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出浦昌相

大河ドラマ「真田丸」の中で、真田家に仕える忍者として登場する出浦昌相。実在の人物です。

元は、真田家と同じ、武田信玄に仕えていました。武田信玄は、「三ツ者」という隠密集団を組織していました。甲州透破、甲州忍者、とも呼ばれていました。

三ツ者は、僧侶や商人など、さまざまな姿になって情報収集を行い、その情報は逐一、信玄の元に届けられました。最盛期には200人を超える大規模な集団にまで発展したそうです。出浦昌相は、その集団を率いる存在でした。そして、武田家は滅亡。その後、織田信長の家臣、森蘭丸の兄、森長可に仕えましたが、本能寺の変の後、真田昌幸に仕えることとなりました。その時には、吾妻忍び衆を統率しました。史実では、関ヶ原の戦いの後、真田幸村の兄、信之に仕え、群馬にて78歳まで生きたそうです。

忍びなので、表だって活躍したという史料はあまり残されていないようなのですが、武田家や真田家の裏で動いていたことは確実のようです。

出浦昌相は、先に真田家に仕えていた忍者、佐助を育てていきます。佐助は、真田十勇士の中に登場する甲賀忍者、猿飛佐助をモデルにしているのかと思っていたのですが、ちょっと違うようですね。忍者として修行を積んできたのではなく、農家の出身で、木登りが得意だったり、走るのが速かったり、子どもの頃から身体能力が高かった人を忍者と呼んでいたという解釈で、佐助は描かれているようです。そして、出浦昌相によって、忍者としての技術を高めていくことになります。ちなみに出浦昌相は、真田十勇士の登場人物、霧隠才蔵のモデルになったのでは・・・という説があるようです。

現代と違い、電話もない時代。情報をどれだけ早くつかめるかが、戦国の世を生き延びる鍵となるので、忍びという存在は大名たちにとって大切な存在でした。

徳川家康に仕えていたのは、伊賀忍者の服部半蔵。これは有名ですね。当時の江戸城、現在の皇居には、半蔵門という、服部半蔵から名前をとった建物があります。服部半蔵が、いかに家康から信頼されていたのかが伺えます。

真田丸に登場する忍者たちは、忍者と聞いてイメージするような、黒装束にほっかむり・・といった姿をしていません。いわゆる忍者のイメージというのは、江戸時代から現代にかけて、だんだんと作られてきたフィクションのようです。十字や星のような形の手裏剣も、実用に適していない形らしく、実際には棒状だったそうです。

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