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マレー半島の道路敷設は近代からだった

 ほかの発展途上国と比べると、マレーシアの道路はどこもかしこもきれいに舗装され、よく行き届いると感じます。また、鉄道については逆にあまり発達していません。今回はマレー半島で陸路交通網がどのように発展していったのかをご紹介します。

19世紀以前には道路はほぼ皆無
 東南アジアでは古来、多くの王国が各地にできていましたが、そのほとんどは河口付近に建国されました。マレー半島でも例外ではありません。古い町や村は海岸沿いや河川沿いにでき、水路が通じていない内陸にはほとんど町村は存在していませんでした。

 河口付近の王国や川や海沿いに町村が発達した理由は、内陸にジャングルや沼地が多かったためです。15世紀のマラッカ王国でさえも王宮から500メートルほど行ったところは沼地で、その先はジャングルに覆われていたようです。道路を敷設するにはジャングルを切り開き、大変な労力が必要です。重機を使う現代でさえもジャングルを開拓して道を造るには相当の労力と時間が必要なことを考えると、人口の少なかった当時、道路が発展しなかったのも納得するでしょう。このため、当時の交通手段は水路を使った船が主に使われていたのです。王国の支配勢力も船が行けるところを中心として拡大したのでした。

 ただ、かろうじてゾウと人間による荷物の運搬が行われていたようですが、これは主に貴族や地域の有力者のみが利用していました。輸送量にも制限があり、時間もかかることからあまり頻繁に利用されてはいませんでした。

道路の本格的な建設はスズ鉱山のため
 19世紀中ごろになると、ペラ州やスランゴール州でスズが多く発見されていきます。発見された地域は主に川の沿岸でした。欧州でスズの需要が高まったため、英国人らはマレー半島でのスズ発掘に力を入れ始めます。川を通じて中国人労働者や機械を送り込んで発掘を進めていきました。しかし、川沿いだけでは埋蔵量にも限界があったことから、さらなる埋蔵地を求めて道路を作り始めたのです。道路の敷設で内陸でのスズ埋蔵地の発掘をさらに可能にしたのです。

 英国政府は1874年以降にマレー半島を本格的に植民地化すると同時にスズ鉱山開発を大規模に進めていきます。道路整備も各地で行い、徐々にスズ鉱山と町、町から輸出するための港などの間に敷かれていきました。これにより、スズの運搬と同時に植民地支配と管理のためにも交通網が発達していったのです。

 道路が敷設されると当然交通手段も19世紀以前にはみられない手段が取られます。まず、馬やポニーが豪州やスマトラ島から運ばれました。インドやタイからは牛車が導入され、主に短距離の運搬に使用されていたようです。牛車はスズの運搬のほか、ゴミの回収にも使用されていました。また、タクシー代わりとして1880年代には上海を経由して日本製の人力車もマレー半島に登場。主にペナンなどの街中を走り、中国人が引いていました。19世紀にはそれまでの風景が一変したと言っていいでしょう。

 さらに、道路ができたことで人口移動も容易になりました。それまでジャングルのなかの村などを中心に農業を営んでいたマレー人らは道路を伝ってクアラルンプールやイポー、タイピンといった都市に移動。マレー人や中国人らが同じ空間に共存する現在の複合民族社会の土台を道路は作り上げていったのです。道路は各地にでき、交通の要衝には宿泊施設もでき始め、マレー半島西海岸側は経済的、社会的に大きく変容していきました。日本では各地に街道が古来から発達していましたが、マレー半島では近代以降からだったのです。

鉄道の導入で
 道路が各地にできたにもかかわらず、支配する植民地政府を悩ましたのが天候でした。雨季に入ると道路は泥土化し、スズの運搬にも悪影響が出たのです。道路補修には費用も時間がかかるため、スムーズに輸送するために導入されたのが鉄道でした。

 マレー半島で最初に鉄道が導入されたのは、1885年のタイピン~ポート・ウェルド(現在のペラ州クアラ・スパタン)間です。その後はクアラルンプール~クラン、ヌゲリ・スンビラン州スレンバン~ポートディクソンの区間が次々に線路でつながりました。1909年までにはジョホールバル~ペナンの区間が接続。1935年までにはシンガポールからバンコクまで列車が開通しました。

 鉄道敷設の主目的はスズやゴムの運搬でしたが、旅客輸送も始まり、1903年には年間利用者数は420万人に到達。これまで天候に左右されていた河川や道路とは違い、鉄道はいつでも利用できたほか、時刻表に沿って運行。マレー半島の人たちの間では、それまでよりも細かい時間の感覚も生まれ、遅刻の誕生という「副産物」もできあがったようです。
 
 さて、陸路交通網の整備はマレー半島の東西の海岸側で大きな経済格差をもたらしたことが現代にも響いています。西海岸は道路と鉄道の発展で経済が潤いましたが、クランタンやトレンガヌといった東海岸ではスズ鉱山がほとんどなかったため、道路や鉄道の整備が大幅に遅れ、経済発展も進まなかったのです。

 東海岸の都市間の道路は1915年までにパハン州の当時の州都クアラ・リピス~クアンタンが最初です。また、1931年になって初めてコタバル~クアラ・トレンガヌの区間の道路が開通。鉄道は第2次世界大戦直前の30年代に入ってやっと東西の両海岸が結ばれるようになりました。それまで東海岸の人たちは西海岸に行く場合、船でシンガポール経由で西海岸に向かっていたので、交通面で進歩したのですが、この遅れが今でも経済的な格差につながっているようです。

 現在では各地に高速道路もでき、クランタン州コタバル~クアラルンプールは高速バスで6~7時間で着くようになりました。戦前はシンガポール経由で2週間かかっていたので、かなり進歩したといっていいでしょう。また、近年マレーシア政府はコタバルからクアラルンプールまで東海岸鉄道(ECRL)の敷設を試みています。668キロにのぼる路線で、両都市がつながると片道4時間で行くことができるようになります。小さな街も結んでいくようになり、人口の移動も発生して、さらに風景が変わっていくかもしれません。

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