私の愛した神三人

生涯に於いて敵わぬ神がいる

 私は元々漫画描きでした。
 漫画描きで同人活動していたところ、プロからのお呼びがかかりデビュー作に取り掛かっていたのですが、それまで無茶をしていたことが祟って右手と腰を故障し辞退する羽目になりました。
 とは言え私は創作そのものが好きだったので、プロとして毎月描くのではなく同人誌で、そして更に右手だけに負荷がかからない小説で活動して行こうと頭を切り替えたのです。
 まああの、物心ついた時からの夢を断念したわけですから、人生ごと終わりにしちゃおっカナ!?みたいな衝動はありましたよ。高校三年生の私。

 しかし捨てる神あれば拾う神ありで、BL作家を探していたU氏と知り合います。小説も好きで書いていたので是非とも!と飛びつきましたけれど、肝心なのはおのれの実力。
 漫画での同人活動しかしてなかった私は、自分が小説書きとしてどこまで通用するのかさっぱり判っていませんでした。なので一旦時間を頂き、まずは実際の出版社に使ったことのないペンネ―ムで投稿しようと考えたのです。

 結果、一発目のオリジナル長編処女作が賞を獲得しました。
 オイオイ……オイオイオイオイ……。オイ!!
 オオオオオオオオイ!!(大興奮)

 受賞者の欄を見て手が震えたのを覚えています。大したことない賞ですが、それでも自分は小説でも通用すると実感を得た瞬間です。

 自信を得た私は再びU氏と連絡を取り、某出版社で賞を取れた、これからよろしくお願いしますとプロへの道を歩き始めたわけです。

 ですが私は生粋の漫画っ子。
 小説を読むようになったのは二十歳前後です。
 技術もなく表現方法も乏しく、もっと若い頃から小説に慣れ親しんでいる方々より断然遅れを取っています。
 そんな時一人の神と出逢いました。

一人目の神

 同人誌でも小説で活動するようになって来た頃、一人目の神と出逢います。
 彼女の書く作品はすべてウィットに富み、コケティッシュさがあり、そしてクスッとしたほのぼの、微かに滲むアイロニー、なにより脳内に鳥肌が立つような恐怖。
 これらすべてを彼女はたった一人でえがいていたのです。
 ホラー系も可愛い系も、切ない系もコメディも、すべてたった一人、彼女から生み出された事実に衝撃を受けました。
 可愛い系では本当に「可愛い!」となるし、切ない系なら「苦しい……」と当事者のようになる。コメディだともう読む手が止まりません。ラストどうなるのかが楽しみで、読み終えるまでなにもできないなんてことがありました。

 そして、ホラー。
 これまで彼女の明るく優しく温和な小説にどっぷりハマっていた私は、彼女の書いたホラー系で眼の前が真っ暗になりました。
 金槌で頭を殴られるとは正しくです。
 私は一体彼女のなにを見ていたのだろう?そんな疑問すら浮かぶほどの恐怖。常に微笑みを絶やさないのんびりした性格の彼女が、こんなに人の心の闇に迫る話まで書けるのかと絶望しました。
 なにに対する絶望なのか、その時はよく判ってません。
 ただ苦しかった、怖かった。
 深淵を覗き見た錯覚に陥り、あの時脳内に立った鳥肌の感覚を今でも忘れられません。
 私が感じ取った絶望とは、『彼女の作品の表層しか撫でていなかった』という、おのれに対する絶望だと今なら断言できます。

 どうしてこんな才能のある人が二次創作で満足できてしまうのだろう。彼女のオリジナルが読みたい。彼女のオリジナルの世界観にどっぷり浸かりたい。悪い酒のように酔い、甘い毒のように浸りたい。
 そんな欲望が膨れて弾けて、とうとう私は彼女に商業には行かないのかと訊ねました。
 しかし彼女は「無理だよ~、私二次でしか書けないもんw」となんの躊躇いもなく言い、私が喉から手が出るほど欲する表現力を、二次だけに留めると微笑んだのです。

 その瞬間、私の中で彼女は神になりました。
 生涯かかっても敵わない、勝てない。そのことに嫉妬で怒りを抱けるはずもない。
 なぜなら彼女は『神』だから。
 地面をもがく私とは格が違い過ぎます。『神』とは天上におり、自らの能力や才能に固執しない。当たり前にあるものだから執着しない。いくらでも使い捨てられるものだと笑って言える

 かっこいいなちくしょーっ!!
 嫉妬するどころじゃないわ!!
 敵わないってことすらも気持ちいいぐらいに才能の違いを感じる!!

 敵わないと敗北を認める、自分すらも好きになれる。それぐらいに彼女の才能は飛び抜けていました。あまりにも好きすぎて「敵わないわ~」と本人に敗北宣言したぐらいです。
 流れる水のようにたおやかに風景描写が出来、吹き抜ける風のように鮮やかに心理描写をする。読み終えた読後感はひたすらに心地よく、二十年近く経ってなお私の心に残り続ける。敗北って気持ちいいんだな……と、私は彼女から教わりました。
 彼女が私にとって一人目の『神』です。

二人目の神

 一人目の神と出逢い、その後私は様々な小説や文献、資料、ノンフィクションからフィクション問わず読み漁るようになりました。一人目の神との出逢いでおのれに知識が足りないこと、ユーモアが足りないこと、ユーモアとは知識なしでは成り立たぬことを学んだからです。
 暇があればウィキペディアの『あ』の段から読み更けたり、得た知識を固めるため、それ系統の書物を探して調べたりしました。ネットの知識だけでは限界がありますし、意図的にミスリードしている場合があるからです。

 そして出逢った二人目の神、それが道民のマブです。
 知り合って五年以上が経つだろうかという頃、私から「同じ題材で短編書いてみない?」と提案しました。以前マブが『君・僕・死の単語を使って文章を作れ』というタグで、「君こそが僕の死であれ」と書いた時、極限まで言葉を削り切って最大の意味を齎した彼女に、一人目の神同様、私はまたしても心地よい敗北を予感していたからです。
 マブは私の提案に二つ返事で応えてくれて、題材は『セピア色の花』にしました。

 半日そこらだったと思います。マブが「できたよ」と同じ題材で書いた短編を送ってくれました。

 淡々とした冒頭、鍵括弧によるセリフは無し。
 風景描写と心理描写のみで進む物語。
 派手な風景描写はありません。同じく派手な心理描写もありません。淡々と淡々と、起承が進む物語でした。
 物語は二人の小学生がちょっとしたすれ違い、ちょっとした誤解をしている話。幼いからこそ互いに言葉が足りず、善かれと思っておのれの考えを押し付ける主人公。

 転はふわっと訪れました。起承は過去の話であり、転で現在を過ごす主人公視点に変わります。過去のことを懐かしみ、郷愁と哀切を実感しつつも『終わったこと』と過ごしている主人公が、不意におのれのしたことは偽善を超えたおぞましい感情であったと気付く。
 その瞬間でした。
 無音でモノクロの映画だったマブの短編の世界観に、フルカラーハイビジョンのような音声と雑踏、極彩色が溢れ出し、私の全身の汗腺が開いて汗が吹き出しました。主人公の気持ちとシンクロしてしまい、おのれの醜さとおぞましさから息苦しくなりました。

 それまで幻想的とすら思える風景描写だったのに、ラストに来て途端に写実描写となり、気温も音も色も匂いもない世界が、濁流のようにそれらを取り戻したのです。
 物語の主人公はゆるゆると風景と共に過去を漂っていたはずが、自身のおぞましさに気付いた瞬間世界が急速に色づき始める。
 最後まで鍵括弧によるセリフはありません。点と点が繋がり線となり、「まさか……」と深読みした部分が真実味を帯びる。

 ……マジ無理……神……?
 マブも俺の神だった……。

 眼ん玉見開くぐらいの衝撃です。短編であそこまで情緒狂わされたことがありません。緩急が神過ぎる、勘弁して欲しい。モノクロ映画からフルカラーハイビジョン映像に切り替わる刹那で私の情緒粉砕。言葉にならないほどの感動と興奮で、その時はもう猛る想いのままマブに、支離滅裂な長文感想投げ付けました。
 こんなん読んだら同じ題材で書けるわけねえ……。
 あー……心地よい敗北を再びではなく三度味わえてる……最高か……?

 負けるって気持ちいいなオイ……。
 一生かかっても私が手に入れられない描写力を持つ人が身近にいる、こんな幸福なことがあるか?いいや、ない(反語)。
 その後マブはオリジナル短編を二作と、二次創作を一作読ませてくれましたが、オリジナルの短編の破壊力……とんでもねえもん拝ませてくれました。

 足場が崩れ落ちる、という表現がありますね。
 マブの書く小説はまさにそれで、純粋な善意や愛情が、純粋過ぎるがゆえに相手を苦しめる。救いはあるが本来願った『救い』とはかけ離れており、そこについて考えると、気付けば一日が簡単に過ぎ去ってしまうほどに重く切ない。
 けれど片思いでも失恋でもない。
 メリバと表現するのも躊躇われるのは、それが本当に『純粋な想い』から来るすれ違いだからです。登場人物の誰もを責められない、けれどこの結末は間違っている。だが間違っていると指摘なんてとてもできない。
 なにが正しくてなにが過ちなのか、他人が口出しできる軽い物語ではない。

 神にしか作れない作品ですよこんなの……。
 不要な描写は極限まで削るのに、「ここに気付いて」って部分は知らず知らずに読み手にしみ込ませる。
 やはり神……。

 惜しむらくはマブが多趣味であり、そう頻繁に作品を書いてくれないことです。刺繍にコケリウム、園芸、ペーパーキルティング、お菓子作りその他諸々……。新作を楽しみにしてるから書いて……。

最後の神は最初の神

 三人目の神の話です。
 見出し通りに最後にして最初、一人目の神より前の方。
 この人が存在しなければ私はきっと今生きてないでしょう。それぐらい私を救ってくれた人です。

 冒頭で書きましたが私は元は漫画描きで、漫画家としてのデビューが決まっていました。
 しかし身体を故障したことによりその道は断念せざるを得なく、必死に心を宥めて担当編集である方へ電話をかけました。本当なら泣きたかった。泣き叫んで悔しい悔しいと言いたかった。
 ですが私の中のちっぽけなプライドがそれを許さず、事務的に身体の故障のこととデビューを断念する旨を告げたのです。

 担当さんは少しの沈黙のあと、「残念ですが判りました」と優しく受け入れてくれ、ホッとしたのに私はまだ泣けませんでした。悔しいやら安心したやら緊張したやら心の中はぐちゃぐちゃで、本当にただプライドだけで平素のように振舞うしかなかったのです。
 ですが担当さんは続けてこうも言いました。

「書く(描く)ことはやめないで」。

 見抜かれてるって率直に感じた発言です。
 このまま生きていても仕方ないと思い、ある程度覚悟を決めていた私を見抜いているのだと、単純に血の気が引きました。

 もう本当に生きている意義を感じてませんでしたし、創作できないなら生きている意味もないです。この時此岸と彼岸の狭間に立っていた私は、彼女の言葉で此岸へと引き戻され、『手法が変わっても創作は続けられる』と前向きな思考になれました。
 もちろん葛藤がなかったわけではありません。
 こんな苦しい思いするぐらいならいっそ楽になりたいと何度も考えました。自由が利かない身体に落胆だけでなく失望も絶望もしましたし、それでも普段通りに過ごす自分に嫌気が差したこともあります。

 ですが今日まで私が創作活動を続けていられるのは、間違いなく彼女の言葉があったからです。
 人生そのものを削除しようとした私を繋ぎ止めてくれた彼女に、感謝してもしきれない大恩があります。物心ついた時から創作しかしておらず、それ以外は無能極まりない私です。
 私の存在意義は創作しかなく、なにかを表現すること、妄想を具現化することしかできません。ほかの方々が年齢に準じて趣味や好みが変わる中、私は本当に創作に携わること以外ろくすっぽできない無能人間です。
 それを彼女は見抜いて私の命と魂を救ってくれました。

 もしも私が神になれるというのなら、最後にして最初の神のようになりたい。
 安全地帯から「生きろ」と言うのではなく、相手の苦しみや痛みを理解した上で「悔いなく過ごせ」と言える者になりたい。死生観は人によってそれぞれで、無責任に生きろとか死ぬなとか言えるものではありません。あの時私が彼女から「死ぬな」と言われていたら、きっと反発し反論し道を誤ったでしょう。生きることが死ぬよりつらい地獄となる場合もあるのですから。

 もしも叶うなら私は私を救ってくれた神のような存在になりたい。
 創作者の心を何気なく救い出す、優しいけれど厳しい神に。

──三人の私の神たちへ、心より愛を込めて。

 

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