言葉はブレーキであり、抑制遺伝子であり。
普段人は理屈なんて考えずに生きている。
言葉なんてなくとも食って出して寝る。人との付き合いも実のところ非言語的なコミュニケーションが主である。
言葉を綴り理屈をこねるなんていわば暇人の所業のようなものであり、特に生活に不満が無いならば、それは時間やエネルギーの浪費のようにも思われる。
しかし人はそうして何の気なしに生きているうちにいつのまにか違和感やモヤモヤが生じることがある。社会によくわからない摩擦が起きることがある。
そこで、そのモヤモヤを言語化する者が現れる。そのなにかおかしいことを立ち止まって考える者が現れる。これはこういうことなのだと言葉で語る者が登場する。
それが全く無茶な論理であれば無視される。もしくは多くの人が感じてないモヤモヤだったなら広がらない。
しかし、それが多くの人がうすうす思っていたモヤモヤであった場合は共感を得てどんどん広がっていく。さながら草を燃やしながら広がる野火のように。
モヤモヤを打ち消してくれるその言葉を皆が歓迎する。指数関数的に言葉が力を持ち始める。
しかして、それが急速に進むと逆にその言葉の急拡大にモヤモヤを覚える者がまた登場する。彼らの中からそのモヤモヤを言語化して対抗する者が現れる。野火のさらなる延焼を防ごうとする。ブレーキに対してブレーキをかける。
平衡状態かそれ以上を求めて押し戻す。
場合によってはブレーキに対するブレーキに対するブレーキもかかりはじめる。
感情は炎のごとく、ブレーキを持たない。燃料があればいくらでも拡大していく。
それにブレーキをかけるのが言葉なんだと思う。大きすぎる力を、強すぎる感情を抑えるのが言葉なんだと思う。
何も問題がない時には必要がない。けれど暴走を止めるべき時には出動する。
畢竟、出る杭を打つのが言葉の役目であり、言葉は強きをくじき弱きを助く判官びいきであるべきなんだと思う。
それゆえに、特定の言葉が力を持ちすぎてしまうことは本来あるべき姿ではない。
残念ながら言葉も無敵ではなく、時々その本来の機能を見失ってしまうことがある。故障してゴミを吸えなくなった掃除機がかえってゴミをまき散らしてしまうように、言葉がブレーキでなくアクセルとなってしまう時がある。
感情と言葉がともに同じ方向にアクセルを踏むならば、ただのブレーキがない壊れた自動車である。抑制遺伝子を欠き癌化したとも言える。感情が言葉を伴ってひたすらに無制限に増殖する。すべてを燃やし尽くそうとする。
どうしてもどこかでいつか誰にでもそういうエラーは起きてしまう。
突然変異か、老化かはわからないが、言葉という抑制遺伝子が壊れてしまう。
誰かが言葉のブレーキの力を失い癌化してしまったならば、他の人々で言葉のブレーキをかけるしかない。
言葉の癌化の暴走を予防するためにこそ、各々の細胞が、すなわち社会原子たる各個人が、言葉というブレーキを持つことが必要なのである。
社会のてんかん発作のブレーキとして、世界の心房細動のサーキットブレイカーとして、個人がそのショート回路に対する抵抗とならねばならない。
その発火速度を、伝達速度を抑えねばならない。
たやすく炎を受け入れる乾燥した可燃材であってはならない。
ゆえに誰もが常々、言葉によって脳を湿らせておくべきである。
人体にも社会にも癌が発生することは避けられない。
この世が完璧でない以上、そこは諦めねばならない。
しかし、それでも癌の拡大を防ぐためにできることはあるはずである。
その試みのためにこそ言葉の力が必要なのだ。
「がんもどき理論」で悪名高い近藤誠氏が急逝された。
近藤氏の人となりを知る関係各位の言説を読むにつけ、おそらく彼もある種のモヤモヤ、当時の医療界にはびこる「癌」に対する「ブレーキ」であったのであろうと感じる。
しかし彼自身がいつしか「がんもどき」ならぬまさに「癌」となった。自身の言葉に焼かれてしまった。
それゆえに逆に世の中からその非合理さを批判され、言葉によるブレーキを受けることになった。
完全に消火されることはなかったまでも、その延焼を防ぐ試みはまさに彼自身の活躍によって前進したのである。
自身が時に主体となり時に客体となって言葉のブレーキの役目を見える化してくれたと考えれば、ある意味で「近藤誠現象」というのは健全な社会ホメオスタシスの象徴であったのかもしれない。
罪を憎んで人を憎まず。
その不合理な理論を認めることはないけれど、最期まで患者への想いは医師同志としてともにあったと信じたい。
近藤誠氏のご冥福をお祈りします。