メモ:安楽死・尊厳死について

まずは、これに関連する(とくに「安楽死・尊厳死」に対して批判的な記事)いくつかの記事を参照する。

「ALS患者を嘱託殺人容疑、医師2人を逮捕 京都府警」(朝日新聞、2020/7/23)
https://www.asahi.com/articles/ASN7R3VKJN7RPLZB00Y.html?iref=pc_ss_date

「ALSの舩後靖彦氏「死ぬ権利よりも、生きる権利守る社会に」」(東京新聞、2020/7/23)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/44458

「「生きる権利支えて」ALS患者ら「安易な安楽死」批判」(日本経済新聞、2020/7/24)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61907790U0A720C2CZ8000/

まず、今回の事件が(法的に)「安楽死」や「尊厳死」にあてはまらないという意見もある。
「「安楽死要件の議論の対象にもならない」医療関係者批判…ALS嘱託殺人」(読売新聞、2020/7/25)
https://www.yomiuri.co.jp/medical/20200725-OYT1T50190/

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次に、前、私が書いた「剥き出しの生から「優しい生」へ:生政治における優生に抵抗するために」のなかから引用する。ここでは、「積極的安楽死」が(他人にとって)都合のいい自己決定であることを言い、それに賛成する人は(内なる)優生思想を持っている、という積極的安楽死に反対する立岩真也の議論をみている。

以下、引用:

ここで社会学者の立岩真也の安楽死の議論を参考にしたい。なぜ安楽死か、というのは置いておくとして、彼の安楽死(積極的安楽死)に反対する主張の論理を見ていく。立岩は、安楽死する人、すると決めた人は、間違った社会の価値を教えこまれた、と言う。

自分でなにかを決めること(自己決定)は、通常、他人に負担がかかるので、他人にとって都合が悪い(「都合の悪い自己決定」)。例えば、足が動かない人がどこかに行きたいという自己決定をした場合、その自己決定は必然的に他人を巻き込む。だれかがその人をどこかに動かす(例えば、車いすを押す、など)必要がある。他人に負担がかかるとはいえ、その人の自己決定は認められるべきだ。足が動く人が自分でどこかに行けるのに、足の動かない人は他人がいないとどこかに行けないから、行けない、というのはおかしい。まず、だれかがその人を手伝えば済むことで、社会全体がその人を手伝ってもいい。立岩のテーゼである「決定権は存在の一部である」はここからくる。「決定は存在の一部である。決定することが決定しないことよりも価値が高いのではない。このことと、自己決定が、その人の存在を尊重することの一部に、しかし重要な一部として位置づくこととはまったく矛盾しない」(立岩真也、『弱くある自由へ 増補新版』、青土社、2020年、p.27)。

しかし、安楽死における自己決定は、他人にとって都合がいい。他人にとって、例えば体が動かない人が決めた安楽死は、その人を手伝わなくて済むようになるので、負担が減り、都合がいい。とくに家族にとっては、その人が生き続けていれば、負担になる(医療費がかさむ、という経済的な負担や身体的な負担)。よって、家族はその人が安楽死したければ認めたい、という優しさを口実に、自分たちの負担をもっとも減らすことのできる人たちである。つまり、自己決定された安楽死(積極的安楽死) は「都合のいい自己決定」である。

このとき、人を安楽死に向かわせるのは、他人に負担をかけたくないという気持ちである。この気持ちは優しさではなく、間違った社会の価値である、と立岩は言う。その間違った価値とは、自分のことは自分でコントロールするのが善い、という私的所有の原理(「自分でつくったものは自分のものである」という価値)である(立岩真也、『私的所有論 第2版』、生活書院、2013年、p.69, 70)。安楽死すると決めた人たちの多くは、自分のことを自分で制御できないから、それが悪いと思って、安楽死を決める。最期だけは自分のことを自分で制御したいと、自分の死を自分でコントロールする。しかし、私的所有の価値は間違っている。自分でつくったものが自分のものであるという因果関係は恣意的なものであって、成り立たない。ここまでが、立岩の議論の簡単な説明だ。

このような状況に置かれる人たちの多くは先ほどあげた「社会的弱者」という人たちである。例えば、障害者は社会に自分たちの自己決定を認めさせる運動(社会モデルに基づいたバリアフリーの整備など)を行う一方で、安楽死における自己決定には反対を示してきたし、今もしている。例えば、体が徐々に動かなくなるALS患者(松本茂 http://www.arsvi.com/w/ms08.htm、など)は安楽死を拒否し、人工呼吸器をつけて、長く生きようとする/した。これは「都合の良い自己決定」=優生への抵抗である。「できない」から、「異なる」から、存在しないべき、という価値への反抗。障害者だけでなく、ほかの社会的弱者も「できない」や「異なる」といった意味で同じである。
(引用終)

最後に、優生学・優生思想について、以下のページが詳しい。
生存学研究所、「優生学・優生思想 | Eugenics」
http://www.arsvi.com/d/eg.htm

出生前診断(のあとの「選択的」人工妊娠中絶)などにおける優生思想はこれが詳しい。

立岩真也、『弱くある自由へ 自己決定・介護・生死の技術』(第2版:青土社、2019年)、第5章「生命の科学・技術と社会:覚え書き」


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