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マレー半島東海岸でイスラーム色が強いわけ

 マレー半島東海岸は「イスラーム色が強い」ことで有名です。西海岸のイスラーム教徒も戸惑ってしまう人もいるくらいなのです。それではなぜ東海岸では「イスラーム色」が強いのか。歴史的な観点から探ってみました。

イスラーム色が強いということは?
 そもそも「イスラーム色が強い」とは何をもってそう言えるのでしょうか。おそらく日本人からみれば、「アルコール類をスーパーなどで売っていない」、「映画館がない」、「スーパーなどのレジが男女別」などが挙げられるかもしれません。
 確かにマレーシア国内の他州と比べても西海岸のイスラーム教徒が戸惑ってしまう習慣も多く、これをもって「イスラーム色が強い」と言うのかしれません。しかし、当のクランタン人やトレンガヌ人からみるとこの習慣はいたって普通であり、彼らから他州を見ると、彼らのほうが異常に見えているのかもしれません。

地理的に分断されていた東海岸
 それでは、東海岸で「イスラーム色が強い」理由はどこにあるのでしょうか。
 私が調べた限りでは、あまりこのあたりに答えている研究者はいません。歴史的な観点からみると、おそらく地理的な要因が最も大きいと考えられます。
 東南アジア全体で言えることですが、近代以前までは交通手段といえば船。川や海が中心の社会でしたが、クランタンやトレンガヌは東シナ海に接しているだけで、マレー半島西海岸と直接川でつながっていません。マレー半島の中央には南北にティティワンサ山脈が走り、これが歴史的に東西の交通を妨げる要因となっていました。
 川はこの山脈を源流に東西に流れています。クランタンやトレンガヌの川はほとんど州内だけを流れています。このため、西海岸からクランタンやトレンガヌに川で入ることは難しく、かつジャングルが多いために陸路で来るのも容易ではなかったのです。
 マレー半島を横断するには相当の労力がいりました。19世紀にイタリア人が横断を試みましたが、ジャングルのなかで命を落としています。インド方面からクランタンに来るにはその昔、ビルマからバンコクを陸路で訪れ、そこから船で南下するか、ペナンやシンガポールを経由してマレー半島を一周して到達するかの2通りだったのです。いずれも所要日数は2週間以上。少数の中国人は少なくとも17世紀までにはクランタン南部の金鉱床で町を作って採掘していましたが、彼らは東シナ海を通って直接船で比較的容易に来ることができました。
 マレー半島の横断が大変だったことから古来からマレー半島で最も幅が狭いクラ地峡(現在のタイ南部)に運河を作る計画があったのはこのためでした。西から来るヨーロッパ人やインド人にとって東海岸には簡単に来れるルートではありませんでした。キリスト教の布教が東海岸ではあまり広がらなかったのもこのためで、イスラーム教が深くゆっくりと社会に浸透する時間を与えたのでした。
 2番目は東海岸、特にクランタンでは産業が今も昔も農業以外ほとんど発展しなかったことも関係するでしょう。クランタンは古来から農業が中心の王国。コメなどの農作物やゴム、椰子の実などを現在は生産していますが、その昔もコメや胡椒、タバコなどに限られていました。クランタン南部には今でも金鉱床があるのは有名ですが、深いジャングルのなかにあり、今でさえも開発は容易ではありません。黄金に目をつけた英国系採掘業者が20世紀に入って採掘を始めましたが、「黄金の枯渇」が理由で農業関連に事業転換しています。農業しか産業がほとんどないということは自給自足が可能で、外からの人手はほとんど必要としなかったのです。これは言い換えれば、外部の人との交わりがほとんどなくても営めたといってもいいでしょう。
 このため、クランタンでは社会構造の変化が過去にほとんど発生しなかったのではないでしょうか。西海岸ではスズやゴムが大量に採取できたため、道路や鉄道といった交通手段も大きく発達しました。さらに、人手を多く要したために「外国」から大量に人を連れてきて、西海岸の人口増加と社会構造の変革が19世紀以降に起きたのでした。その結果が現在の姿です。この変容は宗教や文化にも大きな影響を与えたのですが、一方で東海岸ではこの社会変容をほとんど経験していません。ほとんどが農民で外部の人間が住む余地がないことから宗教も文化もほとんど外部から影響を受けずに至っているのです。現在クランタンとトレンガヌの民族比率をみると、ともに約95%がイスラーム教徒のマレー人。これは他州と比べても社会的に多様化がほとんどなされなかったことを意味しています。

タイ南部との関係も要因の一つ
 さらに、付随的に考えますと、イスラーム教徒が多く住むタイ南部の影響もあるのではないでしょうか。タイ南部のパタニとクランタンは歴史的にスルタン王族同士の婚姻やパタニから統治者が送られてくるなど歴史的に密接な関係がありました。
 また、パタニ王国(1452~1902)は仏教のシャム(タイの旧名)から建国後から何度も攻撃を受け続けてきました。攻撃を受けると王族や民衆はクランタンや遠くトレンガヌにまで逃げ込み、またクランタンやトレンガヌからは軍を派遣してパタニ王国を支援することもあり、仏教国から身を守るために東海岸側では結束が強かった歴史があります。
 しかし、クランタンやトレンガヌなどシャム(タイの旧名)に国境を接した王国がシャムの統治から切り離されたのは1909年。クランタン人からみると目の前で国境が引かれ、歴史的に分断されたのでした。クランタン人は今でもタイ南部に多くの親戚や友人がおり、毎日のように行き来します。
 タイ南部は長く虐げられてきた歴史として東海岸の人々の心に刻み込まれ、イスラーム教をアイデンティティーとしたタイ南部の独立運動がなくなったわけではありません。クランタン人は表立って独立運動を支持しているわけではありませんが、心情的には同情を寄せているのではないでしょうか。それは歴史と宗教的なつながりの共有度が高いためでしょう。なかでもイスラーム教は東海岸の人たちにとってアイデンティティーそのものであり、パタニとともに数百年の歴史のなかでイスラーム教は確固たる社会生活の土台となったのです。

独立とともに強くなっていった
 とは言っても、東海岸では社会変容を根本から変える脅威がほとんどなかったため、戦前まではイスラーム教の教えが現在のように徹底はされていなかったようです。20世紀にクランタンを訪れたヨーロッパ人がルーズなイスラーム教徒を指摘もしています。
 しかし、1957年のマラヤ連邦の独立はクランタン人の意識は変えたといっていいでしょう。
 王国が正式に州となって西海岸と「同じ国」になり、他州との接触が増え、異教徒で市民権を得た中国人やインド人がマラヤ連邦に加わって、少しづつですが東海岸に流れ込んでもしてきました。また、政治的にも連邦政府の指示もあり、一部は従えないこともあったのでしょう。これらは東海岸の人にとって社会的な脅威を感じてきたのではないでしょうか。
 そのなかで自分たちのアイデンティティーを守っていくには、イスラームの教えをひたすら守っていくことがアイデンティティー維持のほぼ唯一の方法だったのでしょう。
 1959年に行われた初めてのクランタン州議会選挙の結果がそれを物語っています。全30議席中28議席はイスラーム教を前面に押し出した全マラヤ・イスラーム党(PMIP)(PAS前身)が議席を獲得したことは、有権者がイスラームに心の拠り所を置いている証でありました。PASはマレー人アイデンティティーへのアピールというより、イスラームに依拠した政党であり、イスラーム国家の建設を党是としています。クランタン州のPASは1977年から90年までは州議会野党に転じたものの、PAS勢力がクランタンとトレンガヌでいまだに強いのはイスラームを拠り所として生きていくという人々の決意でもあるのでしょう。
 いずれにしても、東海岸側は今後もイスラーム色が薄まることはなく、3月前半に成立した連邦政府の新内閣でPASも入閣しており、各州政府はそれに沿った施策を今後も取っていくことになるでしょう。
 
(写真:クランタン州コタバル市内のスーパーのレジ。女性、男性、家族向けと絵で書かれている。男性は家族向けのところには行けるが、どんなに混んでいても女性向けレジには行けない。)


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