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「何を伝えるか」より「どんな体験をもたらすか」

オンラインイベントで話を聞いたり、記事を読んだりしていて、いまひとつ訴えかけてくるものが弱いと感じてしまうことがある。話の中には、おもしろい話題が含まれているのだけど、そのおもしろさがいまひとつ伝わってこないというか(人のことをとやかく言えるほど、自分も話せないし書けないのだが)。

これはひとつには「何を伝えるか」を意識するあまり「どんな体験を提供するか」という視点が欠けているためではないだろうか。編集の仕事においては著者の発信のサポートをするわけだが、そこで意識することのひとつは「これを読んだ人はどんな感覚を抱くだろうか」「読者にどんな体験を提供するだろうか」などの読書体験を考えることである。

たとえば身近なものの知られざる一面を取り上げて、発見の感動を提供するとか、何かに対して不安を感じている人の不安が晴れるようにするとか、〇〇ってすごい!とおもしろがってもらうとか。

そこから逆算して「であれば、この情報は余計かもしれない」とか、「これをもっと目立たせよう」「ここがもっと伝わるようにボリュームを大きくしてはどうか」などの発想につながっていく。

しかし往々にしてあるのは、伝えたいことがいろいろあって、その情報をできるだけ網羅しようとしまうことだ。これは書き手としては理解できるが、受け手にとってはえてして捉えどころがなくなってしまう。

写真や絵をイメージするとわかりやすいかもしれない。一般的には、よい写真や絵画は余計なものが映り込んでいない、主題が明快なものではないだろうか。

もちろん何を書いたっていいし、自由に書いて構わないのだが(このnoteもどちらかといえばそう)、より広い読者により強く伝えたいと思う場合には、「これはどんな体験を提供するか?」「どのように感じて欲しいのか?」と自問自答してみるのもいいのではないか、と思う。

断言しよう。どんなに斬新なテーマを取り扱っていても、どれほど文章表現にすぐれていても、そしてどんなに「いいこと」や「大切なこと」が書いてあっても、設計図がぐちゃぐちゃであれば、本の魅力は半減する。
(中略)
これはひとえに、設計図の問題だ。設計図の段階で、もう間違えている。「体験を設計する」との意識が希薄で、しかも設計についての知識や経験が不足している。

古賀 史健『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』ダイヤモンド社

観客にどのように感じて欲しいのか。自分が意図した通りの感情を観客が最後まで抱き続けてくれたら、それは編集者として仕事を完璧にやり遂げたことを意味する。最終的に観客の記憶に残るものは、編集技術でもなければ、キャメラワークでも、役者の演技でも、実はストーリーですらない。感情なのだ。

ウォルター・マーチ『映画の瞬き 映像編集という仕事』フィルムアート社

Photo by Felix Mooneeram on Unsplash

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