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KL~コタバルのバスの旅(第2回)

 グア・ムサンについた。

 このグア・ムサンの町はあまり知られていないが、ここはグア・ムサン郡の中心地。この郡はクランタン州のなんと半分もの面積を占める。しかし、人口は郡全体で10万人ほどで、面積のうちほとんどはジャングルだ。

 「グア」はマレー語で「洞窟」の意味。「ムサン」は狐の意味で、狐が住んでいる洞窟があったのだろうか。かつては「フル・クランタン」と呼ばれていたが、数十年前から今の名称に変わった。

 この街に入ってくる途中に石灰石の山がいくつもそびえ立っていたのが見えた。グアという名前がついている街や郡の周辺では石灰石があることが多い。この風景はバトゥ・ケーブの周辺のに似ている。

こんな山が見える

 グア・ムサンのサービスエリアで休息。5時間走って休息は30分ほど。ここにはホーカーがあるが、なぜか「ロティ・チャナイ」専門店があった。インド人の訪問が多いのだろうか。しかし、一枚15リンギ以上もするのには驚く。KLでは高くて4リンギほどなのに。どれだけ豪勢なロティ・チャナイなのだろうか。

 グア・ムサンの住民はマレー人が75%ほどを占めるが、一方でオラン・アスリが13%住んでいる。国内でもこのオラン・アスリの人口が多いところとしても知られているが、このオラン・アスリの多くは実は定住していない。ジャングルが多いため、森の中で暮らしている人が今もって多く、おそらく政府も人口を把握しきれていないのではないか。

 政府はオラン・アスリたちの定住化政策を進めているが、これはあまり奏功していないようにみえる。2019年にここのオラン・アスリたちの間で「謎の病気」が流行り、16人が死亡。政府も本腰を挙げてこの病気を突き止めたが、なんとそれは「はしか」だった。定住化したものの、あまり予防接種もしてなかったため、突然オラン・アスリたちの間で、はしかが流行。一家5人のうち4人が亡くなった家族もあり、オラン・アスリたちに衝撃を与えた。

 はしかはその後に終息したものの、今度は新型コロナがグア・ムサンを襲った。はしかの流行の悲惨な思い出を多く抱えるオラン・アスリたちは、パンデミック後には村を捨てて森に帰って行ったという。何百人にものぼり、村の多くがゴースト化したほど。携帯電話をもっているわけではないので、森に入ってしまうとその行方はわからない。地元の報道では「森のほうが居心地がよく、病気にもかからない」のだという。

 オラン・アスリの姿を僕はクランタン州で見たことがない。今回も出会えるかとも思っていたが、やはり森の人であるので、見かけることはなかった。

 バスを降りた。キーキーという鳥のさえずりが聞こえてくる。しかし、そのさえずりは録音したものだとすぐわかった。そう、ツバメたちの鳴き声が録音された声なのだ。

 グア・ムサンまで来る途中、ツバメの巣を育てているコンクリート式の建物を何度も見えた。コンクリートの箱のような3階建てほどの建物が突如ジャングルの中に立っている。ツバメの巣は栄養価が高く、マレーシアの田舎ではこういった建物で育てていることが多い。

こつ然とあるツバメの巣のコンクリートの建物

 このツバメの巣を育てているのは、コタバルでも町中でやっているところもある。コンビニの上階がツバメ用の空間にして、光が入らないように窓は全部取っ払う。そして、一部だけ外と行き来できるように開けておき、そこをツバメが往来する。スピーカーを設置し、ツバメが寄り付くように24時間鳴き声を流しっぱなし。それで本当にくるんだろうかと思うが。

 このツバメの巣の生産は華人のビジネスがほとんど。巣はスープや健康食品となる。料理では広東料理で使うことが多い。タンパク質やシアル酸が多く含まれており、免疫強化にもつながるのだという。

 さて、バスはコタバル方面に北上していくのだが、8号線は少し東に進み北に行く。途中、マチャンという街を通ってからタナメラという街に。

 「タナメラ」は日本語でいうと「赤い土」という意味になる。昔から不思議に思っていたのだが、別段、この土地は赤い土ではなく、なぜこの名称がついたのか。古代にクランタンあたりに「赤土国」という「くに」があったと中国の史書に記載されているが、これと関係があるのだろうか。

 タナメラという街は地元の人も言うように特に何もない街なのだが、一つ面白いといえば、街の中心に3方向の陸橋がある。普通はこちら側と向こう側を1本の道でつなぐのだが、この陸橋は真ん中で左に折れる道も作ってあり、変な陸橋なのだ。おそらく国内でも3方向陸橋はこれしかないのでなないか。

 3方向陸橋。なぜこうしたんだろうか。


 バスはそこから一気にクランタン川に沿って「パシール・マス」という街に入る。バスは今、クランタン川の西側を入っている。このクランタン川は雨季になると氾濫することでよく知られる。直近では2014年にコタバル全体が冠水するにまで至った。グア・ムサンの山奥から南シナ海に流れる全長248キロの茶色の川なのだが、東西を結ぶ橋が実は3本しかない。クアラ・クライという街では今だに船での行き来が主流になっているのだが、クランタンの主要な街の間にしか橋がないのだ。

 実はクランタンは13世紀ごろに王国ができた。その頃から18世紀後半までは川を隔てて2つの王国があった。西側は主に現在のタイ南部のパタニ王国が支配し、東側はトレンガヌ王国が牛耳っていた。これを統一したのがロン・ユヌスというスルタンで、一つの王国として今に至っている。

 橋は近代になって作られており、それまではこの川はやはり船での往来だったのだろう。他の東南アジアの王国と同じようにクランタンのほぼ真ん中に流れるこの川を支配することで、王国が保たれていた。

タナメラ付近の橋から眺めるクランタン川


 少し話は逸れるが、道路という概念は実は近代の産物で、クランタンは20世紀始めまでほとんど道路がなかった。現在は村の隅々まで舗装道路が敷かれているが、今ある道路はここ100年ほどなのだ。それも当初はコタバルの一部にしかなかった。

 さて、バスはパシール・マスから大きくうねった川を渡り、東側にコタバルへ。ここからは30分もかからないのだが、バスはなぜかもたつく。いろんなところに停まって乗客を下ろすのと渋滞に巻き込まれた。コタバルの南にある「ワカフ・チェイエ」というところを過ぎ、やっとイオン・コタバル裏のバスターミナルに着いたのは午後7時半過ぎ。40分以上遅れて出発し、午後6時27分には到着する予定が、やはり1時間はオーバーした。40分遅れていなければ、7時前には着いたであろう。

 バスはコタバルが終点ではないらしく、さらに乗客を乗せて走り去っていった。雨の中、もしかすると国境沿いまで走っていったのかもしれない。

 8時間あまりのバス旅行はこれで終わった。



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