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日々のカウンセリングでは、様々な年齢の人と関わる。
小学生から中学生、高校生。大学生や社会人。
そして、その親とも。

もちろん1人として、同じ人はいない。
だから、タイプ分けのような感覚もないのだが、
時折引っかかる言葉があるので、
今日はそのことについて、少し書いてみようと思う。

「僕(私)は、そういう子とは違うから」

どんな文脈で、この言葉は出てくるのだろう?
それは、
親が子どもをカウンセリングに誘ったエピソードのとき。

「僕(私)は、そういう子とは違うから、カウンセリングを受ける必要はない」
とのこと。

「そういう子」

一体、どういう子なんだろう?
察しはついてしまうものの、思いを巡らせてみる。


どうやら、不登校で悩みを抱えてカウンセリングを受ける子は
その子にとって、人としての評価が一段下、ということらしい。

だから、そういう子と、自分は違うことをはっきりさせること。
そういう子と一緒に扱ってほしくない意地やプライドが垣間見える。
そのことをこの子は伝えたいということを自分の中で再確認する。

でもさすがに、このことを小学生から聞くことは想像してなかった。

大人世代が、心に悩みを抱える人をそのように扱ってきた社会的な背景、それが今なお残っていることは理解している。
でも、小学生が同じように話していることに驚きを感じていた。

一体、どういう時間を過ごし、その子の中で「そういう子」は生まれたのだろう?
性格や背景はもちろん違えど、その子の心も「そういう子」と同じように苦しんでいるのに。

頼ることすら、まだまだ遠い

自分の心が苦しいことはわかっているのに、その苦しみをなんとかするために、
誰かに頼ることすら、この社会ではまだまだ遠いのかもしれない。

自分の心が限界だから、その心を守るために休んでいる。
その心の苦しみを何とかするために、学校にもスクールカウンセラーはいたりするように、支える人は多くいる。

でも、その悩みを軽くするために誰かに頼るということにさえ、
負のイメージを抱いている子どもがいる。

子どもたちは、一体何と闘っているんだろう?

もう少し、悩める人に寛容な社会となってほしい、と願う。

人は、足が速い遅いなどの身体的な能力に関しては、差を認めて受け入れている。
でも、心に対しては、どこか無限の可能性を感じているのかもしれない。
もちろん本人が自身の心に可能性を感じるのは何も問題ではないだろう。
でも、周囲が本人の心に可能性を見出し、乗り越えることを求めるのは、
今悩んでいる人の苦しみをさらに作ってしまうことにならないだろうか。

心は可能性を持っている。

でもそれは、その人自身が感じるもので、周りから感じさせられるものではないだろう。

どうかもう少し、悩める人に寛容な社会となってほしい、と願っている。


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