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マイケル・フリードとジョナサン・エドワーズ——『アメリカ哲学史』翻訳余滴

みなさまこんにちは。私はアメリカ思想史が専門の研究者で、映画批評もときどき書いています。だいぶまえにnoteのアカウントを作ったものの放置していたのですが、せっかくなので試しに記事を書いてみることにしました。みなさまが自宅でまったり過ごされる際の暇つぶしとしてご笑覧いただけましたら幸いです。

去る2月に、私も共訳しているブルース・ククリック『アメリカ哲学史——一七二〇年から二〇〇〇年まで』(勁草書房)という本が出版されました。私は同書第1–3章の訳と訳者解説の執筆を担当しています。今回は、『アメリカ哲学史』を翻訳しながらつらつら考えていたことのひとつを、とりとめもなく綴ってみようと思います。

私が担当した『アメリカ哲学史』第1章は、「カルヴィニズムとジョナサン・エドワーズ」と題されています。ジョナサン・エドワーズは、1703年から58年まで北米植民地で生きたプロテスタントの牧師です。「アメリカ哲学史なのになぜ牧師の話から始まるの?」と思われるかもしれませんが、ここにはアメリカ思想史の特殊事情があり、また18世紀半ばの北米においてエドワーズの神学体系は哲学的にもっとも高い水準に達していました。詳しく知りたい方はぜひ『アメリカ哲学史』をお手に取ってください。

「ジョナサン・エドワーズ」という名前に私がはじめて出会ったのは、学部生のころ、『批評空間』という雑誌(第2期、太田出版)の1995年臨時増刊号『モダニズムのハード・コア——現代美術批評の地平』(浅田彰+岡崎乾二郎+松浦寿夫編)を図書館で読んでいたときでした。この『モダニズムのハード・コア』は伝説的な1冊でして、ながらくAmazonの古書価格が高騰していたはずですが(だから私は図書館で読んだのでした)、いまはKindleで読めるようになっています。ここに収められたマイケル・フリード「芸術と客体性」(川田都樹子+藤枝晃雄訳、66–99頁)という論文の冒頭のエピグラフに、エドワーズが登場します。少し長いですが、エピグラフ(66頁)を丸ごと引用してみましょう(以下、同論文からの引用はすべて『モダニズムのハード・コア』に拠る)。

エドワーズは、しばしば日記のなかで、印刷物にはめったにしようとしなかったような、ある瞑想を掘り下げて語ろうとしていた。彼はこう書いている——もしもこの全世界が絶滅して、全く新しい世界が創造されるとしたら、たとえその世界がこの世界とあらゆる個々の点で同じあり方で存在していようとも、それはこの世界と同一物ではないだろう。従って次のように言える。連続性、すなわち時間は存在するのだから、「私にとって確かなことは、世界はあらゆる瞬間ごとに新たに存在するということ、つまり事物は瞬間瞬間に存在することを止め、瞬間瞬間に更新させられるということである」。永遠に確かなことは、「もしも、我々が、神が最初に世界を創造するところを見たとしたら、その時に我々が見たであろう神の存在の証しと同じものを、我々はあらゆる瞬間に見ている」ということだ、と。
——ペリー・ミラー『ジョナサン・エドワーズ』

これを読んで学部生の私はまず、「ちょっとダサいのでは?」と思いました。つまり、エドワーズが何者かはまったく知らないけど、エドワーズをエピグラフに登場させたいならエドワーズ本人の著作から引用すべきであって、ペリー・ミラーとかいう人の研究書からの引用をエピグラフにするなんてちょっとカッコ悪い——と私は思ったのでした。我ながら愚かな感想です。というのも当時の私は、エドワーズを知らないばかりでなく、ペリー・ミラーという偉大なアメリカ思想史研究者のことも知らなかったのですから。

いまでは、エピグラフにおけるマイケル・フリードの戦術が味わい深く感じられます。あえて類比するなら、丸山眞男「福沢諭吉の哲学」(1947)や小林秀雄『本居宣長』(1977)からの引用がエピグラフに掲げられているようなもの、と言えば伝わりやすいでしょうか。ククリック『アメリカ哲学史』に私が寄せた訳者解説(411–27頁)では、アメリカ思想史という領域を簡単に概観する過程でペリー・ミラーにも言及したので、ミラーの位置づけについてはそちらをご参照ください。

他方で、いまになって抱かれるフリードへの不満もあります。

このエピグラフは、1949年に上梓されたペリー・ミラー『ジョナサン・エドワーズ』の最終章「歴史」の、最後から2番目の段落からの引用です。同章においてミラーは、エドワーズ没後の1774年に刊行された『贖いの業の歴史』を題材としながらエドワーズの歴史哲学を論じており、そして最後に、エピグラフの箇所で「日記ではこんなことも言っているよ!」と指摘しつつ、示唆を含ませたかたちで巻を締めくくっています。「日記〔journals〕」は実のところ、20代前後のエドワーズが書いていた神学研究ノートのようなもので、ミラーは手稿から直接引用していると思われますが(こうした文献学的探索をとおしてミラーはエドワーズ研究の地平を飛躍的に広げました)、いまはイェール大学出版会のThe Works of Jonathan Edwards第13巻において読むことができます(WJE 13:288)。

このエピグラフの箇所で披露されている「世界はあらゆる瞬間ごとに新たに存在する」というヴィジョンが、フリードにはきっと新鮮に響いたのでしょう。しかしキリスト教思想史にお詳しい方であれば、ここでエドワーズは「継続的創造〔creatio continua〕」への信念を表明しているのだとおわかりになるはずです。「継続的創造」は——『アメリカ哲学史』に私が付した訳註(21頁)から自己引用するなら——「創造という神の働きによって生まれたすべてのものは、次の瞬間も存在しつづけるためにたえず神の同じ働きを必要としているという考え」を表しており、「アウグスティヌス、トマス・アクィナス、デカルトなどに見られ」ます。

ククリックは『アメリカ哲学史』に「エドワーズは継続的創造を信じていた」とはっきり書いてしまっていますが(20頁)、これは微妙な点です。たとえば森本あんり『ジョナサン・エドワーズ研究』(創文社、1995年)では、「エドワーズは一時期実際にこのような〔継続的創造を信じる旨の〕発言を行なっているが、それはもっぱら神の主権性と被造世界の根源的な偶然性とを明示しようとした文脈においてなされた限定的な発言であって、彼の思想像がそこで最終的に収束したかのように考えるのは正しくない」と述べられています(55頁)。というわけで、デリケートな問題がいろいろとありますけれども、ひとまず、フリードへの私の不満は次の2点にまとめられます。

第一に、ミラーも「日記」におけるイレギュラーな「瞑想」として紹介しているエドワーズの言葉をエピグラフとして掲げてしまうと、ミラーの意図を超えて、あたかもこの言葉にエドワーズの本質を還元しうるかのような誤解が読者に生じかねない。第二に、もしエピグラフの肝が継続的創造のヴィジョンにあるのなら、それを代表させるうえでエドワーズ以上にふさわしい神学者ないし哲学者は何人もいたはずである。——これら2点です。

さてしかし、フリードはそもそもなぜこのエピグラフを「芸術と客体性」の冒頭に掲げたのでしょうか。

1967年初出の「芸術と客体性」(“Art and Objecthood”)の趣旨は、演劇的なもの(リテラリズム)と対峙する場所にモダニズム芸術の可能性の中心を見出すと——ごく乱暴ですが——まとめられるでしょう。さらに乱暴に図式化してしまえば、演劇的なもの/リテラリズム/持続が悪であり、絵画的なもの/モダニズム/現在性ないし瞬時性が善だということになります。本文にエドワーズはいっさい登場しませんが、エピグラフに込められたフリードの意図は最後の段落(ここだけ独立して第8節となっている)でほのめかされています。またこれを読めば、善悪という言葉を使った私のまとめ方がまったく不当というわけでもないことが伝わるでしょう。以下に引用してみます。

このエッセーは、特定の芸術家たち(批評家たち)への攻撃として、また他の者たちへの弁護として読まれることだろう。そしてもちろん、私にとって我々の時代に真正な芸術であるものとそれ以外の作品とを区別したいという欲求が、私が書いてきたことにとって、大いに動機となっていたということは事実である。真正な芸術以外の作品とは、その創作者たちの献身、情熱、知性が、たとえいかなるものであっても、リテラリズムと演劇という概念とここで結びつけられた特定の諸性格が分かち持っていると、私には思われるもののことだ。しかしながらこの最後の数文において、私が演劇によって堕落させられた、もしくは邪道に導かれたものとして性格づけてきた存在の感性もしくは在り方があまねく行き渡っていること——実質上の普遍性——に注意を促したいと思う。我々は皆、リテラリストである、我々の生の殆どもしくは全てが。現在性は、恩寵なのである。(93頁)

「現在性は、恩寵なのである」とはいったいどういうことでしょうか。この一文とエピグラフとの関連は少しあとで説明するとして、そのまえに、『モダニズムのハード・コア』に収められている磯崎新、柄谷行人、浅田彰、岡崎乾二郎の共同討議「モダニズム再考」でもフリードによる現在性ないし瞬時性の重視が問題となっていたことを確かめておきます。たとえば岡崎は、フリードの議論は「経験と対象(あるいは実体)のズレを強調し、むしろ多層的に生成する経験の厚みを強調しているようにどうしても聞こえてくる」けれども、にもかかわらず「フリードは、プロセスあるいは時間性に流れず、瞬間性を強調」しており、「その厚みのある経験がなおかつ無時間的で瞬間であるというところが非常に理解するのがむずかしい」と語ります(11頁)。また浅田はこう述べています。

ただ、フリードはかなり無理をしているところがある。つまり、現象的な立ち現れということを考えると、それこそ〔アンソニー・〕カロの彫刻でも、視点によって次々に変わってくるはずなんですね。また、フリードは、リテラルな一体性に対して、カロの彫刻は、さまざまな部分のシンタクティカルな関係性が面白いんだと言っている。しかし、その議論と瞬間性という議論は、本来はうまく合わないはずです。そこを強引に、ある瞬間のうちに純粋な意識に対して一挙に立ち現れる現象というところへもっていくわけです。(13頁)

正直なところ私は、フリードを擁護したいとも批判したいともまったく考えておりません。ただ、フリードは「かなり無理をして」でも、「強引」であってもなお「現在性は、恩寵なのである」と言いたかったのかもしれないという可能性は、私には興味深く思われました。「芸術と客体性」を読みなおしてみて私は、おそらく岡崎の感想とは逆に、最後の段落に至っていきなり一気に理解しやすくなったかのように感じました。「演劇によって堕落させられた、もしくは邪道に導かれた」という表現があり、「演劇」と「リテラリズム」が結びついており、かつ「我々は皆、リテラリストである」ということは、要するに我々はみな堕落しているということです。堕落してしまった我々はいかにして救われるのか——ジョナサン・エドワーズであればこの問いに、神から“grace”(「恩寵」ないし「恩恵」)を“infuse”(「注入」)されることによってであると答えたはずです。こうした事情に関する『アメリカ哲学史』第1章の説明も引いておきましょう。

キリスト教徒としての生における中心的な出来事は恩恵という賜物である。神は、超自然的なおこないをとおして、彼の栄光および愛への意識を罪人たちに注入し〔infuse〕、これによって彼らは自己崇拝をやめられるようになる。恩恵は神秘的な仕方で人間の利己心を変容させ、キリスト教徒たちを圧倒し、彼らをへりくだらせる。(12頁)

たとえばアンソニー・カロの彫刻に接することによって我々は、瞬間的に、まるで神から恩寵=恩恵を注入されかのごとくに、リテラリストからモダニストへ変容する——こう書いてみて自分でも「マジやべぇな」と思うのですが、しかし、こういうことをフリードは言いたかったのだろうと、私は「芸術と客体性」のエピグラフおよび締めくくりから解釈しました。かりに、ミラーのエドワーズ論から引かれたエピグラフに、変容の現在性および瞬時性を読者に印象づけようという意図が込められているだとすれば、先述のとおり、フリードはやや的はずれな箇所を選んでしまったと言わざるをえません。しかし実のところ、エドワーズにとって、恩恵の受領が直接的かつ瞬間的な経験であることはきわめて重要な論点でした(詳しくは森本『ジョナサン・エドワーズ研究』の第2章を参照のこと)。したがって私は、たいへん僭越な物言いになりますけれども、「芸術と客体性」のエピグラフとしてミラーのエドワーズ論を引きたくなったフリードの思いがよくわかる気がしますし、引用のチョイスにおいてフリードはかなり惜しかったと思われてなりません。

私はエドワーズの著作を、『アメリカ哲学史』第1章の翻訳に必要な程度しか読んでおりません。まして私が読んだフリードのテクストはいっそう限定的です。ゆえに、とりわけフリードに関して私が途方もない誤解をしているかもしれず、その場合はぜひ読者諸賢からのご教示をいただけますと幸いです。私としては、フリードの読者がエドワーズにまで——あるいは、私が共訳したククリック『アメリカ哲学史』にまで——関心を延長してくださると嬉しいなと思ってこの記事を書いたのですが、もし、フリードとエドワーズという論点に関する重要な先行研究を私が見逃しているようでしたら、ご指摘いただけますとありがたく存じます。

ともあれ、こうした次第で、私は『アメリカ哲学史』を訳しながら「マイケル・フリードをもっと読まないとなぁ」とつらつら考えていたのでした。私はアメリカ思想史のなかでも特に、19世紀末から20世紀初めにかけての世紀転換期を専門としておりますが、まさしくこの時代の米国で活躍した画家トマス・エイキンズおよび小説家スティーヴン・クレインが、実はフリードの2冊目の著書Realism, Writing, Disfiguration(1987)の主題なのでした。ですので私は以前この本を買ったものの、まだ読んでおりません……。読んだらまたnoteに感想を投稿するかもしれませんし、次の記事はまったく別の内容になるかもしれませんし、あるいは投稿はこれっきりになるかもしれません。どうなるか自分でもわかりませんが、温かく見守っていただけましたら嬉しいです。

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