仕事効率が下がるのに「子連れ出勤」はなぜ必要とされるのか
このニュースが話題になってました。
家で留守番をするのは難しい子どもを職場に連れてくるという「子連れ出勤」制度を市役所で試験的に導入したという報道で、記事上は好意的なイメージでまとめられています。
ところが、江草が見た限り、これを読んだネット民からは逆に批判的な意見が大勢でした。
問題になったのは次の箇所。
この「自分で自分の子どもを見る」という条件設定に対して「子どもの面倒を見ながら仕事なんかできるか!」と非難の声が上がったというわけです。
実際、江草も子育てをしながら感じますけれど、子どもをみながら何か作業をするのはとてもとても難しいです。ちょっとした家事でさえ難渋するのに、ましてや仕事となると全然集中できないことうけあいです。
子どもをみながら仕事をしようというのは、よほど子どもが大人しいか、よほど仕事が暇か、もしくは相当に仕事内容を選ばないと困難ではないかと思います。読んだ皆様から「こんなの仕事効率激下がりでしょう」という冷ややかな反応が多数寄せられるのも無理もない話でしょう。
ただ、この件を「また無茶な制度を考えよって」と反応するだけで片付けてしまうのはもったいないように思うのです。
ここでもう少し掘り下げて「仕事効率は下がるに決まっているのになぜこんな無茶な制度が必要とされるのか」を考えると、現代社会の働き方の興味深い側面が見えてくるからです。
「仕事に従事しているかどうか」が優先される
まず先にフォローをしておきますと、この「子連れ出勤」制度はおそらく色々苦心された中で行われた試みだろうと思うので、決して制度設計された方や制度利用されてる方を責めるものではありません。
本件は、制度に関わった方々を非難してる場合ではなく、むしろ「なぜこの制度が苦心して生み出されたか」に注目すべきところです。
結論を言えば、「子連れ出勤」制度が生み出される背景には、現代社会における仕事の扱いが一般的に「仕事ができているかどうか」よりも「仕事に従事しているかどうか」が優先されることがあると江草は考えます。
言い換えると、「仕事になっているかどうか」よりも「仕事に十分な時間コミットしているかどうか」の方が世の中では重要という意味になります。
フルタイムが前提の「正社員身分」
「仕事ならば成果こそ大事だろう」と思われる方は多いでしょう。気持ちはよく分かるのですが、よくよく見ると「仕事の従事時間の確保」こそがこの社会では第一に重要視されてることにすぐ気づかれるはずです。
たとえば、現在の日本の労働慣行では「正社員」というのはフルタイム勤務が前提です。子育てなどの理由によっては時短勤務制度を利用することは可能ですが、それはあくまで「特別に許されてる」のであって、フルタイムが基本とされてることに違いはありません。企業によっては週休3日制の導入なども進められてきていますが、これもまだ「特別に認めてあげている」という姿勢の範囲内でしょう。
そして、フルタイム勤務の前提を保てなければ「非正規労働者」や「パートタイム労働者」とみなされます。(希少な専門職でもなければ)正社員でなくなった途端、急に扱いや待遇が悪くなることが日本の社会問題としてずっと指摘されていることは皆様もご承知の通りです。
このため、フルタイム勤務者であることが、この社会で自己の身分を保持するための大事な前提となっているわけです。言い換えると「週に40時間はなんとしてでも働かなければならない」というインセンティブ(あるいは強迫観念)が世の中を覆っていると言えます。
この勤務時間の条件設定があまりに強力であるがゆえに、成果よりも先にこちらを満たさねばならないのです。ほとんどの職場では、優秀だからといって自由に欠勤したり勝手に帰るなんて許されないでしょう?
報酬も勤務時間依存
また、たとえ、正社員という「身分」を保つためでなくとも、勤務時間の確保は重要となっています。
たとえば、非正規雇用であれば時給制の設計がポピュラーですし、正社員の「週休3日制」も労働日数に比例して給与が調整されるのが普通です。
その仕事内容の質いかんにかかわらず、多くの職場・職種において基本的に労働時間に比例して報酬が決まる以上、「どれだけ出勤しているか」は労使ともに大変に重要視される要素となります。
身分も、名誉も、報酬も「どれだけ出勤しているか」に強く依存している。
それゆえに自然に浮かび上がってくるのが「子育て中であろうともなんとか仕事に従事している時間を確保しなければならない」という命題です。
この命題のもとで生み出された制度の一つが今回の「子連れ出勤」制度なのだろうと江草は思うのです。特に役所では労働時間などの人事制度の設計は硬直的でしょうから、まさに苦肉の策と考えられます。
仕事以外でも珍しくない「出席」志向
この「なんとしてでも勤務時間を確保すべし」というたぐいの「出席」志向の姿勢は、仕事以外でも同様の性質を示すものはしばしばあり、別段世の中では珍しくありません。
たとえば、学校での出席単位。
どれだけテストや課題で高評価を取る優秀な生徒や学生であっても、出席日数が足りなければ留年になります。従って、優秀だけどサボりがちな生徒に対して、先生方が「このままじゃ留年になってもったいないから何とか頑張って出席して」と発破をかけたりする光景が繰り広げられることになります。これはすでに「出席して授業で何かを学び取れ」とかそういう問題ではなく「出席点を何とかクリアしてくれ」という「質より量」の問題になってることは明らかでしょう。
あるいは、我々医師業界でも悪名高い専門医制度の更新単位もそうですね。
専門医資格の更新のためには所定の講義を一定時間聴講する必要があるのですが、出席さえしていれば、スマホでYouTubeを見ていようと、居眠りをしていようと一切不問です(もちろん決して勧められないマナー違反ですけれど)。
逆に、どれだけ普段真剣に自発的に学びを高めている優秀な医師であっても、受講単位が少しでも足りなければ更新は認められません。
たとえば、うちの学会では必須単位の対象として学会期間中の平日朝8時に開催される講義があるんですが、単位を取るために医師たちは粛々とそれに従い早朝から長蛇の列を作ることになるのです(早く並んでおかないと長時間立ち見の憂き目に合うこともあるので)。
これらもまさに「出席しているかどうか」こそが重要視されてるシステムの好例と言えるでしょう。
「仕事になるかどうか」は実は二の次
さて、仕事の話に戻りましょう。
そろそろ「子連れ出勤」制度に隠された意味が見えてきたのではないでしょうか。
「子どもがいたら仕事にならない」とか「仕事の効率が激下がりでしょう」という「子連れ出勤」制度に対する批判はまさにその通りではあるのです。
ただ、世の中「仕事になるかどうか」は実は二の次なんですね。
質とか効率とか言えるのは、まず「十分な勤務時間を確保してること」が前提で、それが満たされないおそれがある者からすれば、「なんとしてでも出勤時間を確保する」ことが至上命題なのです。
すなわち、どれだけ優秀でも、どれだけ仕事を頑張っていても「勤務時間だけは満たさなければならない」。
飢えている時、目の前の食べ物が美味しいか不味いかなんてこだわってる場合ではなく、とりあえず可能な限り食べられるものは食べるしかないでしょう?
まず最初はとにもかくにも「質より量」なのです。
優しくて真面目な「子連れ出勤」制度
だから、この制度を設計した上役の人たちはむしろ「優しい」方々だと思われます。「従業員的にも勤務時間が足りないと何かと困るだろうから、仕事の効率が下がっても構わないので子連れで出勤してもいいですよ」という寛容な眼差しがそこには見て取れます。(出席日数ギリギリの生徒に「とりあえず出席してくれ」と頼む先生たちと同じ優しさがここにはあります)
そして、子連れで出勤している従業員もむしろ「真面目」な方々でしょう。「子育ての事情のために職場の仕事に穴を空けてしまうのは申し訳ないから、子連れで仕事効率が下がるのは承知の上で、それでも少しでも仕事をしたい」という奉仕の精神が見て取れます。サボろうとか楽をしようとかそういう意図は決してないでしょう(というか子どもを見ながら仕事なんて絶対大変です)。
問われるべきは私たちの労働慣行と世界観
こうした労使の真摯な想いをもとに作られたであろうこの制度に対して、「効率が下がるじゃないか」と非難をするのは、確かに正論ではあるものの、実のところ正鵠を射てはいないのではないでしょうか。
むしろ問われるべきは、世の「そこまでして勤務時間を確保しなきゃいけなくなるような労働慣行」だと江草は思うのです。
今回の件も、現場レベルでの試行錯誤の賜物という点では非難されるものでないにしても、結局のところは「仕事中心の世界観」に従うものです。
この世界観に従った結果として必然的に生み出された今回の「子連れ出勤」制度にこれだけ批判が集まるならば、一度メタな視点で「この世界観のままでいいのか」の問いの方こそ広く再考されてもいいように思います。
先日読書感想を書いた『タイムバインド』という書籍でも、「職場が家庭に文化的勝利をおさめ続けていること」に対する再考を強く訴えられていました。
今回の「子連れ出勤」制度も、まさしく今なお続く「職場優位の文化」の象徴と言えます。
「こんな制度おかしい」と思うのであれば、「職場優位の文化」を今こそ疑うべきではないでしょうか。
民間企業や成果主義なら大丈夫?
なお、今回の件に対しては、「これだからお役所は」とか「だからこそ出勤時間でなく成果を見る人事評価制度にすべき」とかいう意見もおそらく出るでしょう。
つまり、民間企業であったり、成果主義であったならば、こういう仕事効率無視の奇妙な制度は生じ得ないだろうという考え方ですね。
まず当然考える理屈の一つではありますから気持ちはわかるのですけれど、残念ながら「そんなことでうまくいくような簡単な話ではない」のです。
これを説明しだすと更に長くなるので、この点は気が向いた時にまたどこか別の機会に。
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