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サンタクロース火刑と消費文化

ひとつの象徴的な出来事がある。1951年12月24日、フランス中東部の古都ディジョンで起きた奇妙な事件だ。

この日、大聖堂のまえに数百人のこどもたちがあつめられた。その目のまえで、巨大なサンタクロースの人形が大聖堂につるされ、火あぶりにされたのだ。キリストの生誕祭を異教化しているとして、聖職者たちがサンタクロースに有罪を宣告し、刑を執行したのである。

この事件をうけて、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは雑誌『現代』の1952年3月号に、ユニークな論文を発表している。『サンタクロース拷問』と題されたその論文には、キリスト生誕祭であるクリスマスと非西欧的な異教の祭りとの関係について、きわめて興味深い分析がなされていた。

キリスト教以前の古い時代、古代ローマでは12月にサトゥルヌス祭(Saturnalia)が開かれていた。サトゥルヌスは農耕の神で、その名は「種をまく者」という意味をもつ。
祭りでは家々に火がともされ、人々は贈り物を交換し、数日間にわたって狂乱の騒ぎがくり広げられた。そこでは自由民と奴隷の垣根がとりは払われ、両者がひととき、その立場をいれかえるという座興さえあった。宴席では主人が奴隷のために給仕をした。一枚布でできたトガと呼ばれる正装もしなかった。一時的な価値転換をはかることによって、社会に鬱積する不安要素をふり払おうとしたのである。

この祭りは前述のように12月におこなわれた。この時期というのは祭りの起源になった季節でもある。
たとえばゲルマン人やケルト人は古くから、冬至の祭りを営んでいる。なぜ冬至の日なのか。それは、彼らが昼と夜のバランスが極端になる危険な季節に、死者たちが生者の世界に侵入してくると考えていたからだ。徘徊する悪霊や死霊をしずめるため、生者は死者を盛大にもてなし、贈り物をすることで、ふたたび世界の秩序を回復させようとしたのである。
冬至の祭りはもちろんのことサトゥルヌス祭もまた、1年で昼がもっとも短く夜がもっとも長い時期におこなわれる。勢いを失った精霊たちに、あらたな活力をもたらそうというのがその目的である。そのため、価値の転換や贈与ということが重要な要素となったのだろう。

キリスト教はこれら異教の祭りをとりこみながら、広がっていく。クリスマスをつくりあげたのもそのためだった。当初のクリスマスは死霊の気配を漂わせた野性的な祭りだったが、キリスト教が普及する過程で、貧者救済の伝説をもつ聖ニコラウスをここに登場させる。こうして、優しく温厚なサンタクロース像ができあがっていった。

このサンタクロースを火あぶりにしたのは、なぜか。

これには第二次世界大戦からの復興が大きく関係している、戦争で疲弊したヨーロッパにたいして、アメリカはマーシャル・プランの名で知られる欧州復興計画を実施した。1948年から52年まで3年あまりにわたって無償の資金贈与をふくむ大規模な援助がなされたおかげで、フランスをはじめ西欧諸国はめざましい経済復興をとげることになる。
クリスマスが盛大なイベントと化したのもこの時期だ。そのあまりの華美さゆえに、聖職者たちは聖なる祭りから宗教性が抜け落ちていくことを憂えていた。サンタクロースは、浮かれた世情や堕落する人心の象徴とされたのである。
その背景には、アメリカから怒涛のようにおしよせてきた物質文明と消費文化がある。狂乱のクリスマス商戦はまさしく贈与の応酬であり、聖職者たちはそこにかつての異教の祭りの暴力性を見ていた。レヴィ=ストロースはそう分析したのである。

この騒動は、サンタクロース人形が火あぶりにされた翌日、一応の収拾をみた。12月24日午後6時、サンタクロースがふたたびディジョン市庁舎の屋根に姿をあらわしたのだ。それは世間の反発を懸念した市長の配慮だった。そこには、この日のためにわざわざ設置したスポットライトを浴びながら、つけ髭をはやした消防士が屋根に登り、数十分にわたって、手をふる姿があった。

ところが、クリスマスに復活したのは、見た目は同じでもフランス人が古くから親しんできたペール・ノエル(Père Noël=クリスマス小父さん)ではなく、アメリカン・サンタクロースだ。皮肉な言い方をすれば、それは伝統的な聖ニクラウス像ではなく、第二次大戦で荒廃したヨーロッパにむけたマーシャル・プランというアメリカの経済復興援助計画の一員だった。 
もはや新大陸からやってきた消費文化を手放せないことは、だれの目にもあきらかだった。復活したサンタクロースは増殖する資本主義の化身であり、処刑されたものはキリスト教の教理のみに固執する教会の純粋性だった。屋根から手をふるサンタクロースを、地上から見あげていたディジョンのこどもたちたちは、わけもわからないままそれを体感していたことだろう。

サンタクロースの火あぶりがあったころ、アメリカでひとりの女優が注目されはじめていた。まったく売れない役者だったが、1951年ごろから脇役として映画に出演できるようになった。
彼女の名前は、マリリン・モンロー。
1952年になると、映画『ノックは無用』(Don't Bother to Knock)で準主役が彼女にまわってきた。53年には『ナイアガラ』で主役を演じ、腰をふって歩くモンロー・ウォークが男たちの視線をひきつけることになる。その後、主演映画がつぎつぎとヒットし、彼女はいっきにスターダムを駆けあがっていく。

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