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言葉は他人の脳を借りている

毎日noteでこうして言葉を綴っていたり、他の方のnoteを読んだり、あるいは読書をしていたりと、言葉に囲まれた日常を送っています。

ここまでくると、ふと、そもそも言葉とはなんだろうという疑問が浮かんできました。言葉によって発信したり受け取ったりするというのはどういう行為なのか。

考えてみれば、動画や音声など多様な発信メディアが普及している中、言葉というメディアにはなかなかに面白い特徴があります。

それはやたらにデータサイズが軽いということです。

動画や音声のデータサイズは最低でもMB単位です。4K動画など特に重いものになるとGB単位にもなるでしょう。

これと対照的に、言葉、すなわちテキストファイルのデータサイズはせいぜいがKB単位。なんなら短いメモ程度のテキストではKBにも満たないことも多いです。動画や音声と比べると桁違いどころか、ひーふーみーよー、と何桁も軽い有様です。

ところが、だからといって言葉を読む時の体験が動画や音声と比べて何桁違いレベルで貧しくなるかというとそういうわけでもないのです。もちろん、動画や音声で受け取る時の良さはたくさんあります。でも、言葉を受け取る時の体験もまた負けず劣らず素晴らしいものがありますよね。(これは活字中毒の皆様方にはきっと共感していただけることかと思います)

こうした発信と受領を、人と人の間の情報伝達の本質であると考えれば、その情報のデータサイズの重軽がそのプロセスの豊かさを大きく左右しそうなものですが、一概にそうは言えないわけですね。

ここに言葉の不思議な魅力があります。


言葉というメディアが、そのデータサイズが極めて軽いにも関わらず、驚くほど豊かな体験をもたらす仕掛けはどこにあるのか。

それは、言葉がいわばトリガーに過ぎないからなんじゃないかというのが江草の考えです。

たとえば「りんご」という言葉、データサイズとしては数バイト程度のものですが、この言葉を見た時の読者の脳裏にはあの現実世界の赤くて甘い果物としての典型像が脳裏に自然とイメージされるかと思います(もっとも、こういうイメージが湧かない体質の方もいらっしゃるそうです)。

ただの数バイトの文字列が、私たちの脳内に豊かなイメージを喚起する。もともとのデータサイズではありえないほどのイメージが湧くこの現象は、読み手の脳が「りんご」というトリガーをもとに勝手にデータ展開していると考えると説明可能に思います。

「りんご」という文字列にはこういう意味やイメージがある、という知識的、経験的なデータがあらかじめ読み手の脳に用意されている。伝達されたデータサイズ自体はごくごく軽微でも、それをきっかけ(トリガー)にして、読み手の脳はたくさんのデータを倉庫から引っ張り出して、部屋いっぱいに広げることができるというわけです。

すなわち、言葉というのは他人(読み手)の脳を借りるメディアなんですね。書き手は、必ず読み手という他人の脳を借りることを前提として言葉を綴っているということになります。どうしても抽象的でデータサイズが軽く、絶対的に伝えられる情報量が乏しい「言葉」をメディアとして選ぶ時、それは自然と読み手の脳を信じていることに他なりません。

たとえば「アファンタジア」という言葉。これも数バイト程度の言葉ですが、皆様イメージが湧きますでしょうか。

全然知らない言葉だった方は、さっぱりイメージが湧かなかったと思います。もしかして「え、ファンタジーの話?」みたいに言葉の部分的な特徴からなんとかトリガーを見出そうとされたかもしれません。

他人の脳を借りるという言葉の特性上、読み手が知らない言葉だとイメージが喚起されないということになるわけですね。(なお、「アファンタジア」は先ほどちょっと触れた「脳内にイメージが湧かない体質」を指す概念です)


言葉が「他人の脳を借りるメディア」であるという特徴にはメリットがあります。

まず、データサイズが軽いのでちょっとしたことをすぐに伝えるのに便利です。リマインダーに「牛乳を買う」とメモしておけば、牛乳を買うべきことはわかります。別に牛乳を買うシーンを動画で本格的ドキュメンタリータッチで提示する必要はありません「軽い、早い、楽」なのが言葉です。

あと、言葉は個々の脳で都合よく解釈してくれるので、個人個人の多様性にもアプローチしやすいです。「絶世の美女」という言葉を動画メディアで具体化して表そうとしても、変な話、人によって「どういう人を美女と思うか」が異なるために、評価が分かれてしまいかねません。ところが、言葉であれば勝手に各自の脳内で思い思いの「絶世の美女」を描いてくれるのでそういう個人差のコンフリクトが起きにくいんですね。


一方で、もちろんデメリットというか弱点もあります。

「他人の脳を借りる」という特性上、その人の脳内にどれだけの蓄積があるかどうかで体験の豊かさが変わるという問題があります。先ほど「全く知らない言葉はイメージできない」という問題も示しましたけれど、そうでなくても、イメージの豊かさ自体がその人のそれまでの経験知に依存してしまうんですね。言葉の意味は分かっても、やったことがない人とやったことがある人では頭に浮かぶイメージが異なるんですね。

たとえば「育児は大変だ」という言葉。ほとんどの人は意味は分かると思うのですが、これがどういう具体的な体験として大変なのかは、それを実際に経験してるかどうかで大きく変わってしまうことでしょう(江草も経験するまではナメてました)。

だから、言葉というメディアがより豊かな情報伝達メディアになるためには、言葉自体がどう綴られるかという点でだけでなく、人々がどれだけ普段から豊かな実体験を積んでいるかどうかという点も重要となってくると言えます。


また、「他人の脳を借りる」ということは、必然的に読み手の脳に負担をかけているということでもあります。

先ほどメモ書き程度の言葉は楽だという話をしましたが、逆に言うとメモ書き程度ではない長大な文章、特に初めて会う概念(言葉)が多々登場するような難解な文章では、読み手の脳にかかる負荷が急激に増大するので、テキストデータの情報量の割に、その咀嚼に大変に苦労と時間がかかるという現象が起きます。

これだけ大変だと、読み手の脳の方にもテキストの受領に一定のキャパシティの余裕が必要となります。ところが、昨今の現代人は忙しいし、仕事でも脳を酷使してることが多いので、脳のキャパの余裕がありません。世の中「活字離れ」が言われていますが、この理由としては人々の脳が疲れ過ぎていて読書をするような余裕がないからではないではないかと考えられます。

その点、動画や音声メディアでは、視聴者は「脳を貸す」必要が少なめです。最初から豊富で大容量の情報量がそのまま直接的に届けられるので、自分の脳内でデータを展開する「面倒」がないんですね。疲れ果ててる脳にとって動画や音声の方が楽で助かるというのはこういう理由からだと思うのです。

江草の好きな俗説に「読書ができなくなったら過労」という基準があります。実際、言葉が「脳を借りるメディア」であることを考えれば、人が読書をする余裕がなくなるというのは、脳のキャパシティを仕事で全て使い果たしているということを指すわけで、確かに健康的とは言い難いでしょう。人間、ふと気が向いた時には本が読めるぐらいであるのがちょうどいい働き方なんだと思います。


というわけで、言葉というメディアをより豊かにより適切に味わうためには、私たちが日々実体験を豊かに過ごし、そして脳のキャパシティをある程度は残しておくことが必要であると言えます。言葉という抽象的な道具を使うのに、具体的な生活感のある活動が重要になってくるというのはなかなか面白いですよね。


あと、思いついたので余談的に付け加えると、最近流行りの、画像生成AIというのは、こうした「言葉を脳内でデータ展開すること」の代行者と言えるかと思います。

本来は言葉をトリガーとして脳内でイメージ化するのは人間の脳がやるべきところでした。ところが、生成AIは言葉を入力としてイメージを出力してくれるわけですから、その代行をしてくれてると言えます。

これはもちろん先述の言葉の個人差の受容のメリットを失うものではありますが、それでも生成AIが人気なのは、それだけ、脳内でイメージを描き出すための処理負荷を省力化したいニーズが高いからなのでしょう。つまり、書き手にとっても読み手にとっても、言葉で表現したり言葉で受け取るための労力や時間がちょっと「面倒」になってきていると。

もちろん、これが人気の理由の全てとは思いません。ただ、同時に、動画や音声メディアが隆盛を誇り、テキストメディアが下火になってるのを考えると、生成AIも言葉が「脳を借りる」ための余裕が社会的に乏しくなっていることの反映なのではないか。そう解釈することも可能なんじゃないでしょうか。

これはちょっと寂しいので、もうちょっと、みんなが言葉を楽しめるだけの余裕や生活の豊かさがある社会になって欲しいですね。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。