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ノンクリティカル・ノンビジネス・パラダイムの医療界

今日は、先月開催されていた日本医学放射線学会総会の内容を踏まえてのお話です。

こないだ放射線科医アカウントの雄@economics_dr先生が、学会の特別企画の内容について激おこされてたんですね。

(↑この後、スレッド続いてます)

ご存知の通り、働き方改革は江草としても関心の高いトピックですから、この放射線学会公式による働き方改革のセッション企画は気にはなっていたんです。ただ、配信が開放されてからもしばらくなんとなく腰が重くてまだチェックしてなかったんですね(学会の講演や企画の動画は現地参加だけでなくオンデマンドでWeb視聴もできるのです)。

ですが、この度ようやく、この@economics_dr先生の激おこっぷりに促される形で、江草も特別企画の配信動画を視聴してみたわけです。(ちなみに他にも怒ってらっしゃる先生は観測されました)

江草のnoteでは非放射線科医および非医療界の読者の方々も多いと思うので、会員限定でクローズドにしか公開されてない講演内容をことこまかく取り上げることはいたしませんが(学会での心理的安全性の確保にも関わりますし)、視聴した上でのざっくりとした個人的感想ぐらいは述べてもいいかなと。(めっちゃ内輪ネタっぽくてすみません)


さて、@economics_dr先生が既にボコボコに怒ってらっしゃったのもあって、期待値が下がっていたのもあってか、正直なところ江草的にはそんなにひどい内容だったとは思いませんでした。もっとも、節々では「???」となるところも多かったのですが、感情的には意外と落ち着いて見終えれたという感じです。(人はこだわりが強いトピックの時こそ怒りやすくなりますからね)

到底まだまだ十分とは思いませんが、それでも徐々には働き方改革のビジョンが浸透しつつあることは素直に喜ばしいと思いましたし、特に江草と同じように男性育休を取ってる先生の話は共感しまくりで非常に面白かったですね。


で、@economics_dr先生が特に問題視されている某教授の主張も分からないでもないというか「まあ定番の意見ですね」という印象です。自由に転職できるようにして、自分の裁量で動けるようにして、それでいて年功序列を廃して、業務量や質をきっちり測定してそれに応じた報酬を出すべきだと。

つまりは典型的な自由競争主義と成果主義の発想なんですね。自由に競争させて成果に応じた報酬を出すようにすれば良い具合に回るだろうと。

このアイディアは定番ではあるのですが、逆に言えば平凡とも言えます。平凡であるがゆえに、その限界や問題点も既に広く精査されてるところです。(無論、美点もあるわけですが)

昨年にも同じような主張があったので、その時の江草の批判ポストを置いとくことで江草の立場の表明としては今回はこれで済ませておきます。(長文スレッドです)

(なお、余談ですが、「測れないものは管理できない」という言葉は実はドラッカーの言葉ではない上に、文脈を無視し全く逆の意味に切り取った誤用が蔓延してるという指摘があります)

さて、「封建制」とも評されるぐらい依然として前近代的な医療界だからこそ、こうした近代的な「合理化」が輝いて見えるというのは分からないでもないのです。しかし、医療界外の世の中はむしろすでにこうした近代的合理化を実践した上でその限界を感じ取っていて、「このまま矛盾を抱えながらもモダニズムを徹底するのか」「それともポストモダンなオルタナティブに変化するべきか、それは可能なのか」という激論を交わしてる段階です。

だいたい、この「放射線科の業務量をきっちり測定しよう」とかいう話も10年前レベルのずっと昔から言ってる気がするんですよね。世の中が「近代」をどう扱うかで悩んでる時に、医療界が「そろそろ前近代を近代にしようか」とかいうレベルで延々とどまってるのは何とも寂しいものがあります。スマホの時代に「ポケベルを持とう」と言われてるような気持ちで「え、今さら、そこから入るの?」と個人的には感じます。


だからむしろ、企画の具体的な内容よりも断然気になったのは、医療界(学会)のこうした前近代的空気感のほうだったりします。

昨日、山口周氏の『クリティカル・ビジネス・パラダイム』という書籍の感想を書きましたけれど、言わば、医療界(学会)はその真逆の「ノンクリティカル・ノンビジネス・パラダイム」なんですよね。

たとえば、@economics_dr先生も指摘されてる通り、学会でありながら自由闊達な論議が行われてる感じがない。すなわち「クリティカル」でない。

ほんと、特別互いの意見に疑問点をぶつけたり批判したりという仕草が観測されないんですよね。

江草の学会通い経験もそれなりになりますが、「パネルディスカッション」という形式で行われてるセッションで本当に「ディスカッション」が行われてるシーンをほとんど見かけたことがありません。各パネラーが一言ずつ自説を述べて互いの話には言及しない(特に批判的文脈では絶対触れない)ままで「そろそろ時間が来ましたので」で終了するケースばかりです(そもそも討議用に用意されてる時間がめちゃ短い)。

見るたびに「ディスカッションとは何か?」とゲシュタルト崩壊しています。


まあ、実際のところ、相互批判するということに心理的ハードルがあること自体は分かります。特に目上の先生や同業の先生を相手では遠慮してしまう気持ちは自然なところではあるでしょう。あの会場の空気感で率直な批判ができるかと言えば、普通の胆力の人ではまずできないかと思います。

しかし、その空気感こそが問題です。こと学会という場で、しかも「ディスカッション」という題目を掲げておきながら、相互批判的な議論が出ないというのはあまりに「ノンクリティカル」に過ぎるなあと感じます。

もっとも、会場からの質問の場面では、往々にして血気盛んな質問者が立ち上がるためか、批判的なコメントが述べられることがしばしばあります。その時は「クリティカル」らしさがあります。しかし、その質疑応答の時間も限られていたり、一人が長く応答を続けちゃいけないという空気感がありありと出ていて、何とも不完全燃焼の議論のまま終わることが多い印象です。(質問者も当日内容を聴いた直後にすぐさま質問しないといけないので準備不足である側面も大きい)

だいたいのセッションの結論が「もっと議論が必要ですね」などと終わるのに、その目下のセッションで全く議論しようとしてる気配がない。むしろ議論で相互批判して空気が壊れることを恐れてる方が優勢な感じです。

心理的安全性とは言いますけれど、それは相互に批判をせず仲良しこよしでいるという環境を指すわけではありません。相互に批判しても大丈夫、安全だと思える環境こそが心理的安全性の目指すところであって、相互批判をすることで空気を壊すことを総員が恐れてる場というのは、いかに外見上仲良しこよしであっても、むしろ心理的安全性が極めて低い環境と言えます。

場の心理的安全性が低いのが原因なのか、個々のメンバーの勇気が足りないのが原因なのかを区別するのは厳密には難しいのですが、原因がどちらにあるにせよ、相互批判的な議論を展開するのが期待されてる場であるはずの学会において、結果としてそれができていないというのであれば、学会として機能不全に陥ってると言わざるを得ないでしょう。


あるいは、内容的にも批判的吟味をしようという気概が見受けられない場面が多々あります。

こちらは働き方改革ではなく専門医制度に関するセッションの方の話だったと思いますが、発表中の医師数の需給予測についての説明の時に、江草が以前このnoteで批判的に取り上げたグラフを見事にそのまま持ってきて「医師は近いうちに余ります」とさらっと断じてしまったんですね。

なかなかに突っ込みどころ満載のグラフかつデータなのに、それをそのまま受け入れてしまうのはあまりに「ノンクリティカル」に過ぎるなあと思います。案の定、セッション後の質疑応答の場面では「そもそもその医師需給予測はずさんなのでは」的な異議が出ていましたが。

他でも、「専門医制度によって医師の質を担保することが必要」と発表者がいきなり断じてしまう場面も見受けられました。これも「そもそもこの専門医制度で本当に医師の質は担保できるのか(できているのか)」という本来最も重要なはずの論点をスルーして、主流の意見をただ受け入れてるという「ノンクリティカル」な姿勢です。

確かに「(専門医のような)認定制度を作って質を担保しよう」というのは非常に自然で分かりやすいアイディアではあります。ですが、そうした分かりやすい誰にでも受け入れられやすいアイディアこそむしろ立ち止まって批判的に吟味しないと、思わぬマイナスの結果をもたらす可能性があるんですね。

 クリティカル・ビジネスの実践にあたって、アクティヴィストはもちろん、社会的な問題の解決を目指してイニシアチブを起こすわけですが、ここで注意しなければならないのは、複雑なシステムに関する洞察のないままに、問題の症状への対処を行うと、問題は解決されないばかりか、かえって悪い状況を招きかねないということです。
 善意から行われたものであるにもかかわらず、結果的により悪い方向へ状況を変化させてしまうイニシアチブには、三つの共通項があります。

●根本的な問題ではなく、症状へ対処している
●誰の目にも文句なしの策に映る
●短期的には効果がある場合も多い

 このようなイニシアチブの発動に対して、当初の成果に多くの関係者は喜びます。しかし、長期的かつ広範囲の因果関係によって短期的な効果が徐々に損なわれていくことになり、やがて意図せざる、大きなマイナスの結果が生み出されます。

山口 周. クリティカル・ビジネス・パラダイム――社会運動とビジネスの交わるところ (p.193). 株式会社プレジデント社. Kindle 版.

江草個人的にはまさにちょうどこの罠に新専門医制度は陥ってるという印象があります。(個人の感想です)

もちろん、議論の結果、最終的に主流な意見に落ち着くということであればそれでいいと思うんですよ。ですが、最初から大きな課題における主流な意見をことごとく所与の前提として採用した上で「では議論しましょう」たって、逆にいったい何を議論しようというのでしょうか。「自転車置き場の屋根の色を何色にするか」ですか?

山口氏の『クリティカル・ビジネス・パラダイム』でも指摘されてることですが、「クリティカル」とは、暗黙の前提となってる「常識」を相対化して見つめ直す営みです。現行の流れから逸脱せずに、主流な流れの中に思考が乗ったままでは「クリティカル」たりえないんですね。


こんな風に、参加パネラー間での相互批判もないし、会の主題に対する批判的吟味も弱いしで、どうにも「クリティカル」でない。これが名目上は「クリティカルですよ」という立場であるはずの医療界の学会の実情であるのが、江草はただただ寂しく感じるわけです。

ほんと言うと、パネラーとして登場していた患者サイドの代表の方は物おじせず率直に批判的な意見を述べてらっしゃった印象があって素晴らしいなと思ったんですが、それがあくまで「医師でない方」であったというのが、医療界の「ノンクリティカルさ」をより一層際立たせてた気がします。


もっとも、こうした「ノンクリティカル」な装いは、医療界に限った話でもないのでしょう。だからこそ山口氏も社会全体に向けてあえて「クリティカル」の重要性を強調しているところもあるでしょうし。

ただ、ここでこの「ノンクリティカルさ」をさらに助長してると思われるのが、医療界が「ノンビジネス」であるという性質なんですね。

これは別に「医療がビジネスであるべき」と言おうとしてるわけではありません。そうではなく、ビジネスではないがために「ノンクリティカル」を助長する「とある性質」が保持されているという罠を指摘したいのです。

その性質とは「独占」です。

GAFAみたいな巨大企業の専横も取りざたされる中ではあんまり実感されないかもしれませんが、市場原理というのは基本的には「独占」を嫌います。なぜなら、独占企業があると、それだけで自由市場的な価格設定がゆがむからです。だから独占禁止法みたいな法律で市場の健全性を保護しようとするわけですね。「市場の歴史は独占との戦いの歴史である」と言う人もいます。(ここで「市場原理主義と資本主義は一緒くたにされがちだけど実は潜在的には対立してる緊張関係にある」という面白いテーマが立ち現れるのですが、完全に脱線なので今回は割愛)

つまり、ビジネスは「独占」を排する圧力が自然とかかる世界なんですね。(もちろん、そう理想的には排せないからこそ色々ともめ続けているのですが)

で、「独占」が排されているならば、不満があった時に、そこを立ち去ることができます。他にも移住できる場が存在しているので、そういう選択肢が残されます。

山口氏がしばしば言及してる『離脱・発言・忠誠』という書がまさにこのテーマを扱ってるぽいです。(江草は未読)

すなわち、構成員が不満を持った時に、取ることができる選択肢は「離脱・発言・忠誠」の3つのいずれかであると。で、「発言すること」すなわち「クリティカル(批判的)な意見を言うこと」が難しい時には、「離脱」ができるかどうかが選択肢に大きな影響を与えるわけです。それがなくては「忠誠(甘んじて従う)」しか選択肢が残されませんから。

ところがここでご存知の通り、医療界は独占的な業界なんですよね。ビジネスではないからこそ、堂々と(ビジネスでは大問題となる)「独占」が公的に認められてる業界なのです。だから「離脱」が極めて難しい。なにせ同業他社が存在しないのですから。

もちろん、病院や診療所など、医療界の中で個々の医療機関はそれぞれ独立して存在はしています。そうした医療機関を転々とすること自体は可能です。

ただ、これもご存知の通り、日本の医療は全国津々浦々で診療報酬制度や専門医制度等々で事細かく規定され一律管理されています。自由診療であれば多少はその軛から逃れることはできますが、それは美容などの特殊な分野に限られていて、たとえば放射線科業務を自由診療的に続けることは現実には不可能です。

実際、当の日本医学放射線学会も他に移りえるオルタナティブ代替的な放射線学会は存在しないですよね。新専門医制度も「オルタナティブを絶対に許さないぞ」という強硬な姿勢で作り上げられています。

すなわち、いくら物理的には医療機関を移動できても、制度的には離脱できないのです。事実上、これは全国を独占管理している巨大組織の中で異動しているにすぎません。お釈迦様の手のひらの上の孫悟空よろしく、どうしたってそこから出ることはできない。

「離脱」できないのであれば「発言」に頼りたいところですが、「離脱」できないからこそ足元を見られて、生意気な「発言」をする異端者に厳しいムラ社会になる悪循環がここにあります。

だから、みんなの心理的安全性が低くなって「発言」を控える「ノンクリティカルさ」が助長されるわけですね。結果、誰もが目上や周囲の者の顔色をうかがう「忠誠」業界のできあがりというわけです。

これが「前近代的なノンクリティカル・ノンビジネス・パラダイムだ」と江草が医療界を評する理由です。


で、冒頭でちょっと触れた某教授なのですが、「自由に転職して自由な裁量で働けるようにするべき」と、一見すると「離脱」に寛容そうな姿勢を見せているようで、同時に他の場面では「専門医を持たない者は放射線科を標榜できないようにせよ」とも語っています。

これはまさに物理的には個人の移動を許しても、制度的には決して離脱(逸脱)は許さないと言ってる構図に等しいんですね。「教授は親ではないから自己管理せよ」というメッセージも一緒に放っていることを合わせて考えると、管理者(教授)の手を患わせずに個々人が自縄自縛してくれるパノプティコンのような効率的な管理を目指してるとも邪推できてしまいます。

このように、独占業界であり離脱が困難であることと、自由な議論をモットーとしているはずの学術界という装いもあくまで伴っていることからして、医療系の学会ではいかにして積極的に「クリティカルさ」「逸脱への寛容さ」を保つかが重要になるはずなのですが、現状どうもその風土の醸造は十分には達成できてないようです(むしろ逆向きに進んでるようでもあります)。

というわけで、以上、ダラダラと書き記してしまいましたが、具体的な内容面はさておき、こうした医療界の空気感が改めて確認された学会企画だったなあと思った次第です。

いや、実際こうした学会の空気感を今さらどうこうできるかというとかなり難しいので、ただの江草の愚痴にすぎないのですが、まあ愚痴ぐらい言わせてくださいよということでお許しください。

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江草 令
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