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遠藤周作『イエスの生涯』

この本は、「現代的プロテスタントクリスチャン」とは異なった視点で描かれたイエスキリストの物語です。
それもあってか、読み飛ばしたくなる箇所もありますが、だからこそ読む価値があるとも言えます。
中でも、個人的に心に残った箇所を以下に引用させていただきます。

  • 聖書の中には、あまたイエスと見棄てられた人間との物語が出てくる。形式は2つあって、1つはイエスが彼らの病気を奇跡によって治されたという所謂「奇跡物語」であり、もう一つは奇跡を行うというよりは彼らの惨めな苦しみを分かち合われた「慰めの物語」である。だが聖書のこの2種類の話のうち、「慰めの物語」の方が「奇跡物語」より遥かにリアリティを持っているのはなぜだろう。「奇跡物語」よりも「慰めの物語」の方が遥かにイエスの姿が生き生きと描かれ、その情況が眼に見えるようなのはなぜだろう。

    例えばルカ7章36節にこういう話がある。『パリサイ派の人、イエスを食事に招きしが、イエスその家に入りて食卓につき給いし時、町に住む罪を犯せし一人の女(娼婦のこと)香油盛りたる器を持ち来たり・・・泪にてイエスの足を次第に濡らし・・・』
    この一節を読むだけで、我々はそこに描かれていない様々な情況をまぶたに浮かべることができる。

    おそらくこの話に出てくる娼婦はマグダラか、その付近に住む貧しい娘だったのだろう。生きるために彼女は様々な男に体を与え、男たちはその体を弄んだくせに彼女を蔑みながら金を与えたのであろう。男と横になっている時、彼女は闇の中に虚ろな眼をじっと見開いて身じろがなかっただろう。
    彼女はイエスがどんな人かは知らなかったに違いない。ただその姿から言いようのない「優しさ」を見抜いたのだろう。自分の惨めさにも自分に対する蔑みにもあまりに馴れていた彼女は、どんな人が本当の心の優しさを持っているか本能的に感じたのだ。

    彼女は何も言わなかった。何も言わずイエスを見つめただけだった。やがてその眼から泪が溢れ出た。その泪だけで今日までの自分の哀しみを訴えた。『泪にてイエスの足を次第に濡らし』という簡潔な表現がこの時の彼女の惨めさと苦しさをはっきりと私たちに伝えてくれる。
    その泪でイエスは全てを知られた。この女がどんなに半生、人々から蔑まれ、自分で自分の惨めさを噛みしめたかも理解された。神がこの女を悦んで迎え入れるには、それで充分だった。
    『もうそれでいい、わたしは・・・あなたの哀しみを知っている。』とイエスは彼女に優しく答えた。
    彼がこの時、つぶやかれた言葉は聖書の中でも最も美しいものの一つである。『この女は多く愛したのだ』そして、イエスは次のように言った。『多く愛する者は、多く赦される・・・。』

    この「慰めの物語」には数多くのイエス奇蹟物語よりも、はるかに生き生きと我々に訴えるものがある。『泪、次第にその足を濡らし』という女の哀しみの表現と『多く愛する者は多く赦さるる』と女をゆるすイエスの静かな声とには我々を感動させずにはおかぬ響きがある。

  • イエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼らを愛する者がいないことだった。彼らの不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望とが何時も、どす黒く巣くっていた。
    必要なのは「愛」であって、病気を治す「奇跡」ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみを分かち合い、共に泪を流してくれる母のような同伴者を必要としている。

  • 一緒に背負うこと。彼らの永遠の同伴者になること。そのためには彼らの苦痛のすべてを自分に背負わせてほしい。人々に苦しみを背負って、過越祭の日に犠牲となり殺される子羊のようになりたい。

  • 永遠に人間の同伴者となるため、愛の存在証明をするためにイエスはもっとも惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。
    もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみを分かち合うことができぬからである。人間にすがって、『ごらん、私がそばにいる。私もあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ。』と言えぬからである。

  • 新約聖書の中に、キリストの弟子パウロがローマの教会に宛てた手紙が収められているが、そこに次のような一節がある。『喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい(ローマ書12章15節)』
    この「共に」という言葉にこそ、弟子たちがアガペーというギリシャ語でよんだ、キリスト教的愛の精髄が込められているのである。とすれば、遠藤氏がイエスを「永遠の同伴者」として捉え、その視座からイエスの全生涯を捉えたということは、神学的に言っても誠に正統的な立場であると言わざるを得ないだろう。(井上洋治氏によるあとがき)

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