「西部戦線異状なし」を例にとっての文学と映画の距離に関しての翻訳可能性とアダプテーションの問題の考察

 “All Quiet on the Western Front”(邦題『西部戦線異状なし』)はエーリヒ・マリア・レマルクの“Im Western nichts Neues”を原案とし、アメリカのハリウッドで制作され、第三回アカデミー優秀作品賞、最優秀監督賞を得た戦争映画である。小説の出版が1929年で映画は1931に公開されており、小説自体の出版から日が離れていない。1920年代から1930年代にかけての、ワイマール時代のドイツ映画といえば名作は数多いが、本作の制作がアメリカなのは興味を惹くが、今回は差し控え、映画と小説を比較対照することでアダプテーション化の可能性を探っていくことにする。

 まず、場面の配置、構成の面から言及する。以下は映画での主な場面を書き出し、一連の流れをまとめた図である。小説においては老教師カントレックに煽られ志願を決意する場面や元郵便局員の鬼軍曹、ヒンメルストースとの訓練時代は回想で語られるものであり、冒頭部分はケムメリヒの死のシーンからになる。

つまり、映画においては徹頭徹尾時間はさかのぼることなく、過去から未来へと一直線に展開されている。回想や主人公の思索を挟む小説と、映画では表現のためにここで翻案がなされているのである。一人称で書かれた小説では、彼の視点からみられる世界は基本的に読者と共有される。読者の知らないこまごまとした戦場の生活の知識や登場人物たちは、彼の思考によって補完されており、読者は彼に非常に近い存在、同一化した読書を行う。

 一方で映画においては主人公の心境は彼の発言や表情、声色によってしかうかがい知れない。カメラは彼の外部にあるし、神の第三者の声はない。言ってみれば、アダプテーションによって映画では三人称小説の著述の仕方に変わっている。小説が主人公パウルと一身になることができるとするなら、この映画において我々は彼と共に志願し、訓練を受け、戦場を生きる戦友のようなまなざしで付き合うことができる。あるいは、この映画での描き方はそれにしてはやや突き放した、彼から遠いものにも思われるが、兎角、語りすぎず、淡々と時が経ち、若き主人公が漸次的に軍人として戦場に順応していき、そうでないものはあっけなく振り落とされていく、その有様が観客に投げかけるものは大きい。

 カントレックが学生たちを扇動するシーンを冒頭に持ってくることの効果は高い。観客たちからすれば、もう第一次世界大戦の結果など、言わずとも知れている。声高々に、威勢よく名乗りを上げる彼らの姿は、結末を知った上で見ているわれわれからすれば彼らの姿は否応なくその戦争の行く先を偲ばせる。アメリカの観客たちはよりそうだったのではないか。

また、小説において教師カントレックといえば、回想以外では。主人公が休暇から戻り訓練を受けなおすシーンで、傷痍兵となって指導役に付いた元教え子ミッテルステットに「国民兵カントレック」と呼ばれ、しごかれている場面のみの登場だ。それを、のちに帰郷して三年経った今もなお変わらず自らの生徒たちを煽り、そればかりか戦場での英雄的行為を語れと迫るシーンに(これは原作にはない、アダプテーションにより新たに生み出された一場面である)、カントレックを再登場させたことは良い改編であるように思う。「祖国のために命をささげる必要などない」と語るも熱気を孕んだ少年たちからは反発を受けるのは、過去の彼との対面ともとれる。主人公はあまり心情を吐露しないが、このシーン、帰郷のシーンを全体において色濃く世間からの乖離、予感ではなく、確実なものとして、戦場での三年を経て彼がもはや学校には戻れないことが提示される。故郷での他人との交流を通して描かれるこういった側面は、アダプテーションによってよくなった部分である。

 文学作品にはなく、アダプテーション化を経て新たに作品内に取り込まれるものとして大きいのは、映像、視覚情報とトーキー以降は音響、この二点があげられる。今作においては、音響効果が非常に有効に使われ、作品世界を彩っている。映画の上映時間の二時間十六分のうち、半分以上は銃声や砲弾の飛んでくる音が鳴っているのではないだろうか。自分が小説を読んだ際には、作品全体に楽しい、愉快なシーンでありつつも沈鬱な、不穏な調子、鼻をつく死臭、という印象こそあれど、止まることなく鳴り続け、身を揺らし、兵士の精神をすり減らす戦闘音、というものはそこまで大きくなかった。全編通して声のほかに鳴る音としては砲弾の飛ぶ甲高い音ばかりであり、戦場の世界、観客の緊張をうまく演出している。また、それまで音楽という音楽、BGMはなかったところに、主人公の死の間際、塹壕から蝶に手を伸ばし、射殺されるシーンの、せつなげなハーモニカのようなメロディは、まるで彼が、死によってようやく安息を得たような、美しい描写だ。

このように、文学作品から映画への翻案を通した構造上の変化、アダプテーションにより作られた印象的なシーン、音響効果について触れてきたが、次に比較することで意識させられる不足、限界について述べる。やはり、一作の長編を精々が三時間程度の尺しか持ちえない映画という形にすると、どうしても小説と比較して内容の欠落が発生する。無理やり要素を解体して尺に収めても、潔く切り捨て、作品の根幹となるストーリーテリングに集中することを選んでも、小説を読んだ身からすると、惜しさは否めないものとなるのが、ある程度の分量を持った作品では避けられないものである。

文学作品の映像化というのは、この尺の都合のほかに、視覚的に表現不可能な場合もある。見ただけで気を取り乱してしまうような醜い怪物、フランケンシュタインも映画史に名高いが、本来不可能なところを(賛否あるが)、折衷して作品のエッセンスを汲み取り、映像作品として再構成するのがアダプテーションの妙味でもある。

個人的に、映画において惜しいと思ったのが、彼より若い少年兵が砲弾で腰が「骨の破片の入った肉の粥」になってしまい、もだえ苦しむ姿を見てカチンスキーが「あんな若い、かわいい奴をなあ」とやるせなくつぶやくシーンだったり、砲火の中静かに炎を見つめながら家鴨を焼くシーンであったり、あげると止め処ない。中でもそれはどうなのか、と悩ましいのが、小説における最後の数行部分の描写のないことである。


ここまで書いてきた志願兵パウル・ボイメル君も、ついに一九一八年の十月に戦死した。その日は全前線にわたって、きわめて穏やかで静かで、司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」という文句に尽きているくらいであった。[i]


 題名にもなっている司令部報告の「西部戦線異状なし」という文句、主人公パウル・ボイメルが喜び、悩み、苦しんだ末の死が、あまりに呆気なく、異状なしという皮肉に帰せられてしまうこと、この文のもたらす効果、読後感は壮絶である。しかし、映画ではただ彼が射殺されたところで大きくENDの三文字が出るばかりだ。

上において私は映画では三人称小説のような効果を持って撮られていると述べたが、これを証左に、主人公の死によって幕の閉じられる点から、やはり映画でも主人公に自己を投影し、追体験するように構成されているとも言えるのかもしれない。あまりに唐突に、カチンスキーの死が呼び水となったかのように、もはや未練のないかのようにあまりにあっけなく死ぬ姿は、十分にあの数行と同様の効果、放心状態を感じさせるのかもしれない。でもやはり物足りない。『西部戦線異状なし』という作品に、あの数行は必要不可欠ではないのか。彼の死の描写の後、ラジオのように、ナレーションが入るだけでも随分違う。映画においてこの挿入は蛇足になるためだろうか。

このように作品性質上欠くべきでないように思われる要素がそぎ落とされてしまうことが少なくないのは、映画というメディアと文学作品の間にある壁によるものと思しく、一つの限界といえる。特に、私はSF小説の映画化なるものに満足いった覚えがない。

 1930年放映の”All Quiet on the Western Front”と“Im Western nichts Neues”の両社の比較、是非については以上となる。しかし、『西部戦線異状なし』の映画に関してはこれのほかに1979年にイギリスとアメリカの共同制作のCBS映画もある。こちらは見る手段がなかったので今回言及できていないが、いずれ視聴し、またアダプテーションについて考察するつもりだ。さらに、NETFLIXでエドガー・ベルガー監督の手によってドイツ映画という形で撮影が行われているという。これまで、アメリカやイギリスといった戦勝国、往時では敵国であった国の手より手掛けられていたが、刊行から90年たった今になり、ドイツ映画として制作される。2022年12月ごろにリリース予定[ii]ということで、こちらも気になるところである。



[i] レマルク 秦豊吉訳 1950年 『西部戦線異状なし』 新潮社 p410

[ii] https://www.whats-on-netflix.com/news/all-quiet-on-the-western-front-netflix-movie-what-we-know-so-far-2022/ 2022/07/28閲覧