗暴なパワープレイなのもあって、個人的にはあんまり好みではありません。


次に考えられる方法は、両方の因果を同時に解消しようとすることですね。

双方向の因果が回り続けるのが問題なので、同時に抑止することができれば問題は緩和しえます。これなら片側の立場に偏って肩入れすることもないのでフェアでもあります。

ただ、冒頭で問題提起した通り、よくもわるくも単純因果モデルで議論に参入してる人が多いせいで、この相互因果モデルによる同時介入というのは「弱腰に見られる」というか、「こっちにも責任があるみたいに言われるのは心外だ」となりやすいんですよね。「自分のせいではなく外部の誰かのせいだ」という立場に多くの人が固執してるので、「自分のせい」の要素を認めることに寛容ではない。だから、同時介入の提案は、片方から怒られるどころか、(まことに悲しいことに)双方から怒られるおそれすらあります。

だいたいこの「同時に」というのが実際には難しい。「社会からの抑圧」みたいなあいまいでとらえどころがない要素を扱うならなおさらです。往々にしてこうした社会問題には相互不信が背景にあるために、「こっちが先に折れたらこっちに不利な条件が既成事実化されてしまう」と警戒するので、「やってもいいけどそっちが先にどうぞ」となりがちです。これはこれで結局は相互因果から抜け出られていません。


他では、非合理的選択という方法もありうるでしょう。

先ほど、各自が合理的な判断をしてるからこそ全体としては非合理的になっているという説明をしました。なら、それぞれが非合理的に動けば相互因果のロックが外れる可能性がありうるわけです。

不遇だからその道を進むのはやめるとか、金銭面での期待値が低いから避けておくとか、安定してお得で一般的な王道を行こうとか、そうした妥当で賢明な判断ではなくって、「うるせー、知るか」と叫びながら衝動の導くままに逸脱した道を行く。いわゆる"Stay foolish."ですね。そうした非合理と反逆の精神がある程度広まれば(全員がそうである必要はないです)、もしかすると社会の空気は変わるかもしれません。

とはいえ、今や合理主義が席巻する社会です。これだけ合理的にスマートに生きるのが称揚されてる時代の中で、あえて非合理的な道を歩もうということこそ、逆風が吹いているとも言えます。そういう意味ではこの方法にもなかなか実現性は期待できないかもしれません。

しかし、最近でも『人生のレールを外れる衝動のみつけ方』という書籍が出たことからしても、合理主義過ぎる世の中を嫌気した、「非合理的に生きたい」という人々の想いがふつふつと湧き上がってきているようにも感じられます。

この想いが今後解放されるのか否か。果たしてどうでしょう。

(なお、上記の本の主旨としては、別に完全に衝動的に非合理にむちゃくちゃに生きることを推奨しているわけではないことは、誤解無きよう注記しておきます)


最後にもう一つ思いつく方法は、相互因果外からの触媒的な介入です。

因果そのものに手を入れるのはあきらめて、因果の外部からそのスパイラルが回るのを抑制する何かしらの方法を考えるという作戦です。

長くなるので想定している細かい具体的なメカニズムはここでは語りませんが、たとえばベーシックインカムみたいな直接的にはどちらの因果にも関係ない仕組みを導入することで、間接的に相互因果のサイクルを減速するみたいなイメージです。

社会はもちろん単一の相互因果で動いてるわけではないし、その因果も他の外部因子から独立してるわけではないので、そうした触媒的な介入がなりたちうる可能性はあるわけです。

考えがいもあるし創造的で面白い作戦ではあると思うのですが、難点としてはそれこそこの相互因果を俯瞰して見る視点を持つことが必要であるということと、間接的すぎて結局は支持が得られにくいだろうという点が考えられます。

そもそも単純因果に固執する言説が多いという話から始まった本稿ですから、相互因果をみなが俯瞰して見られるようになることがまずハードル的課題です。

そして、間接的すぎるということは、その説明も複雑かつ抽象的になるので「ほんまかいな、それで解決するんかいな」となりやすいということです。実際、社会がカオス系であるのもあって、どんな介入も絶対成功の確証が得られるわけでもありません。「この相互因果モデルと考えるとこうした間接的な介入が効果を発揮するかもね」というレベルにとどまります。

それでみんなが「それで行こう」とすっきり信じて乗ってくれるのであればいいのですが、そうやってみんなで一致団結するのが難しいからこそ社会問題が存在しているということを考えると、なかなかに実現可能性という意味では不安が残るところであります。



というわけで、長々と語ってきましたが、本稿で言いたかったことは要するに「その問題、単純因果じゃなくて相互因果かもよ」ということです。

先にも述べた通り単純因果モデルのままで強行突破する手もないわけではないと思いますが、江草的には相互因果を相互因果のまま認識した上でどうするか考えるのが好きだなあと思って、あえて相互因果モデルへ導く指摘をしてみた次第です。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。