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教養として宗教を学ぶ意義

先日『ふしぎなキリスト教』の読書感想を書いたところ、フォロワーの方から小室直樹『日本人のための宗教原論』をオススメいただきました。

うれしいKindle Unlimited対象。

江草が「色々な宗教の勉強したい」と語ったのを受けての迅速なリコメンデーション。とてもありがたいです。

それで早速『日本人のための宗教原論』読了したのですが、いやー面白くて勉強になりました。

内容としてはキリスト教、仏教、イスラム教、儒教という4つの宗教のそれぞれの特徴と違いを解説する比較宗教論的な一冊です(キリスト教を学ぶ上では自然とユダヤ教も学ことになるので実質5つの比較ですが)。

こういうメタな比較って信心深いとかえってできない気がするので、ある意味、多神教的なマインドのある日本人が得意とする論考なのかなあと思ったりもします。


これが面白かったので、さらに派生して儒教や大乗仏教系のアンチョコ本も続けて読んでいます。

NHK関連書籍は初心者向けにわかりやすくまとまった本が多いので助かります。

維摩経と法華経は小室直樹氏的にも仏教のエッセンスを学ぶのに目を通しとくといいぞということだったので、とりまアンチョコ本で触れてみました。(歎異抄は江草がもともと好きな本なので読んでます)


で、こうやってあれこれと宗教の思想をエッセンス的にでも見てみて思うことは「総じてみんな良いこと言ってるな」ということです。

たとえば「日本は儒教思想の悪影響でうんたらかんたらー」と批判されがちな儒教も、内容を聞くと純粋に「いかにして社会を良くするか」に腐心してるだけで、ひいてはそれが「修身斉家治国平天下」のスローガンのもと各個人の行いも良くすることともつながっていくという感じの教えです。まあ、めっちゃ良いことを言ってるわけです。

また、儒教に基づいて発展した科挙の仕組みも本来は身分や家柄に関わらず登用出世させるという意味で、一つの公平公正なやり方ではあったでしょう。(後に、現代日本の受験戦争よろしくバグっていきますが)

キリスト教やイスラム教みたいな一神教も「絶対的強者の神の前で人がみな平等になる」ということの大切さを尊重しているところがあって、不平等に悩む私たちの現代社会において改めて考えさせられるところが多いでしょう。(もっとも、キリスト教が「ヨシュア記」に見られるような残酷さも隠し持ってたりと、各宗教にも裏の顔はやっぱりあるわけですが)

まあ、主要宗教は大変に長い歴史の中で無数の人々に信仰されてるのだから、基本的には良いことを言ってるのはそれもそのはずではあります。そうでないと、これだけ広まることはないでしょうからね。


しかし、一方で「宗教とは怖いものであり関わってはいけない」という認識の人は多いでしょう。特に無宗教であることをある種誇りと思ってそうな日本人ではそうかもしれません。

実際、あれやこれやのカルト宗教の暴走が時々報道を賑わせますし、小説などのフィクションでも謎の信仰を持つ危険な宗教団体が重要なアクターとして登場したりもします。

「信仰に基づいて暴走するのは危険」という感覚が皆の身に染み付いてるわけですね。

確かにそれはそうで、江草もその危険性は同意するものです。

ただ、「信仰に基づいて暴走」という危険行為をしないためにこそ宗教は学ばないといけないんじゃないかと思うんですよね。「ハナから宗教に関わらないようにしていたら無事」とかそんな簡単なものではないでしょう。

というのも、小室直樹氏の『日本人のための宗教原論』がまさに指摘されてるように(ちょうどオウム真理教の事件が世を賑わせていた頃に初出の本なんだそうです)、巷のカルト宗教は往々にして、その教義からして浅いし整合性としても無茶苦茶なんですね。教祖が「我はキリストとブッダの生まれ変わりである」などと主張していても、それはキリスト教や仏教の教えとはまるで矛盾してるわけです。

ところが、その教義的な浅薄さや矛盾について、もともと宗教についての基礎教養がないと気付けない危険性があるわけです。世界的にメジャーな宗教についてまるで知らないからこそ、胡散臭い宗教に引っ掛かってしまう。つまり、宗教リテラシーが無いからこそエセ宗教にハマる。「科学リテラシーが無いからエセ科学にハマる」のと似た構図がここにあるわけです。だいたい人が人生で悩んだり弱ったりしてる時に近づいてくる点でも一緒ですしね。

なので、それはいかんよと。日本人が無宗教を自負し過ぎるあまりに、ほんとに全く宗教のことを知らなさすぎるのはヤバいよと、そうした問題意識から書かれてるのが『日本人のための宗教原論』という本なんですね。

江草自身、全然信心深く無いのですが「全く宗教のことを知らないのはヤベエな」と思ってるからこそ、こうしてあれこれエッセンスだけでも吸収しようとしてるところがあります。

書いていてちょうど思い出しましたけれど、『仏教思想のゼロポイント』などの著書で知られ、仏教学に造詣が深いニー仏さんが昔どこかで書いていたエピソードが面白かったです。(なお、ニー仏さんご本人は仏教信者ではないと明言されてます)

ニー仏さんが「自分はこんなに頻繁に宗教関係者に会ってるのに誰も宗教に勧誘してくれない。寂しい」と嘆いていたら、「いや、さすがにニー仏さんを誘うのは無理です。。。」と苦笑されたという話。(めっちゃうろ覚えですが)

宗教知識が豊富だと自然と宗教勧誘への防御力が圧倒的に高まることを示す微笑ましいエピソードではないでしょうか。


あるいは、あからさまにカルト宗教などにハマっておらず、「無宗教」という態度を貫けているとしても、それはそれで危険だと思うんですよね。

資本主義がプロテスタンティズムの精神に基づいていることは有名ですけれど、実のところ、社会には宗教の影響がこっそり隠されてるところがあります。

表立って宗教という顔立ちをしてないけれど、宗教的な思想に基づいている社会文化がすぐそこにあるのなら、ただ「俺は無宗教だ」と言ってるだけでは宗教と無縁であることは保証されないわけです。というより、勝手に社会の空気にインストールされてるのであれば、むしろ誰一人宗教と無縁である人はいないとさえ言えます。

なので、そこを無頓着に「俺は無宗教だから宗教なんてどうでもいい」と過ごしていても、結局は無意識のうちに宗教の暴走に参加し加担していることはありえるわけですね。

たとえば、先ほどもちらっと触れた、よく言われる「日本社会は儒教思想の悪影響でーーうんぬん」という主張も、(その是非はどうあれ)こうした知らず知らずの宗教の影響力の存在を前提としているものでしょう。

すると、無意識のうちに宗教の影響を受けていないか、知らず知らずに宗教思想の暴走に加担してないか、それに気づくためにはやはり私たち個々人が宗教を学ばないといけない。そういうことになるわけです。


それに、現実の宗教思想の暴走というのは、宗教の教義の一部断片のみが暴走してることが多い気がします。最初から断片化してる状態で降りかかってくるせいで、その存在にもその矛盾にも気づきにくいところがあるのです。

たとえば(これは小室直樹氏の指摘ですが)儒教の先祖崇拝的なところだけ切り取って、それに準じた儒教的儀礼は一切しようとしないとか。浄土真宗の「他力本願」思想だけ切り取って、天皇を崇める国体思想に転用しちゃったりとか(中島岳志『親鸞と日本主義』に詳しい)。イスラム教の「ジハード」も都合よく使われてる気がしないでもありません(イスラム教は本来意外と異教徒にも寛容な宗教らしいので)。

もっと言うと、イデオロギーもそうですね。巷の新自由主義とか市場原理主義も、その市場原理の「弱肉強食」「適者生存」的な要素だけ強調して、市場原理主義の権化として悪名高い、かのミルトン・フリードマンでさえ「負の所得税」を併せて提唱し再分配の必要性を認識していたことをスルーしがちです。

前述の通り、それなりに長く広く支持されてる宗教(あるいは思想)というのは、(弱点・欠点はもちろん存在するものの)総合的に体系としてはやっぱり完成度は高くって、良いことを言っているわけです。ところが、その一部分だけを都合よく切り取ると、そのせっかく完成度高く保たれていたバランスを乱してしまい、ただその一部分の教義だけが暴走する事故につながってしまうのです。

江草はこの暴走現象を「癌化」と呼んでます(一応これでも医者なので医学用語の例えがしっくりくるのです)。

癌細胞になる元の細胞たちは、本来は身体にとって重要な機能を果たしている必要不可欠な細胞たちなのですが、それがある時、遺伝情報が損なわれて増殖能という一部機能だけの存在になったのが癌細胞なわけです。増殖能だって本来は細胞にとって必要な機能ですけれど、それだけになって細胞の増殖が抑制できなくなると話は別ですよね。細胞というパッケージで総合的な体系として保たれていたバランスが、一部の機能だけになった時、たちまち崩壊し暴走を始めるのです。

教義の一部だけが暴走するのはこれにそっくりな現象なので、「癌化」と呼ぶのがちょうどいいかなと。


(ここでちょっと余談を挿入)

一旦本稿を書き終えてから『100分de名著ブックス 歎異抄』の続きを読み進めていたら、まさに江草が指摘している内容と同様のことが書かれていたので驚きました。

単純に嬉しかったのと、江草だけが勝手に言ってる問題じゃないよということをお示しするためにも、引用しちゃいます。

『歎異抄』が実際に爆発的な影響力を発揮したという記録は残っていませんし、実際にはどれほど活用されたかも不明です。しかし、この書が「体系内のリミッター(暴走を抑制する装置)」としての性格を持っていることは間違いありません。
 すでに述べたように、宗教という領域は社会とは異なる価値体系を持っています。だから、ときには反社会的行動にもつながります。しかし、安易にそこへと行ってしまわないようリミッターが設定されているのです。それが教義や教学であったり、先人の導きであったり、伝承や伝統様式であったりするのですが。『歎異抄』は親鸞の思想体系と呼応する形で成立したリミッターだったのではないでしょうか。『歎異抄』は、無義こそ義であると説き、教義・教学に捉われない態度を語っています。それと同時に、連綿と続く浄土仏教の鍛錬された体系を基盤としています。このあたりを見逃さないようにしなければなりません。実際に伝統宗教の体系は、実によくできているのです。

(中略)

実はオウム真理教事件の際も、このことが思い浮かびました。オウム真理教は仏教各派・ヒンドゥー教・キリスト教などの体系のなかから、自分たちに都合のよい部分だけを切り貼りして教義をつくっていました。いろんな宗教のパッチワークをつくれば、ハイブリッドなすごい宗教ができあがるかと言えば、そうはなりません。逆に各体系のリミッターが効かず、暴走が始まる可能性が高くなるのです。

釈 徹宗『NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ』

江草にとってもともと『歎異抄』がお気に入りの一冊なのは、江草のこうした「暴走への懸念」の問題意識にフィットしてるからなのかもしれませんね。

(余談終了)


で、こうした宗教的あるいは思想的な「癌化」の課題に対して、ただの細胞ではなく、考えたり学んだりする主体であるはずの私たち一人一人の人間ができることは何かを思うと、それはやっぱり考え学ぶことだろうと思うわけです(そのまますぎる文ですが)。

宗教なり思想なりを学び考えることで、自身が「思想断片ウイルス」に知らず知らずに感染して癌化しないようにできる限り抑える。「なんか怖いから」といってこれを怠るというのは免疫(リテラシー)を捨てるに等しい行為です。怖いなら、なおさら学び研究しないと対策できないはずでしょう。というより、むしろ知らず知らずのうちに自分が思想にハマってるかもしれない方が怖くないですか。


言ってる江草がちゃんと実践できてるかは怪しいものの(そもそも本稿の内容はアンチョコ本しか読んでないレベルの人間が書いていい話だったかという疑問も自分自身あります)、とりま、そういう心持ちで、色々と手を出して学んでいる感じです。

それに、単純にこうやって学んであーやこーや語るのは最高に楽しいので、是非是非多くの人にやってもらいたいなと思っています。

あ、これもある意味「学び教」の宗教勧誘ですかね?

入信されるかどうかは、皆様のお好みで、どうぞ。




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「癌化」の話は、がんもどき理論で有名な(悪名高い)近藤誠医師死去の報道に際して記したこの記事でも書いてます。


また、本稿でちらっと触れた新自由主義擁護論は過去にもっとアレコレ語った回があります。(本稿とはちょっと別角度からのアプローチですが)


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