マレーシアの空港と航空会社の誕生
マレーシアの格安航空エアアジアが安価な航空券を販売するのに成功してから、アジア各地で格安航空が増えました。新型コロナのパンデミック以前は世界中どこへでも誰でも行けるようになり、飛行機が日常生活の中で身近なものになったことは否めないでしょう。それでは、マレー半島にはいつごろから空港と航空機が姿を現し、どのように展開されてきたのでしょうか。
戦前は欧州から片道2週間かかった!
米国のライト兄弟が1903年に有人飛行に成功した後、欧米を中心に航空機の開発が盛んになりました。
航空機は植民地宗主国にとって植民地との間の重要な連絡手段となっていきました。英国は1918年4月に英国王立空軍(RAF)を設立し、長距離飛行の開発に力を注ぎます。1924年には英国の複数の航空会社を合併し、インペリアル航空(IA)が創設。当時の英国は主要な植民地としてインド、南アフリカ、豪州を支配し、これを空路でつなぐ構想を立てましたが、簡単には進まなかったようです。
一方、インドネシアの宗主国オランダは1919年に王立オランダ航空(KLM)を創設。世界最古の航空会社の一つであるKLMは、1924年10月にアムステルダム~バタビア(現在のジャカルタ)便を就航させます。当時は燃料の問題で中東とインドを通ってラングーン(現在のミャンマー・ヤンゴン)、バンコク、シンガポール、スマトラ島のメダンとパレンバンなど17カ所を経てバタビアに到着。所要日数は約2週間を要しました。この路線が東南アジアに入った初めての商業路線なのですが、マレー半島にはまだ空港がなかったため経由地には入っていませんでした。
長距離飛行に出遅れた英国のIAは1927年になってやっとロンドン~バスラ(イラク)便を開通させます。1933年にシンガポール便、翌年に豪州便が就航しました。経由地は15カ所以上にも上り、最終目的地までは今では驚くほどの日数に達しました。この頃までにはクダ州アロー・スターに空港ができていたため、ここが経由地として入っていました。現代から考えると恐ろしく所要時間が長く、経由地も多いのに驚きます。
ちなみに、1920年代にはシンガポールや他の都市で水上飛行機はすでに利用されていました。ただ、陸地の空港はなかったので、通常の航空機の乗り入れは遅れていました。
1930年代以降に空路が盛んに
マレー半島での空港建設はシンガポールを除き、最も早かったのは、意外にも、1920年代後半に建設されたペラ州のタイピン空港だったようです。この空港には終戦直前の1945年8月12日にのちのインドネシアのスカルノ大統領とハッタ副大統領らが立ち寄っています。2人はインドネシア独立協議のため、日本軍の山下奉文陸軍大将の招きでベトナムを訪問。インドネシアへの帰国時に同空港で地元のマレー人民族主義者らと会談した歴史が残っています。
一方で、1934年末までにマレー半島では20カ所以上に空港が建設されました。大規模な空港はアロースター、ペナン、タイピン、シンガポールが挙げられますが、クアラルンプールやクラン、セレンバンなどでは小規模な空港ができました。
クアラルンプール空港はマレー連合州首都でIAの経由地として期待されていました。しかし、空港周辺の天候や滑走路の問題があったために利用されませんでした。同空港は、37年に設立された豪州系の航空会社がシンガポール~ペナンとの往復便の経由地として利用されたものの、本格的な国際空港化は戦後になります。ちなみに、現在のクアラルンプール国際空港(KLIA)は1998年にオープン。1965年から使用されていたスバン空港の代替空港として利用され始めました。
なお、あまり知られていませんが、このスバン空港の近くでは羽田発香港・クアラルンプール経由シンガポール行きの日本航空715便が1977年9月27日に墜落事故が発生し、乗客乗員79人中34人が死亡しています。着陸時に機長が滑走路を目視確認せず、最低降下高度以下で飛んでいたことが原因で、当時は天候悪化で視界不良だったことも祟ったようです。
マレーシア国内では現在、軍用も含めて62か所に空港があります。マレー半島には24か所の空港がある一方で、陸路での移動が難しい東マレーシアでは大小38か所に設置。特に国内最大の面積を誇るサラワク州のみで24か所あり、庶民の交通手段となっています。逆に空港がない州はペルリス州とヌグリ・スンビラン州で、隣の州の空港が近いために建設されていないようです。
国名と連動して名称も変わったマレーシア航空
それではマレーシアの航空会社を見てみましょう。
マレーシア航空の前身の会社は、1937年にまで遡ります。先に指摘したIAと英国の船会社によって「マラヤン・エアウェイズ」としてシンガポールで設立されたのが始まりです。しかし、設立はしたものの、商業化するには10年かかりました。1947年4月にシンガポールからクアラルンプールに就航したのがその始まりで、あくまでシンガポールを拠点とし、イポーやペナンへの路線をその後に就航させました。
そして、1963年にマレーシア連邦の結成に伴い、社名を「マレーシアン・エアウェイズ(MAL)」に変更。しかしながら、その2年後にシンガポールがマレーシアから追放離脱すると社名を再び変更。両国政府が株式を折半して「マレーシア-シンガポールエアラインズ(MSA)」が誕生します。
にもかかわらず、この航空会社は1972年には社名が再び変わります。マレーシア政府は国内便の路線拡大に力を入れる方針があった一方で、シンガポール政府は小国であることから国際線の就航を強く求めました。この両国政府の経営方針の違いで、会社の分裂にまで至ります。その結果、誕生したのが、現在の「マレーシア航空」と「シンガポール航空」なのです。
マレーシア航空は順調に就航路線を広げていましたが、1997年のアジア通貨危機には多額の損失を出し、2001~2002年にかけても業績はよくなりませんでした。多くの路線を廃止し、その後は何とか生き残ってきました。2011年には過去最大の約25億リンギの損失を計上し、経営合理化を図ります。売上はその後に徐々に回復していきましたが、会社の最大の危機を襲ったのは2014年です。
この年の3月に北京行きの370便(乗員乗客239人)が行方不明になり、いまもってわかりません。さらに、同年7月にはアムステルダム行きの17便(同298人)がウクライナ上空でミサイルで撃墜されるという前代未聞の事件が発生。多数の乗客乗員が死亡し、航空機2機も消えるという事態に陥りました。
そして、新型コロナのパンデミックを迎え、マレーシア航空は新たな試練に耐えています。
マレーシア航空のほかにも国内にはいくつかの航空会社があります。
政府系企業DRB-Hicomが1993年設立したのがエアアジアです。その3年後から運航を開始しましたが、会社は負債が膨らみ1000万リンギを超過。そこで助け舟として出てきたのが、エンターテイメント会社ワーナー・ミュージックの経営幹部だった、現在の最高経営責任者(CEO)のトニー・フェルナンデス氏。わずか1リンギでエアアジアを買収。以後は国内や周辺諸国への路線を野心的に拡大していきました。アジア近隣諸国に野心的に路線を拡大し、一時期は欧米にも飛ばしていました。日本にも「エア・アジア・ジャパン」を設立して、さらなる路線拡大を図りましたが、これは失敗したことは記憶に新しいところです。
また、マリンドエアーはインドネシアのライオンエアと共同で2013年に設立された航空会社です。格安航空との謳い文句ですが、エアアジアとはまた一味違ったサービスで、運航していますが、新型コロナの感染拡大に伴い、大幅な人員削減を打ち出し、こちらも苦境に陥っています。
このほか、マレーシア航空の子会社であるファイヤーフライや東マレーシアのみ運航するMASウィングが定期的に飛んでいます。チャーター便の航空会社はブルジャヤ・エアやサバ・エアといったものもあります。
新型コロナのパンデミックでいずれの航空会社も瀕死状態となっています。しかし、人々が国を越えていろんなところに行きたいという欲望はパンデミック後も消えることはないでしょう。いくつかの航空会社は破綻するかもしれませんが、空の旅は今後もなくなることはありません。ただ、どうやって集客し、安全確保で旅を提供できるかの一点に今後は集中していくことになるでしょう。もしかすると、空の旅の仕方も変わっていくかもしれません。
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