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裏切りと弁明

 わたしの為した罪は、確かに君たちにとっては裏切りだった。許してほしい。それでも、もう後には戻れなかった。わたしという個体は、新たなる段階へと達しつつあった。

 真実を知られた時、轢死を希うほどに非難されることは、よく理解している。

 それでも、書くしかなかった。書かざるを得なかった。この罪、憎い身体、悍ましい欲望、抜け出せないとしても。

 あなたはまだ、単なるひとりの人間でしかなかった。今でも、そうかもしれない。揺れ動く心の中に、あなたは確固として存在する。紆余曲折を辿ってはいるけれども、ある位置を占めている。そして、極めて高次の位置に。それは瞬きするような短い時間の中で塗り変わっていき、わたしの全てを変えた。

 彼に絶望したのはいつの日だったのか。思い出せはしないが、瞬間は電撃的に訪れた。そして、わたしの過去の文章は全て灰燼に帰した。美醜を超えた領域にある究極の感情を、全細胞で享受していた。

 文体が迷走している。今のわたしは、「僕」になってしまった。いや、なったのかもしれない。感じていること、書けることはたくさんあるのに、そのどれもが言葉としての形を持たない。言語以前の未開な感情だけがある。それはつながりの中でしか、意味を成さない。

 どうにも、曖昧にしか書けない。曖昧にしか書きたくない。今までのわたしとは、全てが違うからだ。

 状態にある時のわたしは、何も考えていないし、考えられもしない。理性以前の脳で感じているからである。それは人間の原始的な快楽であって、いまは、快楽のもたらす愉悦に浸り切っている。過去の不足を回収するかのように。まるでモノかのように扱っているのだろうか。わたしが生涯をかけて訣別するすると決めたはずの、その獣に、いまわたしは落ちてしまっていたのだった!

 しかし、落ちるのもまた悪くない。たとえ快楽主義者だと詰られようとも、わたしにはわたしの誇りがある。そうは言っても、一連の事態が裏切りであることに違いはない。どうしたものだろうか。悩みだけがただ、募っていく。

 どうしようもない人生だった。あなたはそれを軽々と受け止めて、流してくれた。逢瀬を重ねるたびに、思いは重なっていった。しかし思いは、彼に感じていた感情とは全く別個のものであったと言える。びりびりと目が覚めるような刺激はなかった。それでも、あなたが好きであるという事実に、変わりはない。メッセージでしか交わせないたわいもない言葉が、愛の形を証明していた。

 マッチング・アプリというのは意味のないサービスである。それでも、あなたがいたというその明確な真実だけが、わたしを安堵させてくれる。

 距離を近づけるたびにする、あなたの匂いを覚えてしまった。わたしからはしない匂いだった。女の子の、柔らかい香りがした。それはどんな柔軟剤をしても出せない匂いで、脳内に直接働きかけてきたのであった。

 わたしは明確に、君たちを裏切ってしまった。今までの言動とは明確に異なる罪に、落ちてしまっている。裏切りの幸福とは、射精の幸福に近い。もはや、落ちることが確定してしまった後で、破滅へ向かって突き走るときの、あの、快楽。知ってしまったら、もう、戻れない。

 わたしはあなたに会うたびに、言葉を失い、感情を蓄える。目的のない会話、痛いほどのつながり、肉体のぬくもり。そのどれもがわたしにとっては知らないことばかりで、心だけが震えている。体は、全く追いついてこない。

 寂しいという気持ちが、実感として現れる時。雑踏の中で、あなただけが見えていて、別離の苦しみを分かち合う時。時間は最も凶悪な牙を剥き、わたしとあなたを切り裂いていく。それでも、別れなければならない。無理やり振り切って、ひとりの孤独になる。顔が見えなくなった後で、画面に向き合い、後朝の感想を交わす。でも、会っているときが、最も幸せな時であって、もはや交わされる言葉に意味はない。まったくもって、真空の空虚なのだ。

 少し話を変える。この変化を最初に言い当てたのは、友人Hであった。Hは単刀直入にわたしを両断した。申し訳ないという他には、何もなかった。立場というものは、実際になってみなければ理解できないもので、わたしは変化したとて、何も変わらなかった。わたしはまだ僕ではなくて、あなたを守る力を、持っていないからだ。相変わらずわたしは、インターネットで仕入れた歪んだミソジニーに身を滅ぼし、その傍らでは、罪のもたらす単純で濃厚な至福に酔いしれていた。とてもではないが、人間の理想像からは程遠い、堕落した心性であった。

 あなたは、何人目かのひとだった。まず第一には彼がいて、次にはあなたが来た。代名詞は、これでもう、終わりにしたい。今はただ、肯定だけがある現状と、いつか訪れるかもしれない終焉に、恐怖している。

 別のひとの話は、あなたも嫌がるだろうけど、それもまた、わたしの人生の一部であるから、書かせてもらう。

 わたしのひと探し生活は、今のところあなたで終わりになったのだが、過去には数え切れないほどの失敗があった。そもそも、マッチングしないのである。友人に撮ってもらった写真を携えて、練りに練ったプロフィールで勝負しても、わたしという劣った者は、見向きもされない。それが、この世の常である。

 あなたの第一印象は、素朴の一語に尽きた。正直に言うと、そんなに楽しくもなかった。それでも、次に会う約束を繰り返すうちに、次第と心は傾いていった。

 あなたの心には、壁がなかった。最初は話題がないということに苦しんだけれども、それも今ではどうでも良くなった。ただ時間と空間を重ね合わせて、共に手を握っているだけで、十分すぎるほどのいのちがあった。

 重ね合わせた心は、やがて一点へと収斂していった。その瞬間、わたしには間隙が生まれた。いくら重ね合わせても、重ならない部分があったからだ。有体な言葉で表現するならば、「僕たちの前には、巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、どうしようもなく、横たわっていた」のだった。その隙間は、わたしたちの親愛に亀裂を入れかけたが、やがて、全てがどうでもよくなった。

 知り合って数ヶ月しか経っていないのにも関わらず、わたしとあなたは、深淵の部分で通じ合っている。この思いは傲慢すぎるかもしれないけど、わたしの実感はたしかにそうなのだ。年不相応の幼さは、不必要な部分だけを加速させた。わたしたちは、少し速すぎたのかもしれない。

 勝者の論理であることは重々承知の上で書く。あなたが来るまでのわたしは、焦りすぎていた。ありもしない社会に煽動されて、何かを手探りで求めていた。止まるところを知らない焦燥感が、空転を、終わりのないものとした。

 この焦りは、あなたが着実に埋めてくれている。共依存的ではない形において。わたしたちは、共に、歩き続けていた。

 あなたと歩く東京の知らない街は、彩りに溢れていた。あなたからもまた、様々な色が見えるようになった。上野、渋谷、新宿。広島で生まれたわたしにとっては、知るはずもなかった街が、あなたとの記憶で満たされている。これは、言い表せないほどのしあわせをくれた。

 しあわせと絶望は表裏一体だった。接近し続けても理解できないことは多かったし、距離を取りすぎても無駄だった。2つは1つになれなくて、2つのままでいるしかなかった。これは、わたしの誤解でもあった。

 垢の付いたフレーズだが、人間はひとりで生きられない。ありとあらゆる未完の人生に、エンドロールが流れ始めた。新たなるフェーズの予感と共に。

 驚くべきことに、わたしはもう、冷笑など、したくもないのである。ひとの、というよりあなたの優しさを知り、海よりも深い感情と、山よりも高い感性を身につけてしまった後には、おふざけだとか、毛繕いが、本当に馬鹿馬鹿しく見えてくるのである。勿論、今まで親交を持ってくれた友人たちは大切だ。でも、それと同等には、あなたのことも大切なのだ。

 あなたと出会ってからずっと、使える言葉の数が減り、思考の幅が狭まっている。あなたのせいではないけれども。洗練された形の親愛は、複雑な体系を必要としていない。シンプルに物事は進行していく。言語が感情に変換され、世界はさらに熱を帯びていくのであった。
 
 昔は唾棄していたはずのJ-POPの歌詞が、やけにリアリティを持って迫ってきている。わたしという鋭利な実体は、俗世に染まりきり、繊細さを失った。その代わりにささやかな愛を手に入れて、満足してしまっている。結婚が人生の墓場だというのなら、恋は感情の墓場だろう。

 あなたは、こう言っていた。「言葉で表せない、それ以上のものがわたしたちの中で流れている」と。その通りなのだろう。うつ病の感情は言葉になるけれども、恋の感情は言葉にならないのだ。言葉以前の、原始的な領域で感じている。それでいて、心の奥深い一点へと導かれている。

 彼の手は冷たかったけれども、あなたの手は温かい。でもその温かさは、終わりという断絶で裏付けされている。だからこそ熱を持ち、わたしの中に入り込んでくる。そういう、奇妙な温かさなのだ。

 幼い子供を連れた夫婦や、仲睦まじい老夫婦を見ていると、震えて仕方がない。

 わたしはあなたの中にまた、神と永遠を見出してしまっている。彼のように。もう、過ちは繰り返したくないと願うのに、どうしてか、罪はわたしの方に近づいてきて、捉えて離してくれない。

 こんなことを言ってしまったらあなたを苦しめてしまうだろうけれども、わたしにとってはやはり、彼のもたらした衝撃は凄まじかった。それと比べてしまうと、まだ、あなたの衝撃はいちばんではないのだ。でもそれは、あなたが嫌いということを意味しない。たぶん、あなたなら理解してくれると思う。

 わたしにとってはあなたは何人目かのひとだし、あなたにとってもわたしはそうだ。その上で、過去を塗り替えてしまう深さを、わたしたちは追求していかなければならないし、またそうしたいとも思っている。

 思えばあなたに会うまでのわたしは、とんでもない卑怯者だったと思う。あなたはわたしの氷を溶かして、壁を取り除いてくれた。まだ、どうして好きなのかはわからないけど、それでもあなたといると落ち着いて、心が安らぐのだ。それだけは、ほんとうの真実だと言える。これだけが真実だとも言える。

 エビリファイがあって、コンサータがある。薬はわたしにジャンプ台をくれた。そして、台の傍らにはあなたがいる。この僥倖があれば、いかなる苦難をも乗り越えられる気がするのだ。それは少し言い過ぎだけど、とにかく、人間というのは、支え合って生きる命なのだ。

 あまりにも変化したと、怒られるかもしれない。わたしが過去に犯してきた加害はどうしようもない罪で、それなのにこのような幸せに預かっているのだから。これからはもっと、気軽に生きていきたいものである。もうわたしは、ひとりではないから。

 話は変わるけれども、あなたのことをどう呼べばいいのだろうと、ずっと考えている。彼女でもないし、恋人でもない。そもそも、そういう異性愛の文脈に回収されたくない。わたしたちは唯一無二の存在であるし、またそうありたいのだ。Instagramに嬉々として存在を誇示しているような、そういう人たちにはなりたくない。せめてものプライドとして。

 無論恋愛は向上だし、堕落ではない。だとしても、自己目的化した愛は、もはや愛だとは言えない。だから、その一線だけは、保っていたい。

 裏切りというタイトルをつけたのも、そのような理由である。すぐに破局を迎えてしまった時のために、あえて隠し通していたかった。この場所、文学という空間ですべてを曝け出すために、あえて事実を取っておいたのだった。だから、許してほしい。別に、悪意があったわけではない。

 最後にハッキリと書く。わたしには、何かができました、と。それでもわたしの本質は何ら変わっていないし、周りの人間を愛していきたい。わたしは変わらず弱いままだし、小心者だ。その本質は変わらないままで、これからも、ご愛顧いただけると幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

 このような形で、弁明を終わりたいと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

(この文章は、2024/5/19に頒布した「endroll」からの抜粋です。)

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