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言語がわからない人への配慮

 「ある言語ができない人がいる」という状況はどこでも起こりえますが、そういった人に対して配慮は必要です。

 この状況というのは、なかなか日本では発生しにくいのですが、多民族社会のマレーシアでは頻繁に起こります。複数で同時に会うと何語で話すかということがまず問題になります。

 マレーシアではマレー人、華人、インド人などが住んでいますが、この三者が会うと必然的に英語かマレー語になります。これはごく自然で、マレー人が英語が話せない場合は全員がマレー語で話します。この場合は言語が二者選択なのでまだラクなのです。

 実は、厄介なのは華人どうしなのです。

 華人の教育背景は実にさまざまで、それによって言葉が変わるからです。

 まず、華人の多くはマレーシアでは華人系公立学校に行きます。ここでだと北京語が教授言語になるため、ここにいった人たちは北京語を話します。一方で、貧しい華人の場合、マレー系公立学校に行く人も結構います。この場合、学校ではマレー語が教授言語になるため、家庭で北京語を話さない限り、北京語はできないということになります。クアラルンプールだとこういう家庭に限って「家では広東語」というところが多い上、漢字の練習はしないので、華人であっても漢字が読めないという人が案外多い。華人だから必ずしも「北京語ができる」というわけではないのです。
 
 これが別の地域、マラッカ州やペナン州だと華人はたいがい北京語はできますが、一方でクアラルンプールで通じる広東語は話せない人もいる。ペナン州の華人は基本的に福建語で話すのですが、これはクアラルンプールでは通じません。

 さらに、華人で英語の学校に行く人たちも多く、この人たちは英語はとても流暢ですが、マレー語はほとんど話せない。北京語や広東語などは家庭では話したりするので話せるものの、人によってはやはり漢字が書けない読めない人もいます。

 つまり、初めて会った華人どうしで会話になると、まずどの言語でお互い話すのかという「問題」が出てくるのです。これが非常に面倒なのです。

 僕は複数言語話しますが、華人と話すときは、まずどの言語で話すかという推測をします。クアラルンプールだとたいがい華人は広東語を話すので、広東語で話しかけるのですが、返答が北京語になることも多い。その場合、「相手は広東語をあまり話せないんだな」と判断し、北京語に切り替えます。これは僕だけではなく、ローカルの華人もやっている「作業」です。

 この「作業」は実はストレスが溜まるのです。北京語と広東語では発音が異なり、のどや舌の使い方を変えないといけないので、それぞれその使い方で話していかないといけません。頭の中だけでなく、口の筋肉も変えないといけないので面倒。突然言語を変えるのはこの筋肉の使い方を変えるということなのです。

 北京語と広東語でもこんな感じなので、さらに相手が英語を話した場合も同様。言語の筋肉の使い方は習えば身につくものですが、それでも複数言語を人によって日常的に切り替えていくと結構疲れるのです。最近は慣れてきましたが、今住んでいるところではさらにタイ語を使うので、当初は頭の中が固まってしまいました。

 華人の多くは会話の最初の一言二言で相手の言語に合わせていきますが、実はずいぶん会話が進んでからいきなり言語を変える人もいます。これは今持ってなぜこうなるのか謎ですが、広東語で会話を10分以上していて突然相手が北京語に変えるということも起こります。会議だと最初に話していた言語と最後に話している言語が全然違うということもあるのです。

 華人どうしの会話を見ていると、一方が広東語、他方が北京語で話している状況もよく接します。また、会話の一部だけが英語になったりするケースも多い。それでもお互いは理解できているようなのですが、会話の中に北京語が出来ない人が入ってきたりすると、この2人は途端にその人がわかる言語に切り替えます。これってマレーシア華人のすごいところなんです。相手のできる言語に合わせる配慮をするからです。

 もちろん言語を切り替えないと物理的に会話が成り立たないのですが、これが、例えば、タイやインドネシアの華人だと、こうはいきません。誰かが言語の問題で会話についていけなくなってしまい、誰かがあとで通訳して理解してもらうようにしますが、マレーシアの華人はほとんどこういったケースは見られません。

 マレーシアは多民族社会で、おおらかで寛容な人が多い。宗教や文化がさまざま織り混ざっているためです。また、民族によって食べ物の制約も多い社会なので、こういった環境のなかで自然に相手の制約を知って配慮していっているのでしょう。それが言葉の面でも生かされているのだと思います。

 本当の人間のコミュニケーションの理想は、誰もが言語を変えずに自分の言語を話し、誰もが理解できる社会になること。これはとても難しいことですが、マレーシアの華人社会では可能な気がします。

 


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