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【読書】『生き抜くための12のルール』紹介:人間の命は犬より軽い?

どうも、上海から来た悪い猫です。

何やら物騒なタイトルですが、今回は「少しいい話」をしていきたいと思います。

なぜ、我々は他者を愛せるのに、自分を愛せないか?

人生についての重要な話なので主旨部分は無料です。(有料パートは更新時)トロント大学のお騒がせ保守系の心理学者、ジョーダン・ピーターソンのベストセラー本から知恵を借りたいと思います。

邦訳も出版されているので、ぜひ、読んでみましょう。その中でも非常に面白いことを書いている一章について紹介していきたいと思います。

(※邦訳は無視していきます。)

ルール2: 「助けるべき他者」と同じように自分自身を扱え

このルールについて少し解説していきたいと思います。忙しい人のために本人のプレゼンはこちら:


飼い犬よりも軽薄な飼い主の命

以下のシナリオを想像してみてください。ある男は健康に問題を抱えておりました。

彼は医者にかかり処方箋をもらいます。しかし、毎回、自分ではその薬を飲み忘れてしまうのです。少しだらしないのか、ただ、重要なことだと思わないのか、「自分のことなのでいいや」と思ってしまいがちです。

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「自分の体のことぐらい自分で分かる」とかよく聞きますよね。医者に勧められている時点では、まだ納得しているのに、いざ、飲みわすれると「いいや」と思ってしまうようです。

これは一人暮らしの男によくある話です。

一方、同じ男性は犬を飼っていました。ある日、犬の具合が悪いと獣医にかかるとそこで犬への処方箋を渡されました。あろうことか、その男性は犬に毎日欠かさず薬を飲ませていたようでした。

自分はだらしなく自分の薬を飲まないのに犬には飲ませる、これどういうことや、という話です。「おい、お前の命は犬以下なのか。」と突っ込みを入れたくなります。著者は臨床心理学者で、飼い主と犬の関係でなくても良く見かけるパターンだそうです。

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そこで、この心理学者は「どうして人間は愛するものはちゃんと面倒を見てやれるのに、自己をネグレクトをしてしまうのだろう。」と好奇心を持ってしまうわけですが、至る所でこの法則が見られます:

ペットの散歩は毎日しているのに自分は運動していない遊んでいない、自分は勉強していないけど子供のために愛情を注いで勉強させる、尊敬する上司に迷惑かけたくないとパワハラや激務を我慢している、

こんな例をよく見かけると思います。自己献身的な人格と言えばそれまでですが、より深い先験的かつ宗教的な理由があるようです。

人間は「良知」で自分を「批判」できる生き物。

人間の意識には善悪を分別する「良心」と、美醜を弁別する「知恵」があり、それらはまとめて「良知」と呼ばれます。これを英語ではまとめてConscientiousと呼んでいます。

注意深い人と良心的な人は同じ意味を持ちます。この「良知」というものが肝心な概念になります。

現代人のペットの話から昔に戻りまして旧誓約書の話をします。アダムとイブ、知恵の実を食べてエデンの園から追い払われた話は有名です。しかし、どうして、知恵を持った人間は神にそれが「ばれた」のでしょうか?

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引用:ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『アダムとイブ』

アダムが知恵の実を食べた後に、神様はどうやってこの人間が知恵をつけたのかを知ったのでしょうか?黙っていれば問題ないのではないでしょうか?

しかし、そうはいきませんでした。アダムは「良知」を持ってしまった故に、一つの行動に出てしまいます。神が来たところで草むらに隠れたのです。

恥を知ってしまった、神の完璧さを知ってしまった、恐れ多くも隣で歩くことができなくなった。それは「理想」を知ってしまい自分の「醜悪」さと比較する良心と知恵をつけてしまったからです。それまでアダムは神と同列に並んで歩いていました。

人間は「良知」を手に入れることによって「自分が不完全な存在である」ということを理解してしまったわけなのですよ。

だから、恥ずかしい。自分のありのままの姿を誰にも見せたくないわけです。知恵がある人間は「メタ認知」ができる人間というわけです。

「自分は欠陥だらけの存在」

では、現代の話に戻りましょう。

飼い主はだらしない男です、自分で薬を飲み忘れてしまいます。飲み忘れると同時に「自分はこんなダメなやつなんだ」という自己呵責を「良知」から喰らいます。そこで、ダメなやつなのだから、そのまま薬を飲まなくてもいいやとなるわけです。

薬を飲まないと病気が治らないのに、薬を飲み忘れることによって、自分はそれに「値する」という感覚が薄れてしまうわけです。一般的な話をすれば「自己肯定感が低くなる」ということですね。私たちは善悪と美醜を分別する能力があるからこそ、美学(善悪の価値体系)があるからこそ、自分自身を批判してしまうわけです。

(画像:良心に潰される人間)

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自分の欠点は自分が一番よくわかっているから、自分から見たら「欠点だらけの人間」が「自分」になるのですよ。良知の最も近い観測対象は他者ではなく自分であるわけです。裏を返せば、自己批判して心が折れてしまうのも、ちゃんと「良知」があって、価値体系がある証拠でもあるわけです。

逆の例もあります。

良知がない人間はナルシストになります。自分以上の理想がない状態ということです。ナルシストが一般人から嫌われる理由はこの自己批判する頭のネジ(良知)が外れているからです。自分自身は不完全なものである自覚、それが人間を人間たらしめる善悪判別能力を表しています。

(画像:ナルシストは良知がないから自分が最高に正しくて美しい)

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「犬はこんな俺でも懐いてくれる完璧な存在」

飼い主は「良知の重荷」を課せられているので、少しのミスでも「自分をダメ人間」だと思っています。しかし、毎日、犬はそれでも懐いてきます。「ダメ人間」でも愛してくれるんですよ、犬は。自分を主人だと崇めているのです。

キリストの神は人間を無条件で愛するといいますが、飼い主から見たら犬も同じです。「犬って無条件で懐いてくれるから神だよね。」という本音を犬を飼っている飼い主は持っているのではないでしょうか?

まるで死ぬ間際のエースです。

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引用:『ワンピース』火拳のエースの最期

犬、それはこんな不完全な自分でも懐いてくれるものであり、「自分を愛してくれる完璧な相棒」であります。我々は、犬から見た犬の醜さを理解していないのですよ。(それがあれば)

だから、

自分=不完全な存在(価値低)、犬=完全な存在(価値高)

という直感的な良知による単純比較で、犬の命より人間の命の方が大切のような行動をとってしまうからです。自分は薬を飲み忘れるのに、犬には欠かさず飲ませる。そんな行動になります。

それは愛する他人に対しても同じ原理です。

子供に対してはより愛情を注いでしまう。それは、子供の方が自分よりも完璧に見えてしまうから。また、自分が日々良心呵責されて、ダメ人間だと思い込んでしまうために、欠点の見えない他者が映えて見えてくるのです。俺私はもうダメだけど、この子には成長してほしいという願いです。

だから、自分以上に他人の方が「良くしてもらえる」に「値する」と錯覚してしまう。それは良知が正常に働いている人間のごく自然な行動原理というのがジョーダン・ピータソン教授の分析です。

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現代SNS自殺:他人の完璧さと自己の不完全さ

InstagramやFacebookなどのリア充アピールSNSで若者の自殺が増えている問う傾向があります。日本では緩いですが、欧米ではより社会問題として扱われています。

これも同じことなのですよね。「他人の完璧さ」と「自分の不完全さ」を対比してしまうことになるわけです。自分が崇拝している対象のように、自分に自信を向けることができないわけなのですよね。

これらのSNSでは、誰もが自分の最高の一面を見せびらかすので、実は見ている方にとって精神に悪いのです。自分の欠点は自分が一番よくわかっているわけですから。コンプレックスを逆に刺激してしまうわけですよ。

幸いなことに筆者はTwitterという暗黒のSNSで男女論だの非モテだの最底辺の毒に浸かり慣れているので、むしろ、現実の生活が映えて見えるわけですが、日々、意識高い社会成功と美貌のSNSで生きていたら気が狂ってしまいます。(私のTwitterTLはみんな働きたくないセッしたいとしか言っていません。居心地最高です。)

ただ、意識して欲しいことは「人間誰しもそれなりの地獄がある」ということです。宇垣アナが「私には私の地獄がある」と表現して叩かれました。他人から見れば、十分、美貌もキャリアも持っている人間なので羨望の対象だったのでしょう?

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「何が地獄だ」と思うでしょうが、こんな美人もいます。

一世風靡しセックスシンボルとして持て囃された女も最後は自殺によって命を絶つのわけですよね。確かにそれぞれの人間にはそれぞれの地獄が存在するのですよ。それぞれの良知と価値体系で自分自身の欠点をジャッジしている限りでは。

「大切な」「他者」と同じぐらい「自分自身」も「大切に扱え」

さて、我々も自分が大切に思う対象と同じように自分自身を大切に扱ったらどうか。自分を大切にしない人間は誰からも大切されなくなるのも法則です。

前回のノートに戻りますが、男も女も相手の人格に対して高望みしていいということなのです。自分の性的価値なんてとは思わずに、自分からの自分自身への理不尽な扱いに対してもNOと突き付ければいいのです。

「自信がないこと」自体は何も間違っていません。

それは自分が少なくとも「自己批判できる良知」が備わっている証拠にもなるわけです。自分を不完全だと思うのは、自分以上の何かになりたいという理想の表れなのですから。

その「正当な自信のなさ」が欠如した、ただ単に他人の承認が得られて当たり前と思うのはナルシストなのです。

※有料パートは随時更新していきます。モテテクとして「犬になれ」の部分になります。

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