敦煌のオアシス

「我 謝! 我 愛 窓!」

西安から敦煌まで向かう列車の中、当てずっぽうの中国語をノートに書き、隣の席に座る女の子に差し出す。

慢性的丸顔を治すために、高校時代から勤しんできた「顔痩せ舌回し体操」で鍛えてきた顔筋たちを、フル稼動させながら「ごめんね」の表情を作る。

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2013年、大学4年生の夏休み。

苦しかった就職活動も無事に終わり、学生最後の長期休みを使って、
ユーラシア大陸横断の旅に出た。

中国の青島、北京、西安、敦煌、新疆ウイグル自治区を経て、
中央アジアの、キルギスとウズベキスタンまでを長距離移動する。
いわゆる「シルクロードの旅」だ。

特別な旅のきっかけや目的はなかったが、強いていえば、
「シルクロードの旅」という語感が気に入ったのと、
移動が陸路だと旅費も安く済ませられそうなのが、
貧乏学生の自分には魅力に思えたくらいだ。

東京から下関までを、青春18切符を使って鈍行移動し、
下関からは30時間の雑魚寝フェリーで中国青島に到着する。

中国で最初に訪れた3都市は、それぞれに魅力的だった。
青島では中洋折衷の街並みを楽しみ、北京では八達嶺長城を両端まで歩き、西安では世界一危険な登山道といわれる華山登頂や、兵馬俑見学をした。
これだけでも、十分に面白かったと、締めくくれるような旅だった。

しかし、旅の中盤、西安から敦煌に向かう長距離列車の中で、
私は、一生の思い出に残る出会いをした。

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時を戻すと、西安駅の長距離列車の切符売り場でのこと。

中国の地方都市の駅にある切符売り場は、いつ行っても大混雑で、切符1枚買うのに平気で1時間は並ぶ。西安の駅も例外でなく、朝一で到着したにも関わらず、すでに長蛇の列ができていた。私は、大人しく列に加わる。

行列に並ぶ間、ノートに「敦煌・硬座・窓」と書いて切符購入の準備する。

私は、中国語を喋れないため、基本的にコミュニケーションは漢字での筆談に頼る。中国と日本では用いる文字や単語は異なるため、高度な会話は難しいが、切符の購入程度の簡単な意思疎通ならば、問題なくできる。

1時間半ほど並んだ所で、ようやく自分の番になる。

準備していたノートを窓口の女性に見せると、金額を伝えられる。
伝えられた料金を差し出すと、すぐに手際よく切符が発券される。
あまりにあっさりと手続きが済んだので、逆に不安を感じ、
ノートに書かれた「窓」という文字を何度も指しながら、
発券されたの切符が窓側の座席で間違いないことを確認する。

女性は、あからさまに鬱陶しそうな表情をしながら、頷く。

補足すると、「硬座」とは座席種別で、文字通り「固い座席」を意味する。
中国の長距離列車は、座席種別が4クラスに分かれており、ランクの高い順に、以下の通りとなっている。

1. 軟臥(柔らかいベッド)
2. 硬臥(固いベッド)
3. 軟座(柔らかい椅子)
4. 硬座(固い椅子)

そして、クラスが低くなるほど、料金も安くなり、自由権・生存権などの基本的人権が段階的に脅かされていく仕組みになっているのだ。

「人体科学および人道的見地から硬座利用は避けるべき」というのが旅行書の定説だが、懐事情からして贅沢を言えない自分は、現実を甘んじて受け入れ、硬座席を選ぶ。

しかし、西安から敦煌までは走行距離1800km、乗車時間は24時間もある。

「24時間座りっぱなし」がどのような感覚なのか、想像もつかないが、飛行機の直行便で、長くて14時間ほどという事実を考えると、異次元の数字だ。
もっとも、LCCですら未だかつて「固い座席」を堂々と販売しているような話は聞いたことがないから、比べたところで参考にならないとは思うが。

そこで、「窓席」というのがポイントになってくるのだ。

一つは、窓が、寝る時に、物理的に寄りかかれる支えになるということ。
もう一つは、携帯も持参せず、持ってきた本も読み終えてしまっていた自分にとって車窓からの景色が車内唯一の娯楽となるということだ。

これらの理由から、いくら鬱陶しがられようと、恥を凌いででも、
窓席への異様な執着を見せた次第なのだ。

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敦煌行きの切符を無事に調達すると、西安駅の改札を抜け、構内に入る。

西安は大規模な観光都市なだけあり、駅もかなり広い。そして、古い。
見た目だけでいえば、「味がある」「渋い」という表現で説明が済むところなのだが、全ての設備が古くエスカレーターなどもない為、実際に移動するとなると結構大変なのだ。

そして、何を隠そう。ここのトイレが衝撃的だったのだ。

今までの人生で、ある程度海外も旅してきたこともあり、トイレ事情については、一定以上の耐性はあるだろうと自負していた。検定でいうと準2級くらいか。渡航前には、トイレットペーパーのロールの芯を抜いて、ぺちゃんこに潰して、常に携帯するくらいのリテラシーは備えていたつもりだった。

しかし、ニーハオ式トイレにも慣れ、調子に乗りはじめたこの頃、傲慢になっていた自分は、トイレの神様から強烈なしっぺ返しをくらうこととなる。

まず、ここのトイレはドアがないのは当然のことながら、
左右の仕切りは、膝丈にも満たない板が、申し分程度に添えてあるだけだ。もはや、視線を遮るというより、区画を整理するための補助線でしかない。必然的に、用を足す人、列に並ぶ人、居合わせる人皆と目が合う。

そして、肝心のトイレそのものは、水が常時ちょろちょろと流れる1本の長い溝になっており、端から端まで、排泄物諸々が、用を足す人々の真下を流れていく設計になっているのだ。そして、あろうことか、その日の私は、選んだ位置とタイミングが、致命的にツイていなかったのだ。

この日、人生ではじめて、自分の下を人様の”ブツ”が流れていくという戦慄経験をすることになったのだが、10年近く経った今でも、それは鮮明なHDフルカラー映像で時折夢に出て来るほどのインパクトであった。
将来、記憶を恣意的に消せる装置が発明されたならば、私は迷わず真っ先にこのデータを消去するだろう。

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駅トイレで、図らずも、羞恥心と生理的許容度の限界を突破し、人としてレベルアップした自分を労いながら、列車へと向かう。

敦煌行きの列車は、北京近郊で走っていた列車と比べると車体は古い。
楽しみにしていた「窓」は、想像していたのとは異なることに気づく。

日本であれば、多少の差はあれど、列車の窓というのは、ある程度磨かれ、中から外の景色が見えるのが普通だろう。

だが、この列車はというと、古いからか、清掃していないからか、はたまた乗客のプライバシーを気遣ってのことなのか、窓には砂埃や汚れが茶色くこびりつき、視界がほぼ遮られている。景色も、輪郭程度にしか見えない。

少しばかり落胆するも、夜寝る時に備えての陣地確保という意味では、機能十分である。気を取り直して、切符に記載された席座を見つける。「もうこれで24時間怖いものはない♪」と、小躍りしながら席につく。

しかし、るんるん気分でいたのも束の間、突然通路から若いカップルに話しかけられる。何を言っているか正確にはわからないが、手の動きから読み取るに、どうやら二人の席は通路を挟んで隣の状態であるため、直接隣り合ってに座れるよう、私の席を交換してくれないかと言っているようだった。

(えっ。。。)

断っておくが、普段自分は、「酢豚にパイナップル入れる派?」という問いくらいにしか、「ノー」とは言わない。生来のイエスマンお人好し人間だ。

だから、本来であれば、二つ返事で快諾する所なのだが、今回ばかりは事情が特殊だ。異常事態に直面し、神経細胞が光速で伝達物質を飛ばし合う。

お人好し細胞:「せっかくのカップルの楽しい旅行なのに、24時間も離れてるのはかわいそう」
自己主張細胞:「わかるけど、自分かって通勤列車乗ってるんじゃない。一生に一度の旅なんだよ」
お人好し細胞:「二人がかわいそう。断ったら自分も罪悪感で寝・・・」
大脳皮質:「うるさいっ!ええーーーーーいっ!」

葛藤はあったものの、気づけば私は首を横に振っていた。

咄嗟に出てきた頑な動作に自分でも少し驚きながら、おそるおそるカップルの反応を伺うと、あっさり「オッケー、オッケー!」と言いながら、各々席に着席していった。

さらに頼み込まれたらどうしようかと心配していたので、すんなり納得してくれたようでひとまず安心する。

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列車は、ほぼ定刻で駅を出発した。
窓越しに流れていく茶色い輪郭を眺めながら、ガタンゴトンガタンゴトンと椅子から伝わる列車の振動を全身で感じ、旅情に耽っていた、その時。

「嫌な感じぃー」
体内の全お人好し細胞が、つぶやき始める。

「嫌な感じぃー」「席譲ってあげればよかったのにぃー」
お人好し細胞は、一向に黙らない。

結局、先ほどの選択に罪悪感を感じた自分は、席は変わらずとも、
改めてちゃんと謝ろうと決心する。

自分が日本から来た貧乏な旅人で、一生に一度の絶景を自分の目で確かめるために(意訳:寝る時に寄りかかる場所を確保するために)、なけなしの
バイト代を使ってここまで来たのだと、誠心誠意事情を説明すれば、
きっと彼女も理解してくれるだろうと思ったのだ。

そして、冒頭のやりとりだ。

先述の通り、私は中国語を全く喋れない。言語中枢には、
「ニーハオ」・「シェシェ」・「メイヨー」の3単語と、1〜10の数字の、
中文基礎・無料トライアルパックしかインストールしてきていない。

この状態で、自分の意思を相手に伝えられるという自信がどこから湧いてきたか、神のみぞ知る所だが、考えるよりも先に行動していたのだ。

「我 謝! 我 愛 窓」
(意図:「ごめんね!念願の窓席なんだ。席変わってあげずごめんね」
(後日調べによる意味:「私ありがとう!私は窓を愛している」

伝わったかはわからないが、彼女はこっちを向いて笑ってくれた。
目がぱっちり大きくて、小麦色の肌がとても可愛い女の子だ。

女の子:「※△☆▲※◎★● 中国?」
自分:(おっ中国って言った)「ノー中国。イエス日本。我日本人!」知っている単語を連呼する。
女の子:「Ahh 日本〜」

筆談に切り替え、お互いの名前や出身など簡単な情報を交わす。

彼女の名前はメイランで、四川出身の大学生とのこと。自分が今まで出会った中国人から、四川は美人が多いとやら聞くことがあったのだが、噂は本当のようだ。

しばらくメイランとの筆談を続けると、通路越しの彼にも中国語で何やら話す。すると、彼は丁寧に立ち上がって英語で挨拶してくれる。長身で整った顔立ちの青年だ。

「ハロー。マイネイムイズ ジミー。ナイストゥーミーチュー」

ジミーといえば、ジミー大西しかデータベースにない自分は、
「君はジミー顔ではないよな」と、しょうもない独り言をつぶやきながら、自分も挨拶をし、席の件も謝る。

席の件は気にするなと言ってくれる。
ありがたいことに、ジミー青年は英語が得意なようで、
彼を通訳に、3人でしばし会話を交わす。

「日本人女子が何で一人で中国を旅してるのか?」
「リュックしかないけど、他の荷物はどうしたのか?」
「中国に親戚はいるのか?親はひとり旅のことを何と言っているのか?」
「中国語全然喋れないくせに、中国をどう旅するつもりなのか?」

二人には、自分がよほど不思議だったのだろう。
一方的に、好奇の質問を次々と投げかけてくる。

次の目的地を聞かれ、「敦煌」と伝える。
「奇遇だね!僕たちも敦煌に行くところだったんだ!」元気に返される。「ワ〜オ奇遇!」電車の行き先を考えると、奇遇でも何でもないが、テンションを揃えて応答する。

どこに泊まるかを聞かれ、「宿はとっていない」と正直に答える。
「え!宿予約なし?!中国語しゃべれないのに、危ないよ!」驚かれる。
「そうだ!ユーキャンカムウィズアス!」閃いたかのように、提案される。

え嘘でしょ。

いやだよ。絶対に。
はじめましてで、人様の婚前旅行に合流する人間がどこにいるだろうか。
第一、本国でも先天性コミュ障に苦しむ自分が、言葉も十分に通じない、
異国のカップルと、24時間以上一緒に過ごせるわけがない。

利他的な心でいえば、「あなたたちの大切な時間を邪魔してはいけない」だし、本音寄りの心でいえば、「勘弁してくれ。体力とコミュ力がもたない」である。

それに、旅の土産話というのは、現地人と少し話して、楽しそうな写真撮って、「列車で現地学生と仲良くなりました☆イェーイ☆」とSNSに投稿できるくらいのレベルがちょうどいいと、相場は決まっているのだ。

お互い地獄を見ることにならないよう、言葉を選びながら、明るく返す。「オー サンキュー! バット アイム オッケー マイセルフ!」
「なにせ、オールウェイズ マイセルフだからね〜!はっはっはー!」

伝われ、空気。読んでくれ、行間。

「いやいや、僕たちも大人数の方が楽しいからさ!」
そんなことあるかよ。二人が楽しいだろうよ、どう考えたって。

「いいからいいから。せっかくだし、君は中国語もできなくて心配だ。
宿には、1名追加ということで連絡するよ(電話ピッピッピ)」

(・・・)

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というわけで、半ば強引に、彼らとの三日間の旅は始まった。

車内では、長らく続いた二人からの質問タイムも落ち着いた頃、
こちらから彼らへも質問をしていった。
二人の出で立ちや生活など、基本的なことを聞く。

話をまとめると、彼ら二人は自分とほぼ同い年の大学生で、
今は大学の長期休暇の期間を使って、観光をしているそうだ。

予想に反し、二人はカップルというわけではなく、ネット上にある、
旅関連の掲示板のようなところで知り合い、今回初めて会ったとのこと。
ジミーが敦煌への旅行計画を掲示板にアップし、仲間を募ったところ、
メイランが応募したそうだ。
メイランは、可愛い顔をして、中身はかなりロックなようだ。

そして掲示板上では、互いの写真などが見れる訳でもなく、
年齢や性別等、基本的なプロフィールのみをメッセージで交わし、
それ以外は「開けてからのお楽しみ」状態ということだから驚きだ。

もはやロックというか、ただただ危ないのではないか。。。
「お互いに悪い人じゃなくて良かったね」という月並みな感想は吞みこみ、さっきまで彼らが一人旅をする自分に対して、あんなに驚き「危険だ」と騒いでいたことを思い返す。価値観というのは、実に人それぞれなものだ。

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3人の異質なコミュニケーションに興味を持ったのか、近くにいた他の大学生集団も会話の輪に加わり、ジミーの通訳を介しながら色々と会話をする。中国のこと、日本のこと、学校や出身地の話など。

言語が通じない国に来る度に感じることだが、通訳を介して会話していると、一問一答の間に絶妙な「間」ができて、凡庸な会話でもワクワクしてくるから不思議だ。同じ言語だったら、あっという間に尽きるはずの話が、
嫌味なく引き延ばされていく。この列車旅、時間だけは腐るほどあるのだから、話題をゆっくりと消化していけるのはありがたいものだ。

大学生同士のとりとめのない話だったが、印象に残ったことが二つあった。

一つは、会話で「中国」を指す時、ジミーはよく「アワー チャイナ」といっていた。直訳すると「我が中国」だろうか。中国特有の訛りはあるものの、文法も語彙も洗練された英語を話し、博識で利発な彼が、あえて用いる「アワー チャイナ」という聞きなれない表現が、なぜか印象的だった。

彼らは中国について、地理、政治、歴史、あらゆることに精通していた。大学で政治学を専攻しているにも関わらず、日本の政治や社会について生半可な知識しか持ち合わせない自分とは、大違いだ。会話の節々に溢れる、自国愛や自国への誇りなどに、当時の自分圧倒されていたのかもしれない。

もう一つは、新疆ウイグル自治区の、ウルムチやカシュガルを旅すると話した時、「ウイグル人はテロリストだ。彼らは危険だから、行ってはダメだ」と一様に強い口調で反対されたことだ。中国での偏向報道などついては、
渡航前から知っていたはずだが、仲良くなった大学生たちから発せられる生々しい言葉は、遠く日本で見聞きしたものとは違い深く印象に残った。

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3〜4時間ほど大学生集団と会話を楽しむも、乗車時間は24時間。
徐々に口数も減り、それぞれが、自分の陣地に戻っていく。
自分は、窓の外を眺めたり、ノートを読み返して時間を潰す。

列車は、夜通し、カップ麺を食べる人、イヤホンなしで携帯動画を見る人、他人の座席の下に入り込み寝転がる子供たちで、ガヤガヤ、ガチャガチャ、音が鳴り止まない。

そして、車内の電気も夜通し消えない。煌々と白く光る蛍光灯の下、
一生懸命目を閉じる。

腰もかなりきつくなってくるが、深く座ったり、体育座りしたり、
ありとあらゆるポジションを試すもベスポジは見つからない。
列車は満席で、通路にまで人がいるため、むやみに移動もできない。
自席で立ち上がってみたり、ストレッチをしてみる。

あらゆる策を講じるもどれも思うに任せず、徹夜特有のベタつきが顔と体を纏い、浅い眠りに落ちては起きを繰り返しながら、延々に終わらないように思える時を過ごした。

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苦しかった夜が明け、ようやく敦煌駅に到着する。

列車を降り、車内で知り合った他の大学生集団ともお別れをする。
駅を出ると、目の前は一面砂漠だ。混雑していた車内とはうって変わり、
人もまばらで、車が数台あるのみの殺風景な景色だ。
世界にはこんな駅もあるのかと感嘆する。

さて、一人旅であれば、ここから、バス探しやタクシー交渉の苦難が待ち受けるが、今回は二人のおかげでイージーモードである。
タクシーの運転手とも中国語でパパッと話をつけてくれ、車に乗車する。

まずは、世界遺産にも登録されている仏教遺跡、莫高窟見学へと向かう。
24時間ほぼ不眠の硬座移動をした足で遺跡見学など狂気の沙汰であるが、
宿のチェックインまで時間もある為、やむなくそのようなプランになった。

莫高窟の入場券売り場で、大学の学生証を提示し、「学生1枚」と頼む。
「中国の学生証でないと学割はできない」ようなことを係に言われる。
やはり。ダメ元だったため、大人1枚に切り替えようと思ったその時、
ジミーとメイランが横から中国語で助け舟を出してくれる。
しかし、係員の反応を見ると、答えは依然「ノー」の様子。

「一般料金で払うから大丈夫だよ」と二人に言うが、必死に食い下がって交渉してくれる。さらに5分ほどのやりとりがあり、何と係員が折れた。

後から、どう説得したかを聞くと、私が「長期休暇中の北京大学の留学生」ということで説明してくれたらしい。機転と、即興の演技力が凄い。

何より、たった昨日、電車で知り合った自分の、学割のためだけに、
そこまでしてくれる彼らの面倒見の良さと優しさには、頭が下がる。

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莫高窟は、4世紀半ばから1000年間にわたって造営された、世界最大規模の仏教遺跡寺院である。1,600mに渡って、600あまりの石窟が掘られ、その中には仏像や壁画などが眠る、仏教美術の宝庫である。高校生の頃、歴史の資料集などでその外観は見たことはあったが、いざ、断崖に掘られた多数の石窟を目の前にしてみると圧巻だ。

ちなみに、見学用に開放されている石窟は数十カ所あるそうだが、見学当日は、そのうちの10カ所をガイドが独断で決めて案内していくシステムになっている。その為、お目当てのものがあったとしても、それを見られるかは、その日の運次第ということらしい。仏教美術マニアでない自分にとっては、これで困ることはなかったが、こだわりのある人にとっては、結構理不尽なシステムではないだろうかと思う。

莫高窟見学を終えると、バスに乗車し、今夜の宿へと向かう。バスは満席で、客席は溢れているため、運転手席の隣とその間の地べたに3人で座る。運ちゃんが、ぶどうやフルーツを分けてくれる。

メイランとジミーは、運ちゃんと楽しそうに大声で談笑している。車窓からは広大な砂漠が見え、全開の窓からは砂埃の混じった風が容赦なく入ってくる。ノスタルジア溢れるロードムービーでも見ているかのような気分だ。

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宿に到着すると、そこは観光名所である「月牙泉」という砂漠のオアシスから徒歩圏内に位置する好ロケーションにある、中国人向けホステルだった。

中国の宿泊施設は、中国人しか宿泊できない宿と、外国人も泊まれる宿が分かれている。ここは中国人宿であったため、本来自分の宿泊は受け付けてもらえないのだが、またしても、ジミーとメイランのコミュニケーション力と交渉スキルでオーナーを説得してくれた。

このような宿に泊まるのは初めてだったのだが、料金はユースなどの数分の1の値段、部屋は二段ベッドが二つあるのみのシンプルで清潔な部屋だった。

宿で一休憩した後、夕飯を食べるため、夜市へ出かける。
散歩をしている最中、メイランが時々、黙って私の手を繋いでくる。
最後に友達同士手を繋いで歩いたのなんて、小学校の頃だろうか。
恥ずかしいような、懐かしいような、不思議な感覚だ。

メイランは英語ができず、私は中国語ができない。
ペンと紙がなければ、何かを指差して笑うとか、それくらいのコミュニケーションが精一杯だ。彼女が、露天の人たちと笑顔でハキハキ話しているのを見ると、つくづく、自分も中国語を勉強していればと後悔する。

屋台で羊肉やご当地麺を買い集めると、屋外市場のテーブルに座り、3人で翌日の予定を練る。今回の砂漠観光の目玉でもある月牙泉へ行くことに決めると、詳細な計画は、ジミーが全て提案してくれる。
いつも準備万端で、決断力のある彼は、非常に頼もしい。

「月牙泉は、通常入場料が結構かかってしまうのだけど、実はタダで入園できるプランがある。少し早いけど、明日は朝4時にロビー集合でよろしく」という。

中国の観光施設の入場料などは、生活物価水準と比べて高いことは知っていた。二人のような現地人と一緒だと、自分が知り得ない情報を色々知っているから真にありがたい。

朝4時は早い気もするが、早起きは三文の徳と言うではないか。
「三文で、何が買えるかな♪」と注意散漫になりながら、
「オーケー!ベリーナイス サンキュー!」と調子よくプランに賛同する。

作戦会議はあっという間に終わり、ビールや羊肉を堪能しながら雑談をする。食事を終えると、列車の長旅の疲労を癒す為、早々に帰途についた。

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翌朝、宿の玄関口。

寝ぼけ眼をこすりながら、号令通り全員午前4時に集合する。
当たり前だが、外は真っ暗だ。停電や緊急事態に備え、
日本からパッキングしてきた、手巻きの懐中電灯を持って外出する。

涼しい顔でスマホのライトを照らす二人の後ろで、
ウィンウィンと全力で懐中電灯を巻きながら歩く。
20分ほどで入り口に着いた。入り口というか、裏口の門のようなところだ。

門は開いていない。鉄格子の門の両端には、家庭用ベッドが一つずつ、
砂の上に置かれ、そこに警備員が一人ずつ寝ている。
日本では見かけることのない、シュールな光景に驚く。
ここで毎晩寝てたら、お風呂に入るたびに排水溝も詰まって、大変そうだ。

「しーっ」ジミーが指を口に当て、門を指差す。
嫌な予感が、一気に押し寄せてくる。

「先に登るから、後からついてこい」と彼は続ける。
テストでの勘は滅多にあたらないが、嫌な予感はあたるものなのだ。

顔を見合わせる女性陣をよそに、ジミーは小走りで門に向かい、
細心の注意をはらいながら、鉄の柵をよじ登り始める。

慎重に足をかけていく彼の努力をあざ笑うかのように、
鉄格子はガラガラと大胆に鳴り響く。

数秒もしないうちに警備員がベッドから起き、彼を怒鳴りつける。

当然だ。

ジミーは頭をかきながら、警備員に何か中国語で弁解する。
しばらくすると、離れて見守っていた我々の方にかけ戻ってくる。

昨日、この好青年の口から発せられた、
「タダで入れる”プラン”」という確からしい言葉。

甘美なその響きに酔いしれた、昨晩の自分の安直さを呪った。

そして、開園までの時間を外で待機することとする。

門から数分離れた場所に、所在無げに座っていると、目の前をラクダの列が通りかかった。何十匹ものラクダが列をなして進んでいく。
園内のラクダ乗り体験のために、開園前に移動させられているのだろうか。

真っ暗闇の中、ラクダのキャラバンが砂漠を進んでいく姿は、
まさに「シルクロード」のイメージそのもので、幻想的な美しさだった。

夜明け前の静寂の中、目の前で繰り広げられるシルクロードの神秘に陶酔できたのも束の間、またしても嫌な響きのする言葉が青年から発せられた。

「アイ ハブ アナザー プラン」
次の言葉を待つ。

「フォロー ザ キャメル(ラクダについていく)
どこまで本気なのかわからないが、表情は本気のようだ。

硬座旅の三銃士、最後(から二番目)の良心である自分の立場としては、「バカ言ってるんじゃない」と一蹴するべきだったのかもしれない。

しかし、日頃から、出る杭が打たれ、自由な発想や個性が潰されてしまうような教育こそが、日本社会の病理だと信じてやまない自分だ。
彼の提案を潰さず、指示通り、列後方のラクダの影を歩くこととする。

ラクダと一緒に10分ほど歩くと、砂漠の方に向かって開かれた、
先ほどとは違う門を抜けることができた。

「中に入れた!」とぬか喜びしたのも数秒、門の先は、
さらに柵に囲われた、ラクダの屋外小屋だったと気づく。

小屋に入ったところで、あっという間に飼育員らしき女性に見つかる。
ジミーとメイランが、また無邪気そうな表情で弁明を始めるが、
当然のごとく、外へつまみ出される。

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そうこうしているうちに、開園時間になる。
最初からそうすべきであったように、入園券売り場で料金を払い中に入る。

月牙泉は、数千年の間敦煌の砂漠を潤してきた、オアシスだ。
「月牙」とは、中国語で「三日月」を意味し、この湖の形を形容してこのように称されている。月牙泉を取り巻くのが、鳴沙山という砂山で、
東西に40km、南北に20kmにも及ぶ広大な砂漠地帯である。

月牙泉は、近年悪化する環境問題により、かつて5m以上あった水深が、
現在では1m程度に減り、大きさもどんどん縮小してきていたのこと。
危機感を覚えた政府が、数年前から急ピッチで保全活動を進めた結果、
ここの湖は丁寧に整備されたそうだ。

その影響か、月牙泉というのはどう見ても、ただの小綺麗な「池」なのである。我々は、「池」を近くで見学しながら、数千年にわたり砂漠を潤わせ、文明を支えきたこの泉に、一生懸命想像力を働かせながら想いを馳せる。

月牙泉見学を終えると、次は、鳴沙山の砂丘散策へと向かう。
砂丘はどこからでも自由に登れるのだが、徒歩で登る場合には、網梯子が設置されており、それを有料で使用することができるようになっている。
これもまた金額が安くないのだが、観光客は大体皆が使っている。

ジミー曰く、「梯子は使わなくても、十分登頂できる」とのことだったので、我々は、混雑する梯子を横目に、だだっ広い砂丘を歩き始めた。

しかし、すぐにその決断は、後悔することになる。
足を踏み出したと思ったら、70~80cmほど砂に埋まり、
もう一方の足を出そうにもそれも埋まる。
とてもじゃないが距離が稼げない。

身長180cmはあるジミーにとってはまだマシなのかもしれないが、
メイランと自分は、体の半分が常に埋まっているような状態だ。

時間をかけながら、踏ん張って登頂していくが、
疲れはもとより、思うように進まないことの精神的な焦りも募っていく。

残り5分の1程度の距離まで来た所だろうか。
体力を使い切り、登るにも降りるにもギブアップの状態になった。

すると、梯子を上っていた中国人の団体が、横から大声でこちらを呼んで、手を招き梯子の方へ来いと合図する。同じく、体力の限界を迎えた二人とも顔を見合わせ、体力を振り絞って、梯子の方向へと向かう。

マラソン走者を応援してくれる地元住民さながら、
梯子を登る中国人たちが声援をかけてくれる。何だこの一体感は。

ヘトヘトになりながら何とか梯子へと到達する。
見知らぬ中国人の面々が、笑いと拍手で我々を梯子の列に加えてくれた。
梯子を使うと足が沈むようなことは全くない為、順調に進むことができた。優しい中国人と、梯子のおかげで、何とか上まで辿りつくことができた。

鳴沙山の頂上では、写真撮影をしたり、砂を転がり落ちたりして遊んだ後、景色をゆっくりと鑑賞した。

目の前に広がる壮大な砂漠と、ほんのわずかな面積しかない月牙泉の水を眺めながら、物思いに耽る。つい先ほど近くを通った時に、ただの「池」と形容した月牙泉だが、改めて頂上から見ると、そのありがたみがわかる。
今見ると、水までもが美しく輝くように見えてくるから、不思議なものだ。

そして、雄大な景色のムードも相まって、3人ともセンチメンタルな気持ちになったのか、気づけば、互いの将来の夢や挑戦したいことなど、今まで話してこなかったことを思い思いに語っていた。

メイランは、将来的には四川に戻り、素敵な旦那さんと一緒にゆっくり暮らしたいと言った。四川に彼氏らしき人はいるが、その人は暴力をふるう人だったから、別れて新しい相手を探すと言っていた。

ジミーは、まだ海外に行ったことがないが、将来は世界を股にかけて仕事をしたいと言った。まずは留学から始めようと考えていることを言っていた。

自分は、来春から日本の企業へ就職するが、将来も国内外を自由に旅し続けたいと言った。また中国にも戻ってきたいと言った。

これまでも、これからも、全然違う人生を歩む者同士だということを実感する。絶景よりも、二人との偶然の巡り合わせに感謝した瞬間だった。

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翌日は、宿から遠出をし、約200キロほど離れた、ヤルダン地質公園という独特の奇岩が点在する国立公園に出かけたり、市場で食べ歩きするなどして楽しく過ごした。

二人とは、何日間でももっと一緒にいたいくらいだが、最終目的地であるウズベキスタンのタシケントまでは、まだまだ先が長い。今までの感謝の意とともに、明日には次の目的地であるウルムチへ向かうということを伝えた。

二人は寂しがってくれたが、すぐに、「出発までに君のカメラを修理しに行こう」と、砂漠を転がっていた時に壊れた私のカメラを気遣い、電気屋さんに連れて行ってくれたり、「長旅にはカップ麺や食料が必要だろう」とスーパーへ連れて行ってくれたりした。夜には、またさらに、1週間は持ちそうなほどの量の食料やや飲み物を袋いっぱいに詰み、餞別として渡してくれた。

この旅が始まってからというもの、二人にはお世話になりっぱなしで、申し訳なくなってくる。こちらからお返しできる方法を考えるも、お金も物も情報もロクにない自分にできることが、全然思い浮かばないのが情けない。

「何もかもしてもらってばかりで、私から何もできずごめんね」
夕飯の時、ジミーとメイランに言う。

「大丈夫!君はいつも謝りすぎだよ。中国では友達は家族。これが当たり前だから、遠慮しないで。中国人が日本に来た時には、その人に同じようにしてあげればいいから!」

その言葉を聞いた時、頭を殴られたような衝撃だった。

というのも、自分は今まで無意識に、人との関係は、give and takeが当然だと思っていた。1giveあたり1take。損得というほどはっきりとしたものではないが、相手と等価の関係が成り立たないと、何だかバランスが悪いし、気持ちも悪いと感じていた。

しかし、ジミーとメイランは違った。出会ってから別れるまで、知り合ったばかりの自分にgive and giveの精神で、家族のように接してくれた。
そして、思い返して気づくのは、彼らが、市場のおばちゃんやバスの運ちゃんなど、道中で出会う色んな人たちから与えられた親切を、いつも躊躇なく、気持ちよくtakeしていたこと。

改めて、自分を振り返ってみる。

「何かをしてもらったら、何かを返さないと」
旅先では特に、他人から親切を受ける場面は多いが、返せる術がない時は、決まって、嬉しさとともに焦燥感や、罪悪感のような、何とも言えないムズムズとした感覚を覚えていた。

そして、いつからか、人からの親切に対して、「ありがとう」よりも先に、「ごめん」という言葉が口をついて出るようになっていた事に気づかされ、ハッとする。

裏を返せば、自分が他人に向ける厚意や親切へも、知らず知らずのうちに、見返りを求めてきていたのではないかと疑いはじめる。
そもそも、「無償のgive」という行為をどれほどしてきていただろうか。
自問自答するにつれて、反省の思考ばかりが溢れてくる。

そして気がつく。

一対の人間関係の中で、give and takeが完成せずとも、広い世界でgive and giveが循環し、成立する社会。二人にとっては、考えるまでもなく当たり前のことだったのかもしれないが、常識の死角に埋もれていたこの世界観は、とても素敵で、凝り固まった心を柔らかくよくほぐしてくれるようだった。

個人で見た時には、自分の人生を振り返って、他人にgiveできた総量と、takeした総量がうまい具合にバランスすればちょうど良いだろうか。

いや、最終的なバランスはどうなろうと、ジミーとメイランのように、惜しみなくgiveし、堂々とtakeする、気持ち良い生き方を見習おうと決める。

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敦煌での最終日、二人はバスの停留所まで、見送りに来てくれた。
バスはミニバンのような車体で、自分の他に5名ほど先客がいた。
二人は、他の乗客に、「一人旅中の日本人だから親切にしてやってくれ」といったようなことを話してくれてている。
最後まで抜かりないホスピタリティには、脱帽だ。

バスに乗車してしばらくすると、ドアが閉まり、ゆっくりと発車する。
窓の外で二人が、笑顔でこちらに手を振っている。

最初は気乗りしなかった、二人との旅。
破茶滅茶な彼らと過ごした3日間の短い思い出は、あの日共に見た、敦煌砂漠の月牙泉のように、これからの長い人生、私の心を潤し続けてくれるだろう。そして、彼らに教えてもらったことは、大切な人生訓として、深く胸に刻まれた。

私は、慢性的丸顔を治すために、高校時代から勤しんできた「顔痩せ舌回し体操」で鍛えてきた顔筋たちを、フル稼働させながら、「ありがとう」の表情で、窓の外の二人に手を振り続けた。

バスが角を曲がり、二人の姿がついに見えなくなってしまった。
窓を向いていた体を前に直し、シートベルトを締める。
まだ見ぬ数々の出会いに胸を膨らませて。

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