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アラ古希ジイさんの人生、みんな夢の中 フィリピン編⑲最終話 みんな夢の中

さて、フィリピン編の最終話は、今までのネタバレも含めて・・・

 フィリピン在任中、自分はひとりのフィリピン人女性と知り合った。会社が雇ったドライバーの妻の妹であった。一度、そのドライバーを飲みに連れて行ったところ、彼が休みの日に自宅に誘ってくれ、そこで知り合ったのだった。「今度、食事に行こう」ということになり、彼女の友達も一緒に、日本食やイタリアンを何度かご馳走した。しかしその後、我々がマニラからサイトのある村に引っ越したので、次第に疎遠になって行った。

あとで聞いた話では、彼女はその後、半ばガッカリし半ばヤケになって、女友だちと飲みに行ったそうだ。そこで運悪く知り合ったかなり危険な日本の男と3人でホテルに行き、クスリを使った、たった一度の過ちで妊娠。そのことを男に言うと、男はお腹の子を堕す金だけ置いて消えたそうだ。彼女は誰にも相談せず思い悩んだ挙句、カトリックの教えに従い産む決心をし、家を出て、従妹の住むマニラから南東約400㎞のナガという町に移り住んだ。

自分は、日本への帰任が近くなった、11月、サイトの寮の屋上で、ホタルがちらほら飛び交う中、やっと通じるようなった、細長い弁当箱のような携帯電話で(フィリピン編⑦ クリスマスツリー参照)、彼女の妊娠を知った。彼女は中々言わなかったが、言葉の様子からおかしいと感じ、マサカとは思ったが、「Are you pregnant?」と聞いたら、長い沈黙の後、やっと「Yes」と答えた。

所長ら3人が帰任した後の12月、自分はマニラ事務所の女性に、ナガ行きの国内線を予約してもらい、土曜の早朝に、プロペラ機でビコール州ナガ空港に向かった。さらにバスで1時間、町に着いた自分は、何とか彼女の住む家を探し当て、高床式の家のドアをノックした。彼女は驚いたが、笑顔はなく、妊娠6~7か月の大きなお腹を突き出し、「数か月前洪水になって、ここまで水が来た」と自分の身長より高い位置を指差した。よく生き延びたな、と彼女に母になる逞しさを感じた。

従妹がもう直ぐ戻ると言って、彼女は自分をその晩泊まるホテルに案内し、チェックインを済ませ、部屋の椅子に座ってやっと、今までのことをぽつりぽつりと話し始めた。男とホテルに行った経緯に話が及び、自分が「どうしてそんなことをしたのか?」と問い詰めると、彼女の目から大粒の涙が、その後は大声で号泣した。宿した新しい生命に責任がないことは、自分にも良く分かった。彼女の肩を抱いて、背中をさすりながら、自分は一つの決心をした。

やっと泣き止んだ彼女に、「自分がお腹のベビーの父であることを、あなたの両親に言おう」、と提案した。彼女は驚いて、申し訳なさそうな顔をしたが、目は希望の輝きを取り戻していた。

その後彼女は、自分を町の小さな教会へ連れて行った。土曜日の昼過ぎで誰も居なかったが、彼女は長い間、ひざまずいて祈っていた。あんな関係で出来た赤ん坊を産む、とひとりで決心するだけで、宗教の力は偉大だと思うが、偉大なのは、宗教の教義や聖典ではなく、神の教えを信じて正しい行いを続ける、彼女である。多分、「自分は、神が試練を与えた、『選ばれた民』であり、その試練を受け入れたことから、神が『救い』を使わした」、と思って感謝の祈りを捧げていたのかも知れない。

自分は翌日のプロペラ機でマニラへ戻った(彼女を孕ませた男に対する怒りは消えず、マニラの盛り場を探し回ったが、勿論見つかるはずはなかった)が、決断すると行動が早い彼女は、2日後には、約10時間の長距離バスに揺られて、再びマニラへやって来た(安定期で良かった)。まず、姉(二女=ドライバーの妻)に打ち明けて味方を固めたあと、次の週末に自分と彼女が両親に会い、謝罪と、日本に帰った後も経済的な援助をすると約束した。年老いた両親に、英語劇の経験もない自分の、「I'm so sorry.」がどれほど心に響いたか甚だ自信がなかったが、怒鳴られることも、殴られることも、首を絞められることもなかった。ただ、寂しそうにはしていた(先の大戦中、日本人がフィリピン人に塗炭の苦しみを与えた過去もよぎった)。読者は、そんないい加減な話が通用するのか?!と思うだろうが、幸いだったのは、彼女の長姉(一番上)が、既にシングルマザーで、2歳くらいの、しっかりピアスをした女の子を、家族で面倒を見ていた経緯もあって、悲劇というよりは、家族がもうひとり増えるという、メデタイ話になってくれたようである。

自分は日本に帰った後も、ほとぼりが冷めるまで、ホントに微々たる額だが、養育費の名目で資金援助を続けた。彼女の兄弟姉妹・親戚と、ドライバーの運転する会社の普通乗用車に、妊婦を含めた15人くらい寿司詰めになってカラオケに行き、みんな大喜びし、また別の日に、彼女から「どうして貴方は私にそんなに親切にしてくれるんですか?」と聞かれた話は、すでに「① Why are you so kind?」と「④ Hungry?いえいえそれは家族愛」でお話したとおり。親戚縁者は、自分のことを家族の一員として扱ってくれたのである。もちろん、ドライバー(彼女の義兄)にだけは、ホントのことを知らせた。

自分が帰国したあとの99年3月、彼女は無事女児を出産、Samanthaと名付けた、と写真同封の手紙を貰った(聖書にあるSamuelの女性名)。彼女の肌は褐色だったが、Samanthaは東アジア系だ。長姉の娘と一緒に、家族が子どもたちの面倒を見ているそうだ。それからしばらく経って(2年くらいかな?)、手紙も来なくなったので、その後のことは分からないが、自分も一生感謝してもらうことなど望んでいなかった。それより彼女が私のことなど忘れて、Samanthaとその母を愛してくれる、若くて誠実なパートナーと家族を持ち、全員が幸せに暮らしている方がどんなに良いことか?!(一度、彼女の姉から、Samanthaがもう立ち上がったー1歳半くらい?ー写真とともに送金に対する感謝の手紙をもらったことがあるが、その後送金が途絶えてからも、自分を問い詰める手紙は一切来なかったので、自分は間違っていなかったのでは、と思っている。)

ホント、日本では全くあり得ない、夢のような体験でした。

フィリピンを去ってほぼ四半世紀が過ぎた。フィリピンでの日々は、毎日が感動と驚きの連続だった(1年半という期間も、飽きることもないちょうど良い長さだったと思うけれど、逆に言うと、異文化を楽しめないと、海外で仕事をやって行けないと思う)。フィリピンは一言で言うと、汚くてゴチャゴチャしているけれど、元気があって、何より人々がやさしい(やさしさは、ラテンの陽気さと、キリスト教のお陰?)。色が黒い(正確には褐色)けど、あのギョロッとした目と人懐っこい笑顔が忘れられない。8か月居たアメリカを去るときも涙が出たけど、1年半の生活を終え、フィリピンから日本に戻っても、ぽっかり空いた心の空洞は、なかなか埋まらなかった。かなり長い間、寂しかったのを記憶している。
 
マニラ湾の夕日、歓楽街のネオン、田舎の田園風景、そして発電所から見る海の、ベタ凪ぎの中での夕暮れ…そんなフィリピンの全てが、あまりにも目の前の日本と違うので、自分には全てが夢であったような気がしてならない。発電所が出来たというのも夢だったのかも。
 
また、夢で彼らに逢えるのを待ちたい。
「ホントに仕事をしに行ってたの?」と言われそうだけれど、自分のフィリピン愛が少しでも皆さんに伝わったら、望外の喜びだ。

次回以降、また別のお話をお楽しみに。


今回の和歌も「夢」 
 思ひつつ ぬればや人の見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを 
                 小野小町 (ぬればや:寝たので)
帰り来ぬ 昔を今と 思ひ寝の 夢の枕に にほふたちばな   
                     式子内親王(新古今集)
 

ナガ空港到着のプロペラ機
ナガ市(現在の人口17万人、ビコール州は美人が多いことで有名)
小さな教会(イメージ)
karaoke
さらば!フィリピン!

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