サンデル『実運』感想:21世紀の「スゴイ人」「エライ人」問題
どうも、上海から来ました悪い猫です。普段は恋愛やら男女やらで浮ついた話題を書いているのですが、今回は今さら読書感を簡潔に書いていこうと思います。
マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』という本について書いていきたいと思います。
トランプ減少から見る近年リベラルが大衆から支持されなくなった原因の一つ、学歴偏重社会について分析した本です。
単純化して要約しますと、この本は
「近年のアメリカは学歴偏重社会、実力社会であり、この社会は階級間の流動性を低くし格差を増大した。それは、本来正義でないことにも関わらず、政治の場で高学歴は能力主義で労働階級を尊重しなくなり、社会の分断が進んだ。」という話です。
「勉強できる人はエライ」という世の中の認識が崩れつつあり、逆に政治的に恨まれているよ、という話がサンデルの本のキーになると思います。
このノートは話を膨らませて主に「スゴイ人」「エライ人」問題を軸に考えていくノートです。サンデルの分析の詳細はサンデルの著書をご参照ください。
「スゴイ人」と「エライ人」
サンデルが提起した問題は、21世紀の学歴偏重社会を「スゴイ人」か「エライ人」かで見直す問題だと考えています。
スゴイ人というのは能力的に優れている人、エライ人というのは道徳的に優れている人のことを指します。この問題はしばしばインテリの間でも混同され、人類社会をずっと迷走させてきました。
能力が高くて「スゴイけどエラくない人」
顔も学力もある有名大学の生徒がレイプに窃盗を積み重ねていたニュースがありました。学力、財力、顔面があっても道徳がない人はないです。
そのような人は実力があればあるほど、他人にマウントを取ってエゴで気持ち良くなりたい、他人を支配して自分の思い通りにさせることしか考えません。
能力は凡庸で「スゴくないけどエライ人」
他人の幸せのために自然に行動できる人です。宮沢賢治の『アメニモマケズ』でモデルになるような人です。
欲は無く
決して瞋からず
何時も静かに笑っている
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず苦にもされず
そういう者に
私はなりたい
そういう人は、凡庸であってもみんなのために動いて他人を幸せにしていきます。自分が承認されてエゴを満たすことで行動しません。
別に「大金持ちになれる」とか「とても頭がいい」とかの条件を満たさなくても、道徳的にエライ人なのです。
クソしょぼい人生を送っても周りの人間を笑顔にしてくれる人はみんな大好きですよね。実力はそこそこでも人望があるわけです。
しかし、この「スゴイけどエラくない人」「エラいけどスゴクない人」を見抜くのは簡単ではないのです。
なぜなら、すべての人間はワンチャン偉くなれるように複雑な近代市場の中で競争に参加しているからです。
近代の疑問①「スゴイ」勉強できれば「エライ」の?
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず
賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり
福沢諭吉先生は「役に立つ実学がある」ことを勧めていました。
みんなのために役に立つことをしていれば「エライ」し、役に立たないことをやって、知識で他人をマウントすれば「エラクない」わけです。
複雑化した社会での資源獲得能力の意味での甲斐性は、先ほどの福沢諭吉先生の書いた「勉強できる」>「実学を得る」>「みんなの役に立つ」というシナリオが分かりやすいと思います。
しかし、社会では能力が多様化しすぎて、諭吉さんから見れば「スゴイ人」だけれど「エラくない人」がいるわけです。役に立たない凄い技能を持っている人たちですね。
例えば、FPSゲームがめちゃくちゃ上手い人たちがいて、マウントを取ってきます。または、特定の思想イデオロギーで武装しただけで他人より偉くなったと勘違いする人もいます。それは「スゴイかも」であって「エラくない」ということになります。
「儒教しか暗記できないアホ共」と切り捨てられそうです。エラくなるには他人の役に立たないといけません。
近代の疑問②「スゴイ」金儲けできれば「エライ」の?
一方、道徳を語る論語と金儲けの算盤は両立できる語る偉人もいます。
渋沢栄一先生によれば金儲けできる「スゴイ人」は、道徳があってはじめて「偉くなる」のです。エライ人のこのノブリスオブリージュは渋沢栄一先生の『論語と算盤』でも扱ってきたテーマです。
私は日頃の経験を通じて「論語と算盤とは一致すべきもの」という持論を持っている。講師が懸命に道徳を教えていた際、彼は経済についてもかなり注意を払っていたと思う。
これは論語のあちこちに見られる。国を動かす政治家には政務費がいるのはもちろん、一般人も衣食住の費用はかかり、金銭と無関係ではいられない。
また国を治めて国民の暮らしを安定させるには道徳が必要であるから、経済と道徳を調和させなくてはならないのである。
金儲けができる「スゴイ人」では足りない、ちゃんと国家に貢献できるような人になって、はじめて「エライ人」になれる。これは「能力がある人」と「徳がある人」は違うという話でもあります。
近代化で能力ある高貴な人たちは急に金持ちになってきたので、警鐘を鳴らしているのでしょう。金儲けだけできてもエラくない、儲けた金を社会と国家に貢献できる人間がエライと言うことです。
しかし、「他人の役に立つ」「社会に貢献する」という偉人の言葉に納得したところで、私たちにとってこの「スゴイ人」と「エライ人」をめぐる感覚は、そんな単純に割り切れるのではありません。
その人が「スゴイけど偉くない」なのか「エライけどスゴくない」については、人間は常に極論とも思える情動で迷走をし続けてきたのです。その二つの極論の情動が公正世界仮設とルサンチマンです。
極論①「スゴい=エラい」の公正世界仮設
人間には「公平世界仮設」という情動があります。それは、苦しんでいる弱者に対して「こいつは自分に落ち度があったに違いない」という認知バイアスを発動させるものです。確かに自業自得な人もいますが、全員がそうではありませn。
自分の仲間を助けられなかったことに対して自責しないように自分を言いくるめてしまいます。中には本当に弱者にマウントすることで快感を覚える生粋のサイコもいます。
サンデルは、プロテスタントの資本主義エートスは、勤労精神を人々に植え付けたのと同時に、社会的弱者に対して冷徹にさせたというアメリカの文化経緯を『実力も運のうち 能力主義は正義か?』で分析しました。
プロテスタントの労働倫理は、温情と能力、無力さと秩序の緊迫した対立で始まった。最終的に能力が温情を駆逐した。支配と自己実現の倫理が感謝と謙虚さの倫理を圧倒した。(中略)労働と努力そのものが責務となったのだ。
引用:Audible版 サンデル『実運』:神と摂理という思想ー当時と現在 2:20(早川書房)
苦労した分、今の生活はその功績によるものである。それより低いレベルの人間は自分ほど苦労していないからと切り捨てます。
これは、カトリックだけでなく勤労精神がある文化には普遍的に存在している情動となります。極端な例だと以下のものがあります。
また、この情動が意味するものは、弱者に対する冷淡さのみではありません。金と力を得た強者に対する理由なき羨望も問題となります。これでは完全な拝金主義が正当化されることになります。
引用:https://twitter.com/i_tkst/status/1344562163264831490
近代経済学の父アダム・スミス先生は「誰もが利己的に行動すれば、結果として国家が栄える」という理屈を整理しました。本人はめちゃくちゃ道徳の話が好きでしたが、道徳の話は棚上げで後生にこの話が受け継がれました。
そして、20世紀80年代の新自由主義を通じて競争で勝ったものは「エライ」負けた者は「エラくない」という先入観を強化してきたことをサンデルは言及しています。
社会的に成功したものは無条件でエライというのも極端な認知です。金を稼いでエラくなったつもりで終わりというのは、完全に渋沢栄一先生が認められないことです。
極論②「スゴイ=エラくない」のルサンチマン
「エライ人」「スゴイ人」問題を複雑にしているものに、実力主義、メリトクラシー、拝金主義と真逆のタイプを行く情動もあります。それが、スゴイ人を見たらすぐに「偉くない」と思い込むルサンチマンです。
ニーチェは道徳の系譜学で、凡庸な人が力を持つ人に対する「憎悪」(フランス語でルサンチマン、英語でResentment)を分析しました。
誰かが実力がありそうと感じれば感じるほど「悪い手段で獲得したに違いない」と妬み憎しみを抱いてしまうのです。
最近では「幸せな女を見ると殺したくなる」無差別殺傷事件がありましたが、それもこの「あいつはスゴイし成功しているけど、絶対に正当なものではない」という憎悪の念が原動力となるわけです。
「勝ち組の典型に見えた人間が憎い。」それは失敗している自分こそが正しい側だと認知を歪ませているのです。これは、成功=高貴とは真逆の勘違いです。成功=ズルいという極論です。
特定の人物以上に「社会構造」そのものが憎いので「誰でもよかった」と最小の努力で最大の被害を出すように人類社会に報復します。
できれば自分を惨めにしたことで人類全員に死んで欲しいけど自分一人の殺傷能力が足りないから、電車の閉鎖空間で大量殺戮を行うものですね。
標的は我々全員です。核爆弾のボタンを押す権力あれば一番人口密度が高い都市に発射したでしょう。以下はコロンバイン高校銃乱射事件の犯人の供述となります。
人類という種族は生き延びるに値しない。殺すのみである。地球を動物の支配に戻せばいいのだ。動物の方がその価値がある。ナチスがユダヤ人にした最終解決法と同じように、人類全員を殺すことが必要なのだ。誰一人として生かしてはおけない。
さらに、資本主義や社会構造に対する根源的な憎しみもこれです。
自分の実力ではとてもトップに這い上がれない時に、自分よりもスゴくてエライ人たちは絶対にズルして地位を獲得していてエラくないと自分に言い聞かせてエゴを守るわけです。
体系化した思想だろうが個人の遺恨だろうが本質は変わりません。人間の人間による人間のためにならない情動なのですから。その情動自体を学問として整理して筆で人間を殺す側もたくさんいます。
この世の中には「実学をつけて役に立っているからエライ」人たちがたくさんいます。それは実力を通じて確かに他人の役に立つ技能を持っているから評価されることです。「スゴイからエラくない」というルサンチマンは福沢諭吉先生が認められることではないでしょう。
共同体と家族を失い迷走する「エライ」の在り方
ここまで読んで、現代の「スゴイ人」「エライ人」を巡る問題論争は迷走し、我々の倫理は明治時代よりも退化していることに気が付きましたでしょうか?
現代社会は、明治初期時代のように「国家」という守るべき確固とした共同体も、非婚社会によって守るべき「自分の家庭」も徐々に崩壊しつつあります。
では、誰かを幸せにすることが「エライ」のなら、現代は誰を幸せにすべきでしょうか?あなたの会社の商品を買っている消費者でしょうか?それともあなたを雇っている社長さんなのでしょうか?
「商品市場」と「労働市場」の関係しか存在していない現代では、どんどん孤独がテーマとなってきています。それは、孤独死から若者のSNS孤独まで地続きの問題です。
孤独の中でひたすら自分より競争社会で弱い人間にマウントして愉悦に浸る人生が模範なのでしょうか?
知能や才能のような実力ではなく「徳」があればみんなを幸せにできてみんなから感謝されるというのは凡人にとっては救いだったはずです。
グローバル化と大都市一極集中による赤裸々な経済メリトクラシーによって、誰のせいにもできずに孤独の中で消費されて死んでいく命にどのような救いの物語を与えるかが、21世紀の「スゴイ人」「エライ人」問題の大きな課題になるでしょう。
実力を見抜くのは年収などで数値化出来て簡単だけれども、その人の人徳を評価するのは簡単ではない。人々が公正世界仮設とルサンチマンで延々と殴り合っていく不毛な政治論争は、残念ながらこの先も続きそうです。
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