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「ザ・エリック・アンドレ・ショー」の美学ーー瞬間と持続のはざまのユーモア

おことわり
批評対象である「ザ・エリック・アンドレ・ショー」の多くの場面では性的で暴力的な描写や表現がみられる。ちなみに、この番組が制作されたアメリカ合衆国では、17歳未満の視聴を勧めないというTV-MAのレーティングが設定されている。この批評自体はなるべくそういった過激な表現の使用を避けたが、私が主張するうえで重要な描写あるいは表現は引用せざるをえなかった。また、リンクされた番組の動画に飛ぶさいは注意されたい。

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未知のものを既知のものに、分類可能なものにひきもどそうとする始末におえない狂癖が、頭脳をたぶらかしているのだ。分析欲が感情にうちかっているのだ。... それはいまだに、気どった言葉の遊び(マリヴォーダージュ)でしかない。(注1)
ーーアンドレ・ブルトン

プロローグ:「ドン引き」を超越した批評を求めて

「リチャード・プライヤーは喜劇と悲劇との間にほかの誰よりも薄い線を塗った」(注2)。アメリカの黒人コメディアン、ビル・コズビーはかつて同じ時代をともにした黒人コメディアン、リチャード・プライヤーの過激なコメディをこう評価した。「ザ・デイリー・ショー」の黒人司会者のトレバー・ノアもいつかエリック・アンドレのことをこう表現するかもしれない。そんなエリック・アンドレとは何者なのか。エリック・アンドレは何をしようとしているのか。エリック・アンドレは喜劇と悲劇との間にどんな線を塗るのか。
 アメリカの大人向けケーブルテレビ枠「アダルト・スイム」で放送されているコメディ番組「ザ・エリック・アンドレ・ショー」(以下、「アンドレ・ショー」)のホストを務める黒人コメディアン、エリック・アンドレは、かつてのリチャード・プライヤーを彷彿とさせるような、過激でナンセンスなコメディで視聴者を背徳的な笑いへと誘う。2012年から放映されている「アンドレ・ショー」は2020年12月現在、5つのシーズンを終えた。コメディ番組としては非常に短い放送時間である11分のこの番組は、2人のゲストへのインタビューと2、3のドッキリ映像で構成されている。インタビューではこれまでウィズ・カリファやタイラー・ザ・クリエイターといった有名ラッパーやライアン・フィリップやオーブリー・ピープルズなどの有名俳優をゲストを迎え、彼らを不快な、心地悪い空間へと誘った。またニューヨークの街中での一般人へのドッキリでは、悲劇すれすれの迷惑行為や突発的なアクシデントだったり、アンドレによる意味不明なキャラによって、ドッキリのターゲットの極限的な反応や表情をカメラが捉えることができる。それは視聴者がドン引きする (cringe) ような「クリンジ・コメディー」という「アンドレ・ショー」専用に造られたような言葉によって言いくるめられるユーモアなのかもしれない。
 しかし、この論考は「クリンジ・コメディー」という一言では言い表せないような「アンドレ・ショー」の潜在性を引き出そうと試みる。「アンドレ・ショー」は社会に対する批評だ。それは他のアメリカのゴールデンタイムのコメディ・ショーと同じである。しかし、「アンドレ・ショー」の社会批評は複雑だ。そして、その複雑さを担保するのは、マラブー的な破壊的可塑性の瞬間性とシュルレアリスムの持続性との矛盾、不一致である。この論は大きくわけて三つの「小-主張」をすることによって、上に挙げた結論を導こうとする。まずは、「アンドレ・ショー」のユーモアをシュルレアリスムとして捉える。「アンドレ・ショー」の「シュール」な笑いは、シュルレアリスムの美学を貫いている無意識的な理性の欠如によって支えられていると主張する。次に、「アンドレ・ショー」のポストコロニアル的な批評性を「シグニファイング」という概念に見出し、「アンドレ・ショー」と他の有名なコメディ・ショーとを比較対照することで、アンドレの道化的なレトリックを前景化させる。そして、最後にアンドレの道化的レトリックにおけるアンドレ自身の可変性とカトリーヌ・マラブーの「破壊的可塑性」という概念とを重ね合わせ、「アンドレ・ショー」の躁鬱的な批評性を強調する。しかし、私の狙いは「アンドレ・ショー」がクリティカルに現代社会を批判していることを強調することではなく、その手段、プロセスが単なる突発性や瞬間性に依存しているわけではなく、シュルレアリスム的な持続性と矛盾しながら進んでいる、あるいは退化していることを主張することだ。つまり、私はこのような矛盾した時間という考え方が「アンドレ・ショー」のユーモアを形作っていると考える。そして、それは「アンドレ・ショー」という11分の番組のなかでの時間を考えているだけではなく、ラディカルな社会批評に必要な持続性を獲得するうえでも重要である。

シュルレアリスムとしての「アンドレ・ショー」

「アンドレ・ショー」はシュールである。
 これは「アンドレ・ショー」のどの場面を観ても、誰もが最初に思い浮かぶことだろう。しかし、なぜ「アンドレ・ショー」がシュールなのだろうか。この問いには深いなにかが隠されている気がする。「シュール」という言葉は20世紀を代表する美術運動であるシュルレアリスムから由来している。アンドレ・ブルトンは「シュルレアリスム宣言」のなかで「シュルレアリスム」という言葉をこう定義している。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。(強調原文) (注3)

ここで重要なのは、シュルレアリスムが「心の純粋な自動現象」を「思考の実際上の働き」の表現として認識していることだ。つまり、ブルトンは理性的な行為ではなく、理性の介入がない無意識的な行為が私たちの思考のもとをなしているということ、極端にいえば無意識が現実であるという斬新な主張をする。したがって、シュルレアリスト美術において最も肝要なのは、無意識という現実を極度までに表現するということだ。そしてこのような現実は、理性に基づいたどんな美学的あるいは道徳的なルールを無視したものであってよい。そのようなルールはシュルレアリスムにとっては邪魔者でしかない。
 「アンドレ・ショー」は俗に言うシュールであるだけでなく、ブルトンのいうシュルレアリスムの定義—理性の介在のない無意識の開示—にもあてはまっているという意味でもシュ(ー)ルである。「アンドレ・ショー」におけるゲストとのトークはアドリブで進行し、アンドレのゲストに対する発言やドッキリは話の前後関係や道徳的な規範をいとも簡単に破る。このとき、アンドレは自らの心に思ったことを(無意識の反対である)意識や理性といった統制なく、そのまま発言したり、行動している。さらに、アンドレの言動や行動が道徳的なルールを破ろうとも、アンドレをはじめとするゲスト以外の出演者はそれに対してまったく動じず、それを現実として受け止めている。例えば、S3E02(これ以降も、シーズンの番号をS、エピソードの番号をEで表す)で俳優でタレントのローレン・コンラッドは、トーク中に突然吐いて、そのあと机の上の吐瀉物をすするアンドレに強い嫌悪を覚え、スタジオを退出する。このアンドレの行為は社会的な規範に完全に引っかかるものだが—実際、コンラッドのエージェンドが、クライアントの「アンドレ・ショー」への出演を拒否しようとした(注4)—、そのような理性を介さず、無意識的にその行為を行ったことは実にシュルレアリスト的だといえる。
 「アンドレ・ショー」のユーモアの真髄は、ドッキリの突発性や瞬間的な衝撃にあると考えることは容易である。突然、アンドレが机を破壊しはじめ、コーヒーがマグカップから噴射し、ラグビーボールが投げられる。瞬間性に対するゲストのリアクションが視聴者の笑いを誘う。だが、「アンドレ・ショー」を一種のシュルレアリスム作品として捉えると瞬間性とは正反対の持続性の重要性に気づかされる。
 マイケル・フリードは「芸術と客体性」のなかで、「客体」という概念を頼りにミニマリズム芸術を批判し、他方でモダニズム芸術を評価する。このとき、フリードが批判するのはミニマリズムの持続性— 主体である鑑賞者と客体であるミニマリスト作品との依存関係(観客がいないと作品が存在できないという主客関係)—であって、彼はミニマリズム芸術には「演劇的時間」が流れていると主張する。他方で彼が評価するのはモダニズムの瞬間性—一瞬で作品のすべてが見えてしまう神的な現前性—である。加えて、フリードはミニマリズムとシュルレアリスム芸術との親和性の高さを指摘する。フリードによれば、ミニマリズムとシュルレアリスム芸術は空間的な奥行きや、期待や絶望、不安やノスタルジアといった感情によって表現された時間性 (temporality) において、両者は強い「現前」の効果と「状況」をつくりあげる。結果、フリードはジャコメッティのシュルレアリスト彫刻を除いて、シュルレアリスム芸術をミニマリズムと同じく「演劇的」で芸術ではないと退ける(注5)。
 換言すれば、フリードにとって主体を前提とする客体としてのシュルレアリスム作品は本質的に芸術でありえない。なぜなら、主体(鑑賞者)を前提するということは、シュルレアリスム芸術はそれだけで自立できず、その作品がおかれている状況に左右されてしまうからだ。その主体と客体の関係が持続すること、つまり作品の神的な現前性や全体性が現れないかぎり、シュルレアリズムは芸術ではなく演劇(フリードにとって演劇は芸術の否定である)として捉えられてしまう。フリードの論に則ってみれば、瞬間的なハプニングによってそのユーモアが成り立っている(と考えられる)「アンドレ・ショー」はモダニズム芸術のように一瞬にしてその全体性をひけらかす。しかし、「アンドレ・ショー」の瞬間的なハプニングのひとつひとつは瞬間性を体現しているが、その全体において瞬間性は反復されている。さきほどのローレン・コンラッドとのトークの例をとっても、アンドレが吐くくだりは瞬間的な出来事だが、そのまえからアンドレがマグカップの水をぶちまける、ビュレスがレタスを食べる、アンドレがチェーンソーで机を破壊する、といった突発的な出来事が頻発している。
 鈴木雅雄は『シュルレアリスム美術を語るために』のなかで、フリードにも例外的に評価された、代表的なシュルレアリスム彫刻家であるアルベルト・ジャコメッティの「吊り下げられた球 (Boule suspendue) (1930-1931)」が「モダニズム批評の求めた「瞬間性」に対して変質や反復、ビートやパルス、つまりは「持続性」の次元を開示するものとなった」と指摘し、さらに続けて「作品をそれ自体自立したものとして見るのではなく、それ以前にあった何かとの連関、つまりは一種の持続を強調するものだと」考えている(注6)。「アンドレ・ショー」もジャコメッティのシュルレアリスム彫刻と重ね合わせると、なにか瞬間的なハプニングの連続にもはやグルーヴともとれなくもないリズムが感じられる。水がぶちまけられる音、レタスのシャキッとした食感、チェーンソーの轟音とアンドレがチェーンソーをギターに喩えていること、そして極めつけの吐瀉物をすする音。瞬間的なものの持続性として、瞬間性と持続性を兼ね備えた「アンドレ・ショー」はフリードの二項対立をあっさりと退ける。フリードの現前性や全体性の擁護—そして、それを支えている瞬間性/持続性という二項対立という前提—はフリード自身の一神教的な価値観が強く影響していることは多くの論者が指摘している(注7)ことだが、アンドレが常に「神を信じていますか? (Do you believe in god?)』と問いかけるように、「アンドレ・ショー」はフリードの瞬間性の擁護に疑義を唱えるものだ。

瞬間性、あるいはレトリックの可変性

「アンドレ・ショー」は単なるコメディ番組として機能するだけでなく、社会批評としてもその役割を果たしている。その批評性は、「アンドレ・ショー」によるレトリックの可変性、つまり瞬間的なことを様々な場所でやってのけるアンドレという道化的存在によって担保されていると言ってよいだろう。ここでは、「アンドレ・ショー」を白人司会者によるコメディ番組の一つである「ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベアー」(以下、「ザ・レイト・ショー」)と比較対照することで、レトリックによるアンドレ自身の瞬間的な可変性を前景化させる。比較対照するのは、「アンドレ・ショー」と「ザ・レイト・ショー」における2016年の共和党全国大会 (Repubican National COnvention; RNC) と民主党全国大会 (Democratic National Convention; DNC) の扱いだ。RNCとDNCは4年ごとの大統領選挙の前に開催され、この大会で両党の公認候補者が指名される。「アンドレ・ショー」と「ザ・レイト・ショー」の司会者であるアンドレとスティーヴン・コルベアーはそれぞれ2016年のRNCとDNCの様子をレポートしている。アンドレとコルベアーともに、DNCがRNCより閉鎖的であることにおいては主張が似ているが、両者の相違点は、コルベアーの政治的な主張はリベラルとして一貫しているが、アンドレはリベラルと保守という「異なる価値観の間を飛び回り、さまざまな主張を行いうる」(レイナム)ことにある。
 2016年7月に開催されたRNCを取材したアンドレの様子を収めた「エリック・アット・ザ・RNC」では、アンドレがステージ上で陰謀論的な極右メディアとして知られるインフォ・ウォーズのアレックス・ジョーンズと会話しているシーンが登場する。会話の内容はともかく、ジョーンズとその周りの観客がアンドレをステージ上に—なかば強引に—上げたことはアンドレにとっても驚きだったのではないか。アンドレの番組を、民主党を支持していことで知られる「ザ・デイリー・ショー」と混同していたことからも、なぜか「リベラルな」アンドレをステージに上げるジョーンズの一種の寛容さが強調されている。

 コルベアーもRNCに参加していた多くの共和党支持者に同じような感情を抱いていたにちがいない。なぜなら、彼はRNCへのレポートの冒頭で、トランプを大統領候補に指名した共和党員に実際に会ってみて、「正直にいうと、彼らは良い人たちで、より良い候補者を支持するにふさわしい (I gotta say, they’re good people who deserve a better candidate)」という率直な感想を述べている。また、コルベアーはRNC参加者に対して「トランプ・オア・フォルス」と題したゲームを実施するなかで、価値観が違うコルベアーに対する彼らの歓迎的なムードを積極的にカメラに映している。

 一方で、リベラルな民主党の全国大会 DNC では、アンドレとコルベアーともにDNCの非寛容的な態勢を描写している。アンドレはDNC会場への入場を許可されず、あえなく「エリック・ニアー・ザ・DNC」、つまり「DNCの近くのエリック」というレポートを会場の外でした。アンドレが会場を区切っている「檻」を叩きながら「入らせてくれ!(Let me in!)」と狂気的に叫ぶシーンはメームでも多用されている印象的な場面である。リベラルであるコルベアーはアンドレとは違って、DNCに入場する許可を得たが、カメラが映すのはDNCの非寛容的な対応である。

 コルベアーはユリウス・フリッカーマンという『ハンガー・ゲーム』—コルベアーの番組は「ハンガー・ゲーム」をもじった「ハングリー・フォー・パワー・ゲームズ」(「権力に飢えた者たちのゲーム」)と題された特集のなかでDNCをレポートしている—に登場するキャラクターになりきって、DNCのステージに上がろうとする。しかし、職員や警備員に何度も断られ、最終的にコルベアーは強引にステージに上がる。

 コルベアーの一貫したリベラルの政治観とトランプ批判に反し、アンドレは左に寄ったり、右に寄ったり、どっちつかずの「政治的」な主張によって視聴者、そしてキャノンであるリベラルなコメディ・ショーを錯乱する。コルベアーはたとえ共和党員がコルベアーに歓迎的だとしても、彼のリベラルな姿勢とトランプを非難する論調を貫き通している。例えば、上述した「トランプ・オア・フォルス」というゲームにおいて、コルベアーはRNC参加者にトランプの本当の発言とトランプが言っていない架空の発言のどちらかを提示し、トランプの発言かそうではないかを当ててもらう。このゲームはトランプ/共和党支持者がどのくらいトランプのことを知っているかというテストだけでなく、トランプがこんな過激な発言をしたかということをわからせるためのゲームであって、ここにはトランプに対する嫌悪感だけでなく、リベラル的な啓蒙主義が反映されている。
 一方、アンドレはRNCにおいてアレックス・ジョーンズの「歓迎」を受け入れてステージに上がるも、ジョーンズを撹乱させようと持ち前のレトリックによって異なる政治的価値観を縦横無尽に疾走/失踪する。ジョーンズとの会話の冒頭から、アンドレは自分が「民主党員でもなく、ニヒリストである  (強調筆者) (I’m not a Democrat either, I’m a nihilist)」ことを公表し、ジョーンズにアンドレが「ザ・デイリー・ショー」と勘違いされた返答として、「「ザ・デイリー・ショー」じゃなくて、マイスペース 〔Myspace: 2000年代に流行した音楽共有サイト (筆者注)〕に出てるよ」とジョーンズをからかう。ここからリベラル的なポリティカル・コレクトネスを逸脱するような発言(「私の妻とセックスしてほしい」)—これに対してはさすがのジョーンズや共和党支持者もドン引きする—や文脈と無関係な発言(「なんで私のおしっこは黄色く出てくるの?」)をする。DNCの会場近くにおいても、ポリティカル・コレクトネスを無視した発言を繰り返し、民主党支持者のまえで公然と民主党の大統領候補であったヒラリー・クリントン似の女性と服を着たまま擬似的なセックスを行う。
 このようにRNC、DNC関係なく、アンドレは政治的な価値観や規範を否定するのではなく、レトリックによってそれらを「修正」することで、リチャード・A・レイナムのいう自分自身のレトリックの可塑性を実践している。レイナムを引用する山田が言うには、「演劇的・遊戯的で、複数の価値体系に属し、駄洒落好きで何よりも「シリアス」なものに反対する」という道化の性質は、白人の言説を逃れることに適していて、それはレイナムが開示する「人間における修辞性、レトリック的自我なるもの」(強調原文)を象徴している(注8)。
 そして、このレトリック的自我の可変性は、その自我の表層において発生する。ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアの黒人文学理論論ではシニフィアン/シニフィエの二項対立を脱構築し、「シニフィアンの実質性」に着目することろにアフロアメリカンのレトリックの真髄を読み取っている(注9)。「アンドレ・ショー」において、そのシニフィアンの実質性は「チープ」という技術であり一種の概念にこめられている。それは「アンドレ・ショー」という低い予算で制作されている番組だからこそ可能であるレトリックの表層性だ。
 例えば、アンドレがニューヨークの地下鉄のなかで、大量のM&M’s(チョコレート菓子)を電車内にこぼすというドッキリで、最後アンドレは床に落ちている、白人男性の足元にあるM&M’sを食べる。白人男性はアンドレの行動を終始無視している。しかし、編集によってその男性がサングラスをかけると、途端に彼の表情がにこやかになる。編集による表情の変化は「アンドレ・ショー」におけるレトリックの可変性を支えている。ドッキリの対象の表情を変化させることによって、たとえその対象がドッキリに対して嫌悪感を抱いていたとしても、編集によってドッキリに好意的な印象を抱いていると映すことができる。これによって、アンドレのドッキリが社会的な規範を破った迷惑行為という立ち位置から、M&M’sを乗客に配っている心優しい行為へと一変する。ドッキリの対象の価値観の変化は社会の規範を変化させることにつながる。M&M’sの砂糖のコーティングのように、レトリックは、溶けて液体になりやすい社会批評性を、様々な色の可変性によって守る—防御は最大の攻撃である。

(当該箇所は0:59から)

 「アンドレ・ショー」がポストコロニアル批評としての力を存分に発揮しているのだとしたら、その力の源泉は「アンドレ・ショー」におけるチープな瞬間性—例えば、表層的な顔の編集技術—にあるのではないか。

反復するSignifying Monkey

しかし、そのような批評性はアメリカのほとんどのコメディ番組でみられる。しかし、「アンドレ・ショー」の批評性は白人司会者によるトランプ批判とは異なり、白人司会者によるトランプ批判をも乗り越えるような批評性を持っている。ポストコロニアル的な批評性は、「アンドレ・ショー」におけるレトリックの瞬間性と持続性の同居によって成立している、と私は主張する。ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアの『シグニファイング・モンキー』という黒人文学理論の名著における「修正」という概念が「アンドレ・ショー」におけるレトリックの特異性を開示する。
 ゲイツは『シグニファイング・モンキー』において、シグニファイング・モンキーというアフリカ系アメリカ人に引き継がれる神話上のトリックスターである猿を通じ、黒人文学における「シグニファイング」という修辞技法を黒人のポストコロニアル的な批判理論として位置づける。そして、この論考においてもっとも重要になるのは、先述した黒人文学史に一貫している「修正 (revision)」という行為の詳細な分析である。ゲイツによれば、黒人ヴァナキュラーによる白人の言説批判が「修正」によって行われている。
 「シグニファイング (Signifying)」という単語はもともとソシュールの構造言語学に由来する。構造言語学では、「シグニフィケーション (Signifying の原型 signify の名詞形)」は「言葉の音と意味の対応関係」を意味する。そこでは、言葉の音は「シニフィアン (signifier)」、その言葉の意味は「シニフィエ (signified)」と呼ばれる。そして、シニフィアンはシニフィエを「意味する (signify)」。例えば、「ネコ」という言葉のシニフィアンは「ネコ」という音や文字(文字通り「ネコ」と発音し、そう書く)で、「ネコ」のシニフィエは猫という意味を指す。
 しかし、黒人のヴァナキュラー言語において「シグニファイング」という言葉は異なる意味を持つ。黒人のヴァナキュラー言語、つまりアフリカ系アメリカ人の言語文化のなかでは、「シグニファイング (Signifyin(g))」(注10)は言語を用いた間接的なトリック、「もの騙り」(注11)である。ゲイツによれば、レトリックとしての「シグニファイング」は「すべての言語ゲーム—それは比喩的な置換であったり、統合的なシニフィアン連鎖の一見筋の通った線形性を撹乱する、ラカン的、ソシュール的なパラダイム軸による自由連想の一時停止であったりする—を含む」(注12)。
 ゲイツが扱うシグニファイング・モンキーというトリックスターの猿はこのようなレトリックをうまく利用することで相手の論理的な破綻をほどく。シグニファイング・モンキーの神話には、ライオン、象、そしてトリックスターの猿が登場する。そこでは、ライオンと象がジャングルの王様の席を争っている。ジャングルにいる動物たちはみな象がジャングルの王様だと考えているが、ライオンは自分が本当のジャングルの王様だと主張する。トリックスターである猿の役目はライオンと象の対立を調停することだ。そこで猿は持ち前のレトリックを武器に、ライオンがもっている幻想を解こうとする。例えば、猿は、象がライオンに対して言ったとされる悪口(ライオンの奥さん、ライオンの「ママ」、そしてライオンの「おばあちゃん」!)を再利用して、ライオンを「ジャングルの王様」の座から降ろそうとする(注13)。このとき、猿はライオンが想定している「ジャングルの王様」という統合的な線形性を性的で暴力的な言語の使い方=レトリックによって錯乱する。「それ [シグニファイング] とは反復と修正、もしくは記号的な差異をともなった反復である」とゲイツが強調するように、シグニファイングという黒人文学におけるレトリックは文学の歴史を反復しながら、それを比喩を用いながら変化させているプロセスである。(強調原文) (注14)

 まず、ゲイツは黒人文学が西洋文学や他の黒人文学から影響を受けていることを明確にする。そして、その影響によって、黒人文学は一方では伝統的な西洋文学から受け取った比喩や語りの技法を反復しているということを確認する。例えば、黒人作家のゾラ・ニール・ハーストン (Zola Neale Hurston) の言葉「ミミクリーはそれ自体で芸術である」をひき、西洋文学(や他の黒人文学)からの影響を受けているという黒人作家の歴史的な自己意識を前景化する(注15)。
 だが、黒人文学はただ単に西洋文学の伝統を受け取り反復するのではなく、それを修正することで西洋文学を批判する。例えば、ゲイツはイシュメール・リードのポストモダン小説『マンボ・ジャンボ』が修正による西洋文学批判を行っているという。『マンボ・ジャンボ』がゲイツによって高く評価されるのは、それがもともと伝統的な黒人文学を批評の対象にしているからである。とくにリードはパスティーシュを用いて、伝統的な黒人文学が前提としている「超越的な黒人の主体—完全で、全体的で、自律的で、豊かな、「常に既に」黒人のシニフィエ—のアフロ・アメリカン観念主義」を批判する。ゲイツはこう続ける、「[アフロ・アメリカン観念主義] は深く暗い井戸からすくった水のように、受け取られた西洋的な形式の文学表象に使うことができる。水はグラスやカップ、缶容器に入れられるが、水はそのままだ。」(注16)。伝統的な黒人文学が想定しているのは、結局はデカルト的な観念論の黒人バージョンであって、そのような想定は西洋文学の静的な「グラスやカップ、缶容器」に吸収されてしまう。そうなってしまっては、「黒人」文学の存在意義が成立しないではないか。リードはそのような危機意識を抱いて『マンボ・ジャンボ』を上梓することで、黒人の経験や言説は「深く暗い井戸」の水のように動的で、西洋のシニフィアン/シニフィエの二項対立には当てはまらないと主張した。伝統的な黒人文学を批判することは、それに影響を与えたもとの西洋文学をも批判する—こちらがリードの真の狙いである—ことにつながる。
 『マンボ・ジャンボ』という題名じたい、西洋の言説を再利用して西洋を批判する修正の賜物である。ゲイツによれば、もともと「マンボ・ジャンボ (Mumbo Jumbo)」という言葉は、西洋では意味不明で、どこからきたかわからないことを表す言葉として使われ、とくに白人にとっては理解しがたかった黒人の宗教的儀式や黒人の言語に向けられて使われていた。そのような言葉を小説の題名にすることは、『マンボ・ジャンボ』を白人読者が理解できない、読めない書物へと変化させ、「誤称による西洋的な単純化の乱用や…黒人の創造性を匿名化する」ことを非難する(注17)。つまり、修正という行為において、黒人ヴァナキュラーの西洋文学批判が白人の言説を再利用して行われているということだ。そして、この「修正」という黒人文学に通底する文化は、瞬間的なものの持続によって支えられている「アンドレ・ショー」の根本的なレトリックを示している。

Signifying Monkey としてのアンドレ

リードのような修正を用いた西洋文学のキャノン批判、いわゆる脱キャノン化 (decanonization) —脱植民地化 (decolonization) の「ol」を「an」に変えただけの言葉—は、「アンドレ・ショー」が白人の言説を再利用したシグニファイングのレトリックを活用していることと重なり合う。「アンドレ・ショー」はアンドレという司会者が机の椅子に座り、ゲストを肘掛け椅子に迎え、トークを繰り広げる。これは他のアメリカのコメディ・ショーやトーク・ショーと同じ形式、セットである。「ザ・デイリー・ショー」や「レイト・ショー・ウィズ」のようなコメディ番組のほとんどが、司会者によるモノローグとゲストとの一対一のトークによって構成されている。このようなアメリカのゴールデンタイムに放送されているコメディ番組をキャノンとすると、「アンドレ・ショー」はこれらのキャノンと似た番組構成によって成立している。つまり、キャノンの言説を反復している。しかし、キャノンと異なる部分は「アンドレ・ショー」の非-多様性であったり、一対多の構図であったり、キャノンの普遍的西欧性を押し込めるものである。
 『アンドレ・ショー」の登場人物をみてみると、積極的に有色人種を採用していることがわかる。司会者であるエリック・アンドレはユダヤ人の母とハイチ系黒人の父のあいだに生まれたユダヤ系黒人、副司会者 (co-host) (注18)のハンニバル・ビュレスは黒人、そして「アンドレ・ショー」のバンド(アメリカの多くのトーク・ショーではバンドが番組の挿入歌やBGMを演奏する)メンバーは黒人やアジア人が多い。
 それに対して、キャノンのトーク・ショーの登場人物も人種的に多様である。ピーター・ホワイトが指摘するように、深夜におけるコメディ番組における可視的な人種的多様性(ステージ上の登場人物の人種における多様性)は近年是正されている。非白人、非男性の司会者や放送作家によるトーク・ショーが増加傾向にあったり(注19)、白人男性司会者の番組でも人種的に多様なメンバーやゲストを呼んだりしている。「ザ・レイト・ショー」では、白人の男性司会者のスティーヴン・コルベアー以外の登場人物が有色人種または/および非男性であることが頻繁にある。例えば、この番組のバンドであるステイ・ヒューマンを率いるジョン・バティステ は黒人、バンドメンバーも黒人や女性が多い。また、ホワイトは白人男性コメディアン、ジミー・キンメルによる「ジミー・キンメル・ライブ!」はキンメルの夏季休暇中、人種的に多様な代役を用意したことを指摘する(注20)。
 このように「アンドレ・ショー」と白人男性司会者によるコメディ・トークショーの登場人物に同じような人種的な多様性を見出すことができる。だが、「アンドレ・ショー」は逆に白人がゲストを除いてほぼ登場してこない。そのため、白人が登場してくるときはその白人の存在が強調される。ここでは、「非」多様性によって強調された2種類の白人の存在—ジョージ・クルーニーとPAについて検討しよう。

ジョージ・クルーニー
ウィズ・カリファをゲストに迎えた回 (S3E06)では、ジョージ・クルーニーに似た白人男性(以下、「クルーニー」)がアンドレの机の下から机を突き破って突然登場し、床を転がって退場する。

クルーニーはこのとき「ラッパーの臭いがする」と発言し、それに続き、慣れないラップを模倣することを試みようと連続した単語を発する。
 ラッパーのオマリオンがゲストで登場する回 (S5E03) においても、クルーニーが登場する。アンドレがオマリオンに寿司が食べたいかと聞き、オマリオンの答えを聞かないまま、女性の裸体に乗せられた寿司が登場する。オマリオンは「女体盛り」に少し戸惑うも、アンドレの予想を裏切ろうと寿司を食べようとする。だが、今度はチリコンカンを乗せた全裸のクルーニーが登場する。クルーニーは陰部についたチリをなめ、そのまま退場する。

 クルーニーが登場する二つの場面において、クルーニーは文化盗用 (cultural appropriation) を公然と行うことで「場違いな盗人」を演じている。アメリカを代表するラッパーのウィズ・カリファの登場回において、ラップという黒人文化を白人であるクルーニーが安易に真似ることは、「白人が黒人文化を安易に真似る」という文化の盗用であると多くのアメリカのリベラルが主張するだろう。また、クルーニーがテキサス州のメキシコ系アメリカ人に由来するチリコンカンを全裸の体に「まとっている」ことは、ある種白人であるクルーニーがメキシコ系アメリカ人の食文化をまとっているように捉えることができる。このようにクルーニーは文化盗用を公然と行う白人男性を象徴していて、「アンドレ・ショー」の非多様性はその存在を強調している。
 ジョージ・クルーニーという有名俳優に託して、黒人文化やメキシコ系アメリカ人の文化を盗用を行わせることで、「アンドレ・ショー」はクルーニー同じくリベラルなキャノンの、白人司会者によるコメディ番組をシグニファイングしている。ジョージ・クルーニーはリベラル的なアクティビスムや慈善活動で有名で、過去の大統領選では民主党を支持している。そういったリベラルな人物像がリベラルの価値観とは正反対の文化盗用をしていることが矛盾している。しかし興味深いのは、S5S03でチリコンカンをまとったクルーニーが登場するとき、彼が「オーシャンズ11」に出演していることを紹介することだ(”George Clooney from Ocean’s Eleven”(「「オーシャンズ11」のジョージ・クルーニー」))。「オーシャンズ11」という2001年に公開された映画はクルーニー演じるダニー・オーシャンが率いる11人の強盗集団がラスベガスのカジノを襲うというハイスト・ストーリーが描かれている。つまりアンドレが、「オーシャンズ11」が彼の代表作であるようにクルーニーを紹介するということは、彼がプロフェッショナルの盗人であることを強調しているということを示している。それがお金であれ、文化であれ、盗んでいることには変わりない。
 極度に誇張された「盗人」というクルーニーのイメージは視聴者の頭から簡単には離れない。このイメージは「アンドレ・ショー」とキャノンとの関係性を逆転する。つまり、「アンドレ・ショー」はキャノンであるコメディ・ショーの番組構成や登場人物を模倣=反復しているが、クルーニーという有名=キャノニカル (cannonical) でリベラルな俳優を「盗人」として描写することで、あたかもキャノンが「アンドレ・ショー」を模倣しているという「キャノン」の転覆を図っている。

PA
番組の途中で瞬間的に乱入してくる全裸の白人男性PAも、「アンドレ・ショー」のなかで極度に誇張された白人のひとりだ。先述したウィズ・カリファの登場回 (S3E06) のなかで、自分のジョークに笑いすぎてアンドレがパンチで机を破壊した後、全裸の白人男性PAをステージに連れてきてそのPAを殴りつけ、それに対してカリファがドン引きするシーンがある。このPAはオマリオンの登場回 (S5E03) で再び全裸姿を現す。ドッキリVTRを挟み、オマリオンとのトークが再開するところで、S3E06で登場した白人PAがアンドレの質問中に突然アンドレに殴りかかる。その後、机を破壊し、アンドレに暴言を吐き、退場する。
 この全裸の白人男性PAはいつもはステージ裏に存在して、番組制作をサポートするスタッフである。つまり、視聴者はPAを見ることができない。しかし、PAがステージに乱入してはじめて、私たちは彼の存在を認識することができる。そして、そのPAは番組スタッフのなかで唯一視聴者が鮮明にその存在を認識しているスタッフだ。私たちは知ろうとしない限り、「アンドレ・ショー」の制作スタッフの存在を知らない—彼らはエンドロールにその名前が出てくるだけだ。しかし、このPAは白人という非多様的なステージ上では可視的だ。私たちはこの白人男性PAを一般化して、ステージ裏は結局白人男性という人種的マジョリティばかりが番組を制作していると思ってしまう。だが、実際にはそうではない。この番組のディレクターの一人はキタオ・サクライという日系アメリカ人であったり(もう一人のアンドリュー・バーチロンは白人)、長年「アンドレ・ショー」の放送作家を務めているデリック・ベックルスは黒人だ(放送作家監督ダン・カリーは白人)。
 白人男性PAというステージに通常登場しない番組スタッフを全裸で登場させることで、その白い体は暗いステージで歴然と「輝く」。しかし、その輝きは白人たちにとっては恥ずかしきものでしかない。なぜなら、まずその白人は自分の全裸を周りの人々と視聴者に見られているし、なおかつ多様性の言説を逆手に利用した「アンドレ・ショー」によって辱められているからである。キャノンであるコメディ番組において、人種的な多様性が目的化してしまっているという現状に対して、「アンドレ・ショー」は人種的な「非」多様性を導入することで、あえて白人をスポットライトに当てる。しかし、スポットライトを当てられた白人たちは、白人司会者によるキャノンであり、その表面的なリベラリズムを批判されてしまう。そこでは、ジョージ・クルーニーという「盗人」がキャノン、そしてオリジナルという概念を転覆させ、PAという「裏方」が「表」層に進出することによって、キャノンが多様性ではなく、その可視性を信奉していることが暴露される。
 「アンドレ・ショー」はキャノンと呼ばれるリベラルなコメディ番組が信奉するリベラリズムという規範を踏みにじる。ルイス・ハイド´が『トリックスターの系譜』で指摘するように、シグニファイング・モンキーの神話において、ライオンは「家族に対して従順であるべきだ」という規範を信じ、それを実態化していることを「規範と実態の観念」を名付け、ライオンはその実態化された規範に囚われていると主張する。そして、トリックスターの猿は言葉遊びを通じて、その規範を別の規範に置き換えることができる。山田宗史が言うには、猿の言葉遊びによるシグニフィアイングは現実の規範を二重化する「道化的な営み」である(注21)。同様に、「アンドレ・ショー」もキャノンと呼ばれるリベラルなコメディ番組が信奉するリベラリズムという規範を踏みにじる。キャノンはそれが規範とするリベラリズムを実態化しようと、人種的な多様性を導入するが、アンドレはそれを非多様性によって強調された白人像に代表される新たな規範を持ち込むことで、道化的に現実における規範を二重化しているといえないだろうか。今から、この二重性を「アンドレ・ショー」の複雑な批評性に見出してみる。

美馬達哉の<メタ可塑性>と躁鬱病

「アンドレ・ショー」のシュルレアリスム的時間が道化的なポストコロニアルレトリックに沿って流れていく。可変的な、瞬間的なレトリックが様々な場所で繰り返されることで、撹乱されていく砲台。カトリーヌ・マラブーが「アンドレ・ショー」を観たら、彼女はその瞬間的可塑性のラディカルさに希望さえも抱くのかもしれない。 

可塑性は堅くなった過去の可塑化 (plastification) —あるいは凝固—とプラスティカージュ (plastiage) —あるいはプラスチック爆弾による爆発—との間にある、その未来の約束を果たす。(注22)

 しかし、マラブー の盲点は、砲台が一瞬にして世界を破壊してしまうという可塑性にしか希望を抱いていないことだ。この西洋=キャノンへの一辺倒は彼岸にある持続性、つまり『ヘーゲルの未来』の副題にも含まれる「時間性 (temporalité)」を残念ながら無視してしまっている。マラブーにとって、可塑性は柔軟性というネオリベラリズム的価値観に取って代わる、私たちの持っている唯一の武器である。この可塑性は脳のニューラルネットワークを変化させ、劇的に異なるアイデンティティを形成する。これによってのみ、私たちはグローバル資本主義において重要視されている柔軟性=<形を受け取る能力>—臨機応変に対応するスキル—から逃れることはできない。たしかに「アンドレ・ショー」におけるレトリックの可変性はマラブーが擁護する破壊的可塑性によって可能になっている。
 けれども、美馬達哉はマラブーが可塑性のみに希望をを抱いていることに対して批判的である。そこで美馬は最新の脳科学の知見でマラブーの可塑性論を読み替える。

すなわち、記憶や学習に関わってシナプスの調節の可塑性が可能となる条件とは、一つのシナプスのうちに可塑的な増強のメカニズムとその増強を可塑的に抑制するメカニズムとが同時に含まれていることになるだろう。可塑性には、<形を受け取る能力>と<形を与える能力>だけではなく、そうした能力と外延を同じくして<形を忘れる能力>もまた内在的に備わっていることが生物学的に要請される。(注23)

脳はすべてを記憶することはできない。何かしらは記憶し、何かしらは忘れるというプロセスにおいて、<形を与える能力>と<形を忘れる能力>が同時に働いている。このとき、私たちは可塑性が二重に働いていることを目の当たりにする。「「可塑性の可塑性」として二重化された可塑性である<メタ可塑性>」(注24)。そして、美馬はこの<メタ可塑性>にマラブーがネオリベラリズム的と退けた柔軟性の重要性を再発掘する。柔軟性は可塑性と違い、先述した<形を与える能力>と<形を忘れる能力>を合わせたものだ。あるときは臨機応変に対応するという<形を受け取る能力>を発揮し、一方あるときは受け取るべき形を忘れるという<形を忘れる能力>がある。「アンドレ・ショー」においても、<メタ可塑性>のような柔軟な硬直性は、文脈の流れを柔軟に受け取りながらも、受け取ることを全くやめてしまうアンドレに見出すことができる。
 例えば、S5E02におけるドッキリでは、アンドレが車椅子に乗った父親を階段すれすれに放置し、アンドレがトイレに行っている間、通りがかった一般人に父を見守らせる。父が勝手に階段から落ちると、父は見守っていた人が自分を階段から落としたと見守っていた人たちのせいにする。見守っていた人が焦りながら父を助けようとするという滑稽な姿を私たち視聴者は楽しむのだが、アンドレはさらに踏み込む。息子のアンドレは父が階段から落ちたことを深刻な事件として仕立て上げようとするが、最終的にはアンドレが突然この世の問題を全て解決するかのような薬の宣伝をする。この薬は抗鬱剤(厳密には、不安障害やパニック障害に対する薬)であるザナックスのような薬として表象され、アンドレは不気味な笑みを浮かべながら「起こりうる最悪のことは何ですか?」という文句で宣伝する。

(当該箇所は1:43-2:48)

 このドッキリでアンドレは最初父が階段から落ちた姿を見て、見守っていた人たちを信じられなくなるという文脈に沿った反応をする。しかし、突如アンドレは今までの文脈を忘れたかのように抗鬱剤の宣伝をし始める。つまり、アンドレは人間不信的な鬱状態から、その鬱状態を克服するために薬を信じるというある種の躁状態への転換をする。この躁鬱的なドッキリは、「アンドレ・ショー」における多くの倒錯的なドッキリ—単に一般人を邪魔するドッキリ—とは異なり、<形を与える能力>としての鬱状態と<形を忘れる能力>としての躁状態を二重に経験する。変態=倒錯者 (pervert) としてのアンドレから躁鬱病患者としてのアンドレへ。躁鬱病は資本主義によって生成されると同時に、マラブー の可塑性とは違う、資本主義から逃れる新たな道としてそれは開かれる。資本主義に対する矛盾した批評性は「アンドレ・ショー」の躁鬱的な性格に秘められている。

エピローグ:アンドレの時代へ

 ブルトンが「気どった言葉の遊び」と批判したのは、未知のものを既知のものにしてしまう私たちの全能感である。シュルレアリスムはこの理性的だと私たちが思っている全能感を解体しようとする。ゲイツが黒人文学史のなかに発見し、アンドレがそれを用いてキャノンを批判した「シグニファイング」も言葉遊びだということは強調しなければならない。しかし、「シグニファイング」はまったくもって「気どって」いない。「シグニファイング」は黒人のレイシズムに対するもっとも巧妙な反抗である。それは規範の二重化、いわゆる躁鬱的なレトリックの「柔軟性」にあって、その柔軟性はマラブーの主張と反して、決して資本主義を引きつけない。ここで私たちは奴隷制に始まる人種主義の歴史が資本主義によって支えられていることを無視してはならない。「アンドレ・ショー」は<メタ可塑性>的な二重化を駆使して、資本主義と人種主義という二大巨頭を錯乱する。そのとき、アンドレのレトリックは気どった「マリヴォーダージュ (Marivaudage)」でもマラブー の「プラスティカージュ (Plasticage)」でもなく「アンドレアージュ (Andréage)」=「アンドレの時代」となるのだ。

注釈

注1:アンドレ・ブルトン、『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』、巖谷國士訳、岩波文庫、1992年。
注2:https://www.lobero.org/2020/07/1971-richard-pryor/.
原文は“Richard Pryor drew the line between comedy and tragedy as thin as one could possibly paint it.” (筆者訳)
注3:ブルトン、46頁。
注4:https://tv.avclub.com/eric-andre-says-a-bunch-of-bullshit-1798273732.
注5:Michael Fried, "Art and Objecthood," Artforum, 1967, Annotation 18.
注6:林道郎、鈴木雅雄、『シュルレアリスム美術を語るために』、水声文庫、2011年、25-26頁。
注7:沢山遼による「芸術と客体性」の解説や入江哲郎のnote記事を参照されたい。
注8:山田宗史、「シグニファイング・イエローモンキー--木島始の道化的知」、『機関精神史 第3号』、2020年、 92頁。
注9:山田、92頁。
注10:Signifyingのgがかっこに括られているのは、この単語を発音する場合、多くの黒人が g の音を発さないからだ。ゲイツによれば、gの欠如が白人と黒人との違いを強く意味づけている。(Henry Louis Gates Jr., "The Signifying Monkey," Oxford University Press, 1988, p. 46)
注11:黒人ヴァナキュラー言語における Lies (嘘、騙し)は「伝統的なアフリカ系アメリカ人の単語で、比喩的な言説や物語を意味する」という。(Gates, p. 56の脚注を参照)
注12:Gates, p. 58.
原文は、For Signifyin(g) constitutes all of the language games, the figurative substitutions, the free associations held in abeyance by Lacan's or Saussure's paradigmatic axis, which disturb the seemingly coherent linearity of the syntagmatic chain of signifiers.” (筆者訳)
注13:Gates, p. 56.
注14:Gates, p. xxiv.
原文は、"I decided to analyze the nature and function of Signifyin(g) precisely because it is repetition and revision, or repetition with a signal difference." (筆者訳)
注15:Gates, p. 118.
注16:Gates, p. 218.
原文は、”Reed criticizes the Afro-American idealism of a transcendent black subject, integral and whole, self-sufficient, and plentiful, the "always already" black signified, available for literary representation in received Western forms as would be the water dippered from a deep and dark well. Water can be poured into glasses or cups or canisters, but it remains water just the same.” (筆者訳)
注17:Gates, p. 221.
原文は、"Mumbo Jumbo, then, Signifies upon Western etymology, abusive Western practices of deflation through misnaming, and ... black creativity as anonymous. (筆者訳)
注18:ビュレスが番組を降りたS5-03以降の3人の代役(ブラニバル (Blannibal)、フェリペ・エスパーザ (Felipe Esparza)、ラキース・スタンフィールド (Lakeith Stanfield)も全員黒人もしくはラティーノである。
注19:ホワイトは黒人でレズビアンの放送作家サム・ジェイによる「サタデー・ナイト・ライブ」や黒人女性コメディアン、アンバー・ラフィンによる「アンバー・ラフィン・ショー」の登場をその例に挙げる。
注20:Peter White, "Late-Night Laughs: Diversity, The Debate & ‘Desus & Mero’," Deadline, 2020/10/2, 
https://deadline.com/2020/10/late-night-diversity-trump-biden-debate-reaction-desus-and-mero-late-night-laughs-1234589718/.
注21:山田、91頁。
注22:Catherine Malabou, "L'Avenir de Hegel: Plasticité, Temporalité, Dialectique," Vrin, 1996, p. 252.
原文は、"La plasticité accomplit sa promesse d’avenir entre la plastification - ou solidification - et le plasticage - ou explosion - du passé rigidifié."(筆者訳)
注23:美馬達哉、「第四章 可塑性とその分身」、人文書院、2009年。
注24:美馬、「第四章 可塑性とその分身」。

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