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オトナの友情は青春を共有できるかどうか

オトナになってから出会う人との友情の深さや貴重さって、青春を共有できるかどうかだなって思った。という話。

青春っていうものの定義は、本当に人によると思う。

私にとっての青春を感じる瞬間っていうのは、「大人」の仮面を脱ぎ捨てて、素の自分でいられる時。

例えば、シャワー浴びて晩御飯食べてるときに「今君の家の近くなんだけど、今からちょっと喋らない?」って言われて、迷わず「OK」って即答してすっぴんで財布だけ持って出かけられるような。

さらに言えば、そのまま居酒屋とかに行くのではなくて、コンビニでビールとか酎ハイを買って、適当にぶらぶらしながら見つけた住宅街の中にある静かな公園のベンチにあぐらをかいて、お酒飲んで、煙草の煙を吹かしながら、人生について取り留めもなくしっぽり語り合うような。

(とはいえ、お酒がないと成立しない関係性は、私は個人的に青春とは捉えない。お酒があってもなくても成立する空気感ってあると思うんだ)

セッティングは同じでも、正論とか「大人としてあるべき姿」を崩さず話すのは、素の自分ではない。本音と建前を分けて、何を話すべきか、何を話さないべきかを考えなきゃいけないのも、素の自分じゃない。


何を言っても、言わなくても、「そういう風に感じるんだね」「そういう場所に今いるんだね」と受け入れ合い、寄り添えあえるような。そして、真剣な話もくだらない話も、同じ熱量(必ずしも熱がこもってる必要はない)で話せるような。

そういうのが、わたしにとっては「大人」じゃない素の自分だし、それが青春なのかなって感じる。

そういう青春を共有できる人っていうのに、オトナになってから巡り合うって、なんだかとても貴重で。


例えば実際の青春時代(いわゆる思春期)を共にした地元の友達であっても、オトナになってからも同じ青春を共有できるとは限らない。

地元の古い友人に会ったら、学生時代の思い出話を中心として、話をしていくことはできる。でも、それはあくまでも過去を起点に語り合っているに過ぎなくて。

「今」を起点に話をすると、突然話が噛み合わなくなったり、全然違う世界へと成長していっちゃったんだねってなることって、多いにあることだと思う。

ある意味、過去でしか繋がっていられないような。過去の名残としての今があるような。そんな関係性。

「オトナになる」っていう時の流れを経て、距離や体験や、その他人生に起こるいろんなものに翻弄されながらも、まったく別の場所で、同じ速度で成長し合える仲間って、意外と少なかったりする。

地元の友達であっても、今を起点に青春を共有し続けられる相手っていうのは、本当に少ない。
それが、オトナになってから出会った友人であれば、なおのこと貴重な存在だなって思う。


思春期の頃って、青春の共有はそんなに難しくないのかもしれない。人による部分も大いにあるだろうけれど。でも、その母数は比較的多い。オトナに比べれば。

オトナになってから、「大人」の仮面を脱いだ等身大のオトナになった自分で、オトナの思春期とも言えるかもしれない青春を共有しあえる関係性って、宝物みたいなものだ。そういう出会いは、奇跡のようなものだと思うし、大切にしていきたいなって思う。


片手に収まるくらいで、いい。
どれだけオトナになっても、青春を共有できる友達がいれば、それはとても幸せなことなのだなぁって。そんなことを、取り留めもなく思った、夏の日の夜。


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