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自由競争のfight or flightパラドックス

昨日書評を書いた『テクノ・リバタリアン』を読んでいたり、あるいは先日の学会での某教授の発言を聞いてる時などでも感じることなんですが、自由競争を煽る人によく見られる矛盾があるなと。

いや、みんなけっこう好きじゃないですか。「自由競争で切磋琢磨してスキルを高めよう、生産性を高めよう」みたいな言説。

この言説、大好きな人と大嫌いな人に両極に分かれると思うんですが、(もしかすると意外かもしれませんが)江草自身は実はけっこう好きだったりします。競争の良さや、あるいはそのゲーム的楽しさというものは認めてます。

ところが、その一方で、世の中でこういう言説を声高に謳う人たちの態度には何とも言えない微妙なものを感じることが多いんですね。

なぜかと言うと、「自由競争すべし!」と言っておきながら自分は競争する気がさらさらなさそうだからです。

たとえば、ある人が「公平に自由に競争すべきだ!」と言っている。なるほど、そうかもしれません。ところが、その当の本人がルールに則って不利益を被る事態が起きた途端に「不公平である!」と言い出す。

もちろん、これはあえて抽象的に話してるので、本来はその都度具体的に検討する必要はあるんですけれど(本当に不公平なケースもあるでしょう)、どうもこうした態度から透けて見えるのは、要するに「優秀な俺が負けるような競争ルールは不公平に決まっている」というものなんですよね。

自分が勝てるルールは公平で、自分が負けるルールは不公平である。うん。あまりに必勝すぎる最強ロジックです。

これが面白いのは、つまりは競争を煽ってる本人がそういう必勝ポジション(安全地帯)を確保していて、全然競争する気がなさそうということです。

この点は、某教授にも言えることでしょう。
「医師同士が競争して能力を磨いて切磋琢磨すべし」。ふむ、なるほど、そうかもしれません。
でも、当の本人は終身職の教授に就いていて、業界内での地位や名声も確立している。言ってしまえば勝ち逃げが決まっている立場です。競争を煽ってるわりには、本人はまず競争に参加する可能性がなさそうという矛盾がここにあります。

もちろん、これは仕方がないところもあるんですよね。「ルール作りは時の強者しかなし得ない」というのは、悲しいかなこの世の現実です。だから、既に強者となってる者、すなわち競争において安全地帯にあるか、少なくともとても有利なポジションの人が、競争ルールを整備するしかない。

ただ、こうした競争ルール整備に言及する時に、もうちっと謙虚であってもいいんじゃないかとは思うんですよね。
こと、「競争が大事」という立場を示すのであれば、それこそ「競争」に対するリスペクトの姿勢を見せて欲しい。自由競争主義者が自由競争を尊重してなかったら、それはあまりに矛盾した態度でしょう。

ところが、実際の彼ら自称「自由競争主義者」の言動は、いかに自分たちを競争からの安全地帯に置くか、あるいは、いかに自分たちの優秀性を誇示できる競争ルールを作れるかを志向している感じなんですね。

競争主義者こそが往々にして競争を避けてるという矛盾がここにあるわけです。


まあ、実のところ、(広義の)競争においては、fight(闘争)ではなくてflight(逃走)こそが基本戦略であるということはよく言われてます。

「自然界は弱肉強食で適者生存なんだ」云々は、(自称)競争主義者が好きなクリシェですが、自然界こそいかに各生物が競争を避けてニッチな安全地帯に逃げ込めるかを志向して進化してる代表例でもあったりします。

つまり、競争のルールをいじって「自分が競争しなくていいようにする」のはある意味で王道の戦略であってことさらに責められるようなことではないのでしょう。言ってみれば「競争ルールをいかに自分に有利に書き換えるか」こそが真の競争なのでしょう。

ただまあ、世の競争が結局はそういう「ルール書き換え競争」というflight(逃走)的な競争となってしまうならば、スローガン的に掲げられてる「自由競争で切磋琢磨してスキルを高めよう、生産性を高めよう」という事態には当然ながらつながりません。
これは、あくまで、アスリートが自身の鍛練によってタイムの1分1秒の短縮を図ろうとしてる時や、あるいは将棋の棋士が対局で相手を打ち負かそうとする時のような、競争のルールが確立されておりそのルール上でfight(闘争)的な意味で競争する時にこそ成り立つストーリーですから。
fight(闘争)する気がなく自分が有利なルールを作ろうとしてるだけのflight(逃走)的な自称競争主義者がこれを提言するのはなかなかに矛盾してるんです。

もっとも、この自己矛盾を隠し通すこと自体も彼らのflight(逃走)的な競争戦略における重要な1パーツなので、彼らが決してこのことに触れないのは自然なことなのですが、江草は性格が悪いのでついついこのように指摘しちゃいます。てへぺろ。


こうなると気になると思うのが、「ではfight(闘争)的な競争はどうやったら成立しうるのか」ということでしょう。

これは非常にクリティカルな難題で、江草自身「どうしたもんかね」と日々頭を悩ましてるところなんですけれど、めちゃくちゃざっくりした私見だけは置いておきます(本当は本稿で書きたかったことは上の話までだったのでここからは余談なのです)。

おそらく、何事も過酷な生存競争になればなるほどむしろflight(逃走)するんだと思うんですね。

たとえば、(物騒な例えですが)オリンピックで金メダリスト以外は全員処刑されるというルールであったとしたら、みんな必死になりますよね。
でも、必死と言っても、がっつりfight(闘争)するというよりは、いかにイカサマ(ドーピングなど)をして有利になるかというflight(逃走)的な意味の必死さになるはずです。
というより、そうなったらほとんどの人はそもそもオリンピックに出ようとしないでしょう。これすなわちflight(逃走)です。

つまり、flight(逃走)の選択肢が閉ざされてるか、もしくは「flight(逃走)しなきゃ」という危機感がない心理的安全性が担保されてる状況においてこそ、ようやくfight(闘争)が始まるわけです。

で、世の中は前者を志向している感じがあります。逃げ道を塞ぎ、追いつめたら背水の陣的にみな闘うだろうと。ところが、現実の世の中はスポーツやゲームと違ってあまりに自由度が高いので、逃げ道を完全に塞ぐことはできず、たいがいはどこかしらのニッチに逃げ込むことになるわけです。ホモ・サピエンスの適応力をなめちゃいけません。

「進め一億火の玉だ」みたいなスローガンで洗脳したり、逃亡兵を撃ち殺す督戦隊みたいなものを設置して無理やり逃走を防ごうとすることも歴史上あったとは言え、ここまで来るともはや自由競争が志向してる(はずの)自由主義からかけ離れたファシズム体制に陥ってしまいます。

だから、fight(闘争)を促したいなら、結局は後者の「危機感がない心理的安全性を担保すること」が重要になるんじゃないかというのが江草の感覚です。

特に経済的な文脈で言えば、無条件に万人に金銭が給付されるベーシックインカムが、そうした安全性を担保する装置の一環として立ち現れてくるということになります。まあ、いわゆるセーフティネットというやつですね。

つまり、真の競争主義者こそ、「これは過酷な生存競争だぞ」みたいに危機感を煽るのではなく、「負けても大丈夫だから存分に闘おうね」というゲーム的な感覚で競争を勧めるはずなんじゃないかなあと、江草個人的にはこうイメージしているのです。

世の中のアスリートやスポーツ選手、あるいはゲーマーを見ていても分かると思いますが、そうした本質的には生存がかかってない遊戯的な競争であってなお、案外人は必死に真剣に闘うものなので、セーフティネットの拡充で人々が競争しなくなるというのは、杞憂なんじゃないかなあと思っています。(あくまで直観的な個人の印象ですけれど)

なお、必死で逃走(flight)した結果たどりついたニッチこそがイノベーションの種みたいなところもあるので、ニッチを目指さなくなるのもそれはそれで寂しいものがあるのですが(江草はなんだかんだイノベーション好きなんですよね)。

いやはや、fight or flight問題は奥が深いですね。


(参考)


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