見出し画像

【男女】「女は無責任」という男の誤解

どうも、男女論をつい語ってしまう悪い猫です。

今回はミソジニー思想の代表的な一つ「女は責任を取れる動物じゃない」という蔑視的な思い込みについて少し話します。

結論からいいますと、それは男性中心的な考えで「男側の主観」ということです。男も女も人間です。人間は追い込まれると自分のケツを拭けるようになります。スペースで話した内容に少し補足をして話を丸めたいと思います。

画像1


クマが怖いのは誰か?

これは、私の中学の国語教師(@上海)がよく作文の授業で話した半分ジョークの物語です。鉄板ネタだったのか何回も話していました。男ってそういうとこありますよね。ネタがウケると何度も話してしまう。同じネタばかり言っていると、そのうちボケるというね。

「ある日、ある女性が彼氏と森で散歩していたらクマさんに遭いました。その女性は「怖い!助けて!」と彼氏の背後に逃げ込みました。彼氏も「怖がらないで、僕が守る!」と言ってその女性を背後に追いやり、身を挺して守ろうとします。」

画像2

この時にクマさんを怖がっていたのは誰でしょうか?

「また、次の日、同じ女性が自分の息子を連れてクマさんに遭いました。女性はとっさの判断で「怖がらないで、私が守る!」と言って息子を背後に隠しました。」

画像3

一体、この女性はクマが怖いのか怖くないのか、どちらでしょうか?

「人間の甲斐性は他人との役割の中で決まる」


一般的に、前者は「猫を被っている」と言われ、後者が「オス化した」といわれます。これは、つまり、自分がどのような責任を持つかどれくらい自己犠牲するかは他人との人間関係の中で決まるということなのですよ。

男性の社会でも「頼れる先輩が頼れ過ぎると後輩が育たない」という現象がありますが、まさに、それです。男がいる以上、男に守ってもらう方が合理的なので自分で自分を守る必要がないのです。男が全員死に絶えて女だけの街になったら女はオス化します。(女子校、看護師、保育士、産婦人科…)

「自分と子供しかいないという状況」で義務感を背負わせないと人間は本気を出さない生き物なのです。誰かがケツ持ちしてくれる以上、本気を出す必要がないのですから。

人間の本質は他者を抜きに語れないということです。

男目線の社会では女性の「強さ」が不可視化されがち。

完全にシンママやっている女性は男性が見えないところで逞しいですよ。ただ、「助けてくれそうな男性の目線」がある限り、逞しく振舞わないし、男性にはそう見えないということだけなのです。

この社会は「男性中心の社会であり、男性中心の社会ではない」のです。器用な女から見れば女が「男を自己犠牲してくれるように操作している」のですよね。器用じゃない女からは「男は体目当てで何も与えてくれないクズ」のような生き物です。(器用さ次第ですね)

男という生き物の情動をコントロールできなくなった時、女性は男性社会で居場所を失い、コントロールできた時、女性は自分で自分を守る必要が薄れるのです。

なので、大人の男は「大人の女性が強がってカッコつけて男に対してケツ持ちしてくれる光景」をあまり見ません。ビジネス上では女に迷惑をかけてケツ持ちしてもらうと、男にした以上に嫌がれます。

人間の異性への好感度というのは残念ながら「性的な魅力」との王冠効果で緻密にかかわっています。男らしくない男は見るのも嫌なのです。

男が女よりも悪者になり、責任を持ち、自己犠牲してくれることを女性は期待しているのです。もちろん、男が死に絶えた世界では期待する先もなくなり、女性がより自立していきます。女性は共同体への自己犠牲の「予備選力であり、常備戦力ではない」のです。

それは「戦力外」(女は無責任)という意味ではありません。まだ、使うほどジリ貧じゃないのです。女が自己犠牲する前に男の死体を通って行けという話です。

このような依存関係が存在する限り、男が女に見せる弱さはないのと同じように女も男に見せる強さはないのです。「女は猫を被り男はカッコつける」方が両方ハッピーなんですよ。

ただ、それはあくまで共同体の話であって、家庭内の母と子供の関係の話ではありません。これが少年の心の中の女性像と、大人になった際の女性像の乖離をもたらし、ミソジニーの源泉となります。

ミソジニーの原因:少年目線では母性は守ってくれる存在


我々は少年から来たのでみんな知っているのですよ。いつでも味方して守ってくれる聖母のような女性がどのようなものかを母親を通じて理解しています。それがどれくらいの権威性を持ちどれくらい強い存在かを少年は誰よりも理解しています。

画像4

しかし、それが大人同士の「愛」だと誤解するとバグります。

神聖化された自分を慈愛で守る概念が、生殖競争では優生思想に基づいて自分の遺伝子を淘汰して殺しにくるわけです。そしてその姿は何とも弱弱しく無責任な印象があります。

これはこれで、男としての責務を背負い女性に安心感を与えるような存在として自分を磨くと覚悟できればいいですが、聖母として期待を残したままにしておくと、聖母の期待と現実の生生しい人間像と衝突してしまう現象が発生します。

ミソジニーの原因:男性目線では母性は頼ってくる存在


そして、クマの例でも分かる通り、女性は男性がいる社会状況では強さを見せません。「弱さ」を出せば「男性性」が保護してくれる可能性が非常に高いからです。ここで強さを出しても男性性からは好かれないことも理解しています。

少年がこの大人の男性としての自我(男性性)が育たずに女性に男性性を期待されるとマズイことが起こります。愛というものを無償の保護として理解している場合、無償の保護を逆に期待してくる女性に対しては、期待外れの嫌悪感を抱くのです。それは搾取されているのではないかという嫌悪感です。

愛すべきイメージと乖離した人物像を体現してしまうのですから。

この母性への期待と現実の女性像の衝突が、ミソジニーとして半少年半男性の人間を困惑させているわけです。悲しいかな、我々は半径5メートルの主観で世界が正常に回っているかを判断している動物ですから。

生身の女性との関係を通じてその卑怯さも善良さも強さも弱さもすべて受け止めて、自分の人格の女性像と統合していく過程で少年は大人になります。そのためには今まで先入観として抱いていた聖母像を壊さないといけません。

「強くて偉大なる母性像」が完全に死んだとき、男は初めて恋愛ができるということになります。

男性として自我(マスキュリニティ)を育てることの重要さ


常に守られる相手ではなく、「妹を守る」「お母さんを守る」「女性という弱い立場の人を守る」という男性性を教育の中に含めることが、いかに男性がミソジニーにならない上で重要かがわかるでしょう。

特に「男女平等」という性の役割を否定してしまう「現代社会特有のイデオロギー」(その他の歴史の長さと比べてみてみ?)に染まっていると、男は「男として期待されないことが当たり前の権利だ」と勘違いしてしまいます。

※人間は卑怯な生き物なので「平等」という言葉からは「自分が有利になる権利」しか想像しません。「責任が重くなる」なんて都合が悪いことは考えないのです。

残念ながら男女平等で男性の負担が下がる成長しなくてよくなる、なんてそんなことはありません。

社会的な役割として、これから「お前は少年から男になるのだ」という義務感を植え付けることで、少年の聖母に対する期待を殺して男に生まれ変わる訓練が、男の今後の人生に重要になるのです。男が自己犠牲できない共同体はすぐに滅びます。これは、鬼滅の刃の煉獄編での重要なテーマです。

画像5

皮肉なながら「強い人間にしか世界は救えない」のです。

「弱いままでいい」という、万能なはずの聖母のような慈愛に満ちた母性はのちに男を狂わせる過保護をしてしまいます。ここでも、やはり、男を冒険に突き放す父権が非常に重要になります。

ただ、父親の存在が死んでいる状態なら、別になくてもいいのですよ。母親がオス化するだけですから。それもオス化できなかった場合は、残念ながら何か鬼のようなものが出来上がります。

我々はすでにその光景を何度も、何度も、何度も、何度も見てきたはずです。「少年の純愛」が死んで「男として責任の愛」が生まれない限り、男が豊かに生きられる道はないのです。

そして、女性は責任を果たせる人間です。ただ、男がいるのに女性に責任を負わせる光景ほど、惨めな光景はないでしょう。

以下の図を脳裏に焼き付けていきましょう。これが、慈愛で向き合ってくる女性に「男の責任を負わせる」ことの意味です。

画像6

女性が子供を持つことでどれくらい成長するのかも書きたいですが、一旦、ここまでですね。「女の責任」を語るリスクなんて百も承知の上ですから。

はい、以下有料パートです。では、実際、女性は男性と同じように責任を持てる動物であるということが分かったうえで、男性諸君はどうすればいいのでしょうか?その話をしていきたいと思います。

ここから先は

3,326字 / 3画像

¥ 290

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?