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民主主義のはじめの一歩

宇野重規『民主主義とは何か』は人に紹介したくなる本だ。民主主義(デモクラシー)とは「人々の力、支配」が元々の意味で、みんなが「参加」することが重要だから。この背景には人々に力のなかった時代、君主制や貴族制のもとでの抑圧があるのだろう。

いまさら言わなくとも投票率はここ最近ずっと低調だし、政治参加も選挙の時によいと思った人に投票するぐらいで、自分がしっかりと政治参加できていると胸を張れる人がどれほどいるだろうか。

しかし気候変動をはじめとした環境問題は政治の問題であるし、教育その他、政治的に解決しなければならない問題は多い。

この本は「参加」がいかに民主主義にとって大事なことかを教えてくれる。

民主主義の歴史が古代ギリシアから紹介されていくにあたって、まず前提となる「政治」について語られる。古代ギリシアのおける政治の定義はこうだ。

「政治」には、公共の場所において、人々が言葉を交わし、多様な議論を批判的に検討した上で決定を行うという含意があります。あるいは、それこそが「政治」の定義なのです。(中略)

第一に、政治において重要なのは、公共的な議論によって意思決定をすることです。言い換えれば実力による強制はもちろん、経済的利益による買収や、議論を欠いた妥協は政治ではないのです。また、仮に話し合いによる決定がなされたとしても、それが閉じられた場所において、特定の人々によってのみなされたものであるとすれば、政治的な決定とはいえません。あくまで「公共的な議論」が不可欠なのです。

第二に、公共的な議論によって決定されたことについて、市民はこれに自発的に服従する必要がありました。公の場において自分たちで決定したことなのだから、その結果について、誰に強制されるのでもなく、自分で納得して従うべきであるというわけです。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社現代新書

これは、いま現在、日本で行われている「政治」と呼ばれるものからは程遠いように思える。まずもって「公共的な議論」が十分になされているとはいえないのではなかろうか。公共的議論というのは社会全体を巻き込むような幅広い議論を通して、社会が直面する問題を理性的に解決していく道を探していくことである。

しかるに、そもそもが政治的な議論というのが世間一般では毛嫌いされる傾向があったり、SNSにおいては殴り合いの様相を呈していて、とうてい議論にまで至らないことが多いように思われる。この辺りから、私を含め日本人がまずもって身につけるべき技術が議論の仕方とルールだと思うのだが、それは別の機会に書きたい。

また「公共的な議論」が十分になされないので、当然のことながらふたつ目の「自発的な服従」というのも起こりづらく、政府の決定に対して不満が噴出することになる。

古代ギリシアとは人口規模も社会の複雑さも異なる現代において同じようにすることはむずかしいにしても、「公共的な議論」の重要性はよくよく認識する必要があるし、古代ギリシアとは別の形での公共的な議論を行なう方法を模索する必要があるように思われる。

古代ギリシアにおいては、決定に先立ち、都市のいろいろな場所で市民による議論が交わされました。それを可能にしたのは、血縁や地縁によるボス支配から解放された新たな市民の存在でした。このことを現代的に翻訳するならば、議会の内部における議論だけでなく、市民社会における多様な熟議こそが民主主義を支えるのです。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社現代新書

現代でもたとえばマレーシアでは小学生でもチャットで政治の話をするという。みんなが受け身でなく政治を自分ごととして捉えている。この辺は文化的な側面もあってすぐに変わらないかもしれないが、このような文化を根付かせていく必要性を感じる。

公共的な議論を行なうにしても、それぞれに価値を置くものは違うので、当然意見の対立は起こりうる。経済を最優先に捉える人もいれば、社会福祉を優先する人、教育や環境を最重要課題と捉える人もいる。また経済が大事と言っている人も社会福祉はどうでもいいと言っているわけではなく、経済基盤が整わないことには社会福祉に手が回らない、といったように問題の構造をどう捉えるかで意見の違いが生まれていることが多いように思える。

日本においては、とかく意見の対立が人格否定につながったり、意見の衝突を避ける傾向にあると思う。そんな中で、本書における以下の指摘も興味深い。

ここに、民主主義にとっての重要な問題が明らかになります。政治に参加する人が増えれば増えるほど、意見や利害の対立も大きくなり、党派争いが起きるということです。(中略)

しかしながら、忘れてはならないのは、その一方で対立が民主主義にとって不可欠でもあったということです。(中略)というのも、たしかに最終的には同意が求められるのですが、同意だけでは、少数者による支配に逆戻りする危険性を防げないからです。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社現代新書

私自身は環境や教育の問題にとくに重きを置いているが、とくに環境についてはほかの施策にくらべて重要視されづらい傾向があるように思う。本書によれば歴史的な民主主義批判として、「多数者の横暴」という視点があったという。環境問題に取り組む人はまさにそれを実感するのではなかろうか。

しかし民主主義にとって対立は必然という認識に立つならば、この対立を避けていてはいけないのだろう。むしろ「利害や意見を異にする人々が、相互に議論して決定を下すこと」が大事であるという価値観に民主主義は依拠しているので、積極的に議論をする必要があるのだと思う。

一方で現代の社会は複雑になりすぎていて、それぞれが部分しか見えていないために、議論によって意思決定をしづらい状況のようにも思える。全体として見た時に何が最良の意思決定なのかがわかれば理想だが、全体を見ることは甚だ困難に思える。

ブレグジットの投票の後、著名な生物学者のリチャード・ドーキンスは、自分も含め、イギリスの国民に投票で意見を問うべきではなかったと、不満の意を表した。なぜなら一般大衆は、判断に必要とされる経済学と政治学の予備知識を欠いていたからだ。「アインシュタインが代数学的な処理をきちんとこなしていたかどうかを全国的な投票を行なって決めたり、パイロットがどの滑走路に着陸するかを乗客に投票させたりするようなものだ」

ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』河出書房新社

これはイギリスの例であるが、民主主義的な判断が正しいとは限らないのは『民主主義とは何か』でも繰り返されていることであり、そのために民主主義は歴史的にも批判にさらされ続けてきた。決して完璧な完成された仕組みではないことが本書を読むとよくわかる。ただほかの君主制や貴族制にくらべるとベターな制度なのかな、とも感じられる。そう、あまりにも民主制以外の制度が馴染み薄いために、民主主義の価値を感じづらいというのはあるのかもしれない。

アソシエーションという政治参加

『民主主義とは何か』では、民主主義を「参加と責任のシステム」と位置付ける。しかし投票以外にどのような政治参加ができるのか、モヤモヤした気持ちを抱いている人も多いのではないだろうか。

本書で個人的に印象に残ったのがアソシエーションというキーワードだった。フランス人貴族であったアレクシ・ド・トクヴィルは19世紀前半のアメリカを訪れて、アメリカのデモクラシーを発見する。

連邦議会の政治家の水準にはいささか失望気味であったトクヴィルですが、タウンシップで出会った名もなき人々の声には驚かされます。いずれの市民も地域の諸問題をよく理解し、政治的見識という点でもみるべきものがあります。トクヴィルはこのときにはじめて民主主義の力を見出したのです。その原動力にあるのは自治であり、人々は自らの地域の問題を自らのことがらとして捉え、それゆえに強い関心をもっています。政府の力が弱い分、学校、道路、病院などについても、自分たちの力でお金を集め、あるいはそのための結社(アソシエーション)を設立して事業を進めていく姿に、トクヴィルは民主主義の可能性を見出したのです。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社現代新書

アメリカ在住のある著者は、学校や街の自治によく参加されていて、この文化は今もあるのかもしれない。本書は民主主義を「参加と責任のシステム」と呼んでいるが、なるほど国レベルよりも地域レベルのほうが政治に参加しやすいし、むしろ地域の政治の延長線上に国の政治があるのだろう。まずは自分の足元から。

その意味では、政治体制としての民主主義とは、一般の市民によるコミュニティの自治がまず基層にあり、その上に地域の統治、さらにより広域における統治が広がるものです。その原則は、まずそれぞれの市民が自らにかかわる利害について判断し、それを超え、社会的に共有する諸利害については、平等な相互調整によって決定を行なうことにあります。コミュニティは自らを超えた諸問題をより広域の政府に委ねますが、けっして上下関係に立つわけではありません。単に問題のサイズが違うだけです。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社現代新書

「上下関係に立つわけではない」という言葉が印象的だ。東日本大震災のときに、某大臣の県知事への威圧的な言動が問題になったが、無意識的に国>地方と捉えている人は多いのではないだろうか。これは会社でも同様だろう。

ところで昨年『人新世の資本論』が話題になったことからも、資本主義をめぐる問題に関心が高まっているように思う。著者の斎藤幸平さんはマルクスを引き合いに、資本主義が抱える問題点をいかに解決していくを説く。そこでもアソシエーションは重要なキーワードになっている。

マルクスは、『資本論』第三巻の草稿に、こう綴っています。資本主義に代わる新たな社会において大切なのは、「アソシエート」した労働者が、人間と自然の物質代謝を合理的に、持続可能な形で制御することだ、と。アソシエートするとは、共通の目的のために自発的に結びつき、協同するという意味です。

マルクスといえば社会主義、そして、社会主義国といえばソ連や中国のような共産党による一党独裁国家を連想する方が多いと思います。でも実は、マルクス自身は「社会主義」や「共産主義」といった表現は、ほとんど使っていません。来るべき社会のあり方を語るときに、彼が繰り返し使っていたのは、「アソシエーション」(自発的な結社)という言葉なのです。労働組合、協同組合、労働者政党、どれもみなアソシエーションです。(中略)マルクスが目指していたのは、人々の自発的な相互扶助や連帯を基礎にした社会です。

齋藤幸平『カール・マルクス『資本論』 2021年12月 (NHK100分de名著)』NHK出版

ここではもっぱら社会の「富」を人々がアソシエーションで取り戻し、みんなで管理していこうというニュアンスで語られている。資本主義に抗う手段としてアソシエーションが取り上げられているのが興味深い。

先ほどマレーシアでは政治を自分ごとにしている人が多いらしいと書いたが、下記のnoteでは地域社会の問題を市民自らが主体的に動いて(行動が早い!)、自分たちで理想の社会を実現しようとする姿が描かれている。まさにトクヴィルが見た「アメリカのデモクラシー」に似た文化がマレーシアにもあるのかもしれない。

このnoteには議論のヒントも書かれていて非常に興味深い。

不思議なのが、どのグループでも「相反する意見同士が対立していない」こと。それぞれの利害というより、命と経済のバランスをどこで取るか?という「国にとっての落とし所」を探るような議論で、これは最終地点が同じ「コロナ禍をサバイブする」という目標だからかもしれません。

Kaori Nagatsuka「理想への近道は「自分ごと」に捉えて動くこと」

目標や最終地点を共有しておくと議論しやすいのかもしれない。これは日頃の本づくりでも思うことで、ゴールは「よりよい本をつくること」なので、その目的に沿って議論がしやすいのだ。

先のマルクスの思想を紹介した文にも「共通の目的のために自発的に結びつき」とあって、同じ目標を共有することの重要性を感じられる。一見、意見は異なるようでも目指しているところは同じというのは往々にしてあることだ。それをまず押さえることが対立を深めずに落とし所を探るのに有効なのかもしれない。

普段から他の市民と協力する習慣をもたいない人にとって、政党のような政治に直結した結社は縁遠いものでしょう。そうだとすれば、人々はまず、日常的な目的のため、社会生活の改善のために結社をつくることから始めるべきでしょう。そのように人々と協力して何かをする訓練をして、はじめて政治的な目的のための結社を使いこなすことができるはずです。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社現代新書

住んでいる地域にしろ、働いている会社にしろ、困っている人がいたときや問題が起きたときに、自ら考え行動し、協力しあうこと。一見当たり前のことではあるけれど、それを行なうことが民主主義の第一歩なのかもしれない。先のマレーシアの記事を読むと、こんなふうな文化がつくれたら素敵だな、と思う。


▼今回はこちらの本を元に思ったことを書きました。いずれもおもしろく、新たな考えへと誘ってくれる本です。気になった方はぜひ手に取ってみてください。

Photo by Jake Hills on Unsplash

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