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アラ古希ジイさんの人生、みんな夢の中 アオハル編⑥ 料亭「女抱かせろーッ!」事件

 少年Eは田舎町の駅前商店街で生まれ育った。駅から北に100mほど行くと川が東西に流れており、川まで大きく西通りと東通りが通っていて、少年Eの家は西通りにあった。西通りの東側と東通りの西側の商店街の裏はどぶ板通りで人がぎりぎりすれ違えるくらい狭く暗い路地だった。

 今でもはっきり店々の正面の光景やその中のオジサン・オバサン・子どもの顔まで少年Eの目に浮かぶ。西通りは駅前から順に銀行、洋品店、本屋、床屋、自転車預かり、卵屋、電気屋、中華そばや、自転車預かり、貸本屋(大変よく利用していた)、パチンコ屋、お菓子屋、喫茶店、レコード屋、郵便局、時計屋、靴屋、パン屋、金物屋、洋品店、瀬戸物屋、薬屋、自転車屋、文房具屋、着物屋等々、名前からして今はもうない店もあるが、ホント懐かしい。田舎町ながら、少しずつ人口も増え、活気があった。

 西通り等の集落ごとにやる行事の最大のものは、やはり(秋)祭りである。屋台ー大きな台車の天井に飾り物を付けて練りまわす、山車・花車(だし)である。少年Eの町では、金曜日の夕方から日曜の夜まで、メインは日曜日に神社に集合するが、それ以外は近隣をお囃子を鳴らしながら練り歩くのである。

 「ドンガチカチカ、ドドンガチカチカ・・・」太鼓の音が聞こえてくると、嬉しくなるし、ワクワクする。そんなお祭り小僧が多かった。少年Eも小さい頃から祭りが大好きで、法被(はっぴ)に手ぬぐい、手甲、前掛け、もも引き姿で、土曜の学校を終えてから、日曜夜までの1日半、地元の屋台に付きっきりであった。屋台の中の大太鼓と笛は大人がやったが、小太鼓は子供が交代だった。それとは別に、別動隊としてお囃子連があり、(小)太鼓、大革(大きな鼓《つづみ》革のようなもので叩いて音を出す)、小鼓(こつづみ)と笛の10人くらいが屋台と共に、あるいは別動隊として練り歩いていた。少年Eが小6の時に丁度お囃子を小学生にやらせることになり、夏ごろから毎夜お兄さん方から指導されて練習をした。笛は難しいので大人がやったが、最終的に、少年Eが西通りお囃子連のリーダーになり、5~7曲ある演奏の題目をその都度決め、皆に叫んで、演奏し、それを1日半やり切った。(曲は「お七」と「農兵衛節」は覚えているが、あとは忘れた)それでも疲れるどころか、もう終わりか?という物足りない気持ちだった。

 祭りの後、数日後だったか、打ち上げという意味で、指導のお兄さん方が、お囃子の小学生を近所(東通り)の「たたみや」という料亭(料理旅館)に招待してくれ、お兄さん方は酒、子供たちはジュース・サイダーとご馳走を戴いた。お兄さん方は酔うと、少年Eに「別の部屋にお偉方が宴会しているので、『女、抱かせろ―っ!!』と叫んで来い」と命じて、「抱く」という意味も良く分からないまま、お偉方の宴会席に行って、正座して叫んだ。それでも、特に怒られるでもなく、手打ち(締め)になったような気がする。

そんな、小6の秋であった。
(昔は繁華街だけのお祭りでしたが、今は人口が分散して、市内全体、どこの集落にも屋台があって、ほぼ同じような祭りを楽しむようです。)

末尾の一首
あの夏の数かぎりなき そしてまた たつた一つの表情をせよ
                          小野茂樹

盛り上がる祭りの屋台
屋台を引く子どもたち
お囃子を練習する子どもたち(もう女の子が中心です)
今では笛も子どもたちが吹いています(すごい)
下手な手書きの絵で恐縮だが、このような画像(写真)を探したが見つける事が出来なかった。この絵のごとく、丸棒2本で重さ約5kgの小太鼓を、太鼓の紐と帯で巻いて支えて、両手が空くので、歩きながら太鼓をバチで打つ事が出来た。50数年前のことなので、今では一切このような方法は使用されていないようだ。


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