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私がSNS講習で選手に話していること

昨年あたりからまた「選手向けのSNS講習をお願いしたい」「アカデミーの子どもたちに向けてSNSの講習をやってもらえないか」という依頼が増えている。私は現在特定クラブの一スタッフでしかないうえ、子育て中ということもあり余裕がなく、全くそういった募集も営業もしていないにも関わらず相談は増える一方である。

おそらくその理由は2つあって、1つは選手が発端となる炎上案件が増えていること。もう1つは選手や監督が誹謗中傷に晒され、それによりパフォーマンスに支障が出たり、日常生活に影響が出るケースが増えているからだ。

昨日もこんな記事がNHKニュースに掲載され、話題になっていた。

最初に前提をお話ししておくと、プロのアスリートは一般人の我々より数段「批判慣れ」している。ほとんどの選手は子どもの頃から周囲の期待を背負って注目を浴び続けてきているので、赤の他人にやいやい言われることには免疫があるのだ。

昨今、サポーターの間でもブーイングの是非が問われることが多いが、「ブーイングされるとむしろ燃えますね」なんていう選手も少なくない。

しかし、そんな彼らをもってしても、SNSに寄せられる辛辣な批判には耐えかねることがあるようだ。私も時折相談を受けることがあるのだが、日常生活やプレーに支障が出てしまっているようなケースも見受けられる。これは決して彼らのメンタルが弱いからではない。そう言い切れるのは、私自身がSNSの利用者として炎上の渦中に身を置いたことがあり、またクラブの内側に身を置いて、マーケティング部門の責任者として、クラブや選手に寄せられる批判の嵐(文字通りの「嵐」である)を実際に体感してきたからである。

無防備にこれらの批判の嵐に身を置いて矢面に立たされれば、平常運転できる人のほうが圧倒的に少ないだろう。

昔からプロスポーツチームの選手や監督といった立場の人たちは、結果が出ないと激しい批判に晒されてきたが、メディアというフィルタを介した批判とフィルタを介さない生の顧客の声というのは、まったく性質が異なるものである。この時代背景の違いを考慮せず「最近の若者はメンタルが弱い」だの「プロなんだから批判も糧にするべき」だのと言ってしまうのは、いささか乱暴なのではないかと思う。

「誹謗中傷はやめましょう」では解決できない

ところで、昨今のこのアスリートを取り巻く過酷な環境について、ありがたいことにファン・サポーター側から自発的に「誹謗中傷はやめましょう」という呼びかけがされることがある。これは本当にありがたいことである。こういった呼びかけを見ると、救われたような気持ちになる。

しかしながら、こういった呼びかけで問題が根本解決される可能性は低い。なぜならSNSにおける誹謗中傷問題は、発信の内容そのものよりもその数のほうが深刻な影響を与えることが多いからだ。例えるなら、イナゴ1匹を怖がる人はいなくとも、イナゴの大群が襲ってきたら恐怖を覚えるようなものである。

これについてはたびたびX(ツイッター)でも言及しているが、以前にけんすうさんがnoteにまとめてくれたので、詳しくはそちらをお読みになっていただきたい。

これを読めば、言う側にとっては「正当な批判」であっても、受け手側が深刻なダメージを受けないわけではない、ということがお分かりいただけるだろう。

むしろ私はことスポーツ領域においては、子どもじみた誹謗中傷よりも、正当な批判が雨あられのように降ってくるほうが、まったく反論の余地がないという点において当事者に与えるダメージが大きいと思っている。

ではファン・サポーターに「批判を一切やめていただきたい」と我々や選手がお願いできるかというと、それはナンセンスだ。スポーツを含むエンタメ産業というのは、そもそも人の感情を動かすことで成り立つ産業だからだ。その感情は必ずしもプラスばかりではなくマイナスの場合もある。プラスはいいけどマイナスの感情を出すのはやめてね、というのはあまりにも虫の良い話だろう。実際、この業界で働く大半の関係者は、そういった毀誉褒貶はあって当然のことだと受け止めていると思う。

では、矢面に立つ受け手側(選手や監督)はどうすればいいか。

私も散々試行錯誤をしてきたけれども、2024年の現段階で最も確実で効果が高いと思ったのは、そもそもこういった投稿を「見ない」ということに尽きる。これが一番シンプルで確実性が高い。

逆にこれらの批判をあえてエゴサーチして糧にするというのは、相当鋼メンタルであってもやらないほうが良いと思う。なぜなら、一度見てしまったものは消えず、その消えなかった記憶は、チリツモでどんどんと積み上がっていき、そのうち消えない「何か」に変わってしまうことがあるからだ。

本当の問題は「傷つくこと」ではなく「怒りを生むこと」

SNSにおける選手に対する批判や誹謗中傷は何が問題なのか、多くの人は「選手が傷つくから」やめたほうが良いと思われているのではないだろうか。私もずっとそう思っていた。

しかし、実際に起こった様々な事案で当事者と対話をしていくと、そうではないということがわかる。批判を受ける側が感じるのは、悲しみというよりは「怒り(+恐怖)」なのである。

言うまでもなく、多くの選手は毎日死に物狂いで競技に向き合っている。もちろん全員が大谷翔平レベルにストイックというわけではないが、プロとして活躍している選手の大多数は、やりたいことを我慢したり食べたいものを我慢したりしながら、試合で活躍するための準備をしている。それは選手当人だけではなく、家族(パートナーや子どもたち)も巻き込んでのことである。

にも関わらず、どこの誰だかもわからないような人に「いらない」「やめちまえ」みたいな暴言を吐かれたり、その競技を極めたわけでもない人に謎の「俺理論」を上から目線で押し付けられたりする。逆の立場に立って見ればわかると思うのだが、傷つくより「なんでこんな何も知らない人に、ここまで言われないといけないの?」と、表には出さずとも腹立たしい気持ちになる人が多いのではないだろうか。

この怒りが特定個人のみに向くならば良いけれども、不特定多数からちょっとずつ批判的な言葉を投げかけ続けられると、だんだんとそのクラブのサポーターとか地域といったざっくりとしたくくりで悪感情が募っていく。結果、「なんだかこのチーム(地域)は好きになれない」となるのだ。

これは本当に残念なことである。大半のサポーターは温かく、心から応援してくれているのに、ごく一部のネガティブな意見に気を取られてそれが見えなくなってしまうのだ。個人的には、こういった状況こそが最も避けなければならないことだと考えている。やはり選手も人間なので、プロフェッショナルといえども、ギリギリの極限のところでは「この人たちのために頑張ろう」と思えるかどうかが、ここ一番に火事場のクソ力を発揮してもらう上で大事になってくると思うからだ。

それをおそらく賢明なサポーターの方々は理解していて、だからこそ「SNSでネガティブなことを言うのはやめよう」と呼びかけてくださっているのだと思う。しかし私はあえて選手の方に言いたい。「見るな」と。影響を受ける可能性が1%でもあるならば、努力して見ないことも仕事のうちだよ、と。

ちなみに、批判や誹謗中傷を「見るな」ということは「SNSをやるな」ということとイコールではない。SNSを使いながらも、批判や誹謗中傷は「見ない」「(DM等を)受け取らない」ということは、設定や運用で実現できる。

ここまで読んで「なんだか面倒くさいな」「SNSなんかやらなければいいのでは」と感じた人も多いだろう。正直、私もそう思っている。しかし育成年代の選手はともかくとして、プロ選手に「SNSをやるな」というのはもはや全く現実的ではない。なぜならプロアスリートの価値というのは、単純に競技のスキルが高いとかそういうことでなく、競技を通して他者に影響力を発揮できるところにあるからだ。そしてその影響力の獲得と証明に、現代においてSNSは不可欠になっている。

「発信はするべきだが見てはいけない」というのは、SNSの本質、すなわち「コミュニケーション」を全否定するものだ。私もしばらくの間はどうにもこの考えが受け入れられなかった。双方向コミュニケーションこそがSNSの醍醐味であり、一方通行の「広告」との違いだと信じていたからだ。

しかしそのSNSの特性により良からぬことが起こってしまうようであれば、そんな「あるべき論」はいったん脇において、自分たちにとって最適な活用スタイルを模索していくべきなのではないだろうか。

誹謗中傷問題は、「やられる方ではなくやる方が悪い」とか、やられる方が制限を受けるのはおかしいとか、いろんな議論がある。確かにそれはそうなのだが、アスリートの場合はそういった余計なことに時間を費やしていられるほど現役生活は長くない。

限られた、輝ける時間に、全集中してもらいたい。それが許されるのは、選ばれた人たちだけだから。

私が願うのは、ただそれだけである。

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