改めて思考の観察

『奇跡のコース』4日目。
を、本日やっているのだけれど。

現在実家のとある手続きの手伝いをしていて、色々な思いが湧いてくる。

相手はそういう希望をもっていたの?!ちゃんと言ってくれないとわからないじゃん!でもそもそも分かってないから手伝っているのだし、あ〜完璧にパーフェクトにやってあげられなかったどうしよう。

ちゃんとしなければいけないという私の思いには何の意味もありません。
期待に応えなければ、期待以上のことをしなければという私の思いには何の意味もありません。
人を煩わせてしまう自分はダメだという私の思いには何の意味もありません。


一方、とあることで社会は狭いのねえ。ありがたいご縁だねえ〜と思うこともって。
その一瞬に湧いたこと、

ミラクルが起きている。神様がついていてくれている!ラッキー!と思う私の思いには何の意味もありません。

その一方で、同じことで

いやいやそうは言っても実は不利なことが起こるんじゃないの?!という私の思いには何の意味もありません。


思考を観察するということは、昔やっていた時期もあったけれど、最近は特に意識してやっていなかった。
改めてやってみると、まあ色々と考えているなあ。いいことも悪いことも、どっちも。まさに二極、二元の世界で。

「良い」があるには、「悪い」が必要だし、
「利益」があるには、「不利益」が必要だし。

そういう二極、二元をこえて、両方を内包したワンネスの、全てがあって全てがないところから生きようと思って、自分なりにレッスンしてきているものの、やはり、咄嗟のというか、無意識レベルにおいては、「二元デフォルト」の世界にいるんだなあ、と分かった。


だからこそ、奇跡のコースのようなレッスンがいるんだね。
逆にこのレッスンは、「良い(という思い)」も「悪い(という思い)」も自分が生み出している、ということがわかりやすいかもしれないな。

奇跡のコースとは関係なく、最近取り組んでいるセルフレッスンで、「悪い」ということ、NOに思うことも、自分が生み出している大事な子だという感覚で抱き包んでいくということをしているけれど、要らない!と切り離すよりは全然いいレッスンなのだけど、私はどこかで、「良い」だったら良い、「悪い」だったらダメだから抱き包んでいかなくちゃ・・・みたいな、結局のところ二元論を抜け出せてなくて、どっちもを生み出している私、そこに良し悪しもない、ラベリングしているのは自分自身というのが、どうも抜け落ちやすいなあと思った。あくまでも私の感覚。

でも、そもそもに意味がないのだというところが板についていれば、その後の意味づけは自由だし、自分でしているし、だからこそどっちも自分だし、とスムーズにいくのだろうけれども、どうしたって分離の世界に馴染みすぎている自分を、分離のない本来の世界に引き上げるには、無意識でまだまだ握りしめている分離の感覚を解体していく必要があるなあと。そこからではないと、いくら頭で「分離のない本来の立ち位置から生きる!」と決めてみたところで、それを無意識レベルでも信じ切れていないから、できないよねー。


跳び箱したことないのに、いきなり跳び箱10段やってくださ〜い、っと1段で練習もしてないのにやろうとしているのと同じかあ。



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