「可愛いもの」と私

可愛いものを可愛いと素直に思ったり手に取ったりできるようになりたい。
「可愛い」にも色々あるけど、ここでいう可愛いとはいわゆるガーリーなもの、スカートやドレスにフリルやリボン、そういった類のもの。
誤解しないでほしいのだけど、これはよくある「普段ボーイッシュなファッションをしている子が本当は可愛いものに憧れている」みたいな話ではなくて。
まあ、それを話すにはまず私が今のファッションに至るまでの話をしていく必要があるだろうか。

まず、私は男性でも女性でもない、無性別だ。
今の世の中風に言うなら、Xジェンダーというやつだと思う。

Xジェンダーにも色々あって、男女どちらでもなかったり、中間にいたり、男寄りの日と女寄りの日があったりと様々らしいのだが、自分がどれにあたるのかは実ははっきりしていない。
ただ、女性だとも男性だとも思っていないし、どちらにもなりたくない。なれない。
別にはっきりさせる必要もないと思っている。

そんな私だけど、私の声を聞いたことのある人ならわかるだろうが、まず無性別として扱ってもらえることは少ない。
大抵の場合、私がなにも言わなくても、あるいは無性別だと明言していても、「で、本当のところ女性なんでしょ?」という感じで接されることがほとんどだ。
正直なところ、そういった反応を心底不愉快に思う反面、まあ致し方ないとも思っている。

せめて「少年」という立場をとっていたりとか、一人称が「僕」や「俺」であったなら、もう少しばかり声が低かったら、いくらか反応は変わったのかもしれないとも思うが、これに関しては私のなりと、この高くて細い声がそうさせていると思う。
でも私にとってはあくまでこれが自然体なので、それもまた仕方のない話だ。

ここで、私の好きなものの話なのだけれど。
私はもともと、かっこいいものも可愛いものも同じように好きだった。
先のとがった革靴も、シックなネクタイも、フリルのついたワンピースも、ブローチのついたリボンも同じように。それは今だって変わらない。

だけど、本当の意味で自分の好きなものを好きなように手に取ることができたことは、思えば一度もないかもしれない。

昔から、私が好きなものを思うままに手に取ると、周りじゅうがみんな怪訝な顔をするのだ。
普通にしているだけなのに、「そういうのはやめなさい」とたしなめられたこともある。
そういうの、というのは、私が男の子のように振る舞ったり、ほかの男の子に混ざって遊んだりすることだ。
それで言われるままに女の子のように振る舞ってみると、みんな「それでいいんだ」と言わんばかりに満足そうにするのだ。
不思議だった。どうしてほかの友達は普通にしていることを、私がやると怒られたり褒められたりするのだろう。

あるときふとわかった。ああ、私は「女の子」の側なんだ、と。
そんなことに気づくのに、十数年以上もかかった。

「正解」がわかってから、私は周りに望まれるようにあろうとした。
女の子の一人称を使って、女の子の服を着て、女の子の仕草を真似した。
まるで別の人間を演じているようだったが、いくらか生きやすくはなった。
違和感はあったけれど、別に女の子の服が嫌いというわけではなかった。
でも心の中ではずっと、男の子の側に憧れていた。

あのズボンや、短い髪、仕草、持ち物、それらを誰にも怪訝な顔をされることなく堂々と自分のものにできたら、どんなに素敵だろうと思った。
服屋や雑貨屋の男性もののコーナーに立ち入るのさえ、場違いな気がして恐ろしかった。
私がここにいては、またあの怪訝な目で見られるのではないかと思うと、近寄ることもできなかった。

それとは無関係な話だが、あるとき私は大きな病気をした。
身体ではなく心の病気だったが、命に関わるものであることに違いはなかった。
それを発症してから、あれよあれよと歩むはずだった道を外れて行き、転落し、ついには完全にレールを外れて戻れなくなった。
社会的な立場も、頼れる友人も、なにもなかった。
それからしばらくして、ふっ、と、何かが外れる感覚があった。
別にもう誰にどう思われようといいじゃないか、私は私の好きなものを身につけて好きなように振る舞おう。
そう思ってからは、これまで我慢していた反動のように男性ものの服を買い漁り、口調も振る舞いも少年のようになっていった。

やっと欲しかったものが手に入った。これからは自分らしく生きられるんだ。
そう思っていた。

いつの間にか、女性ものの服や持ち物を嫌悪して避けるようになっていた。
それに気づいたのはつい最近の話だ。
あれ?私って、もともと可愛いものとか好きじゃなかったっけ。

そうだ、思えばあの時なのだ。

社会のレールからはずれて、学校にも行けず仕事にもつけなくなって、焦って応募したなにかのアルバイト。スーツが必要になって、近くの店に買いに行ったときのことだ。
「私の身体に合うスーツをください」と言って、あてがわれたのが胸元の大きく開いた、ウエストの絞られたジャケットと、丈の短いスカートだった。
戸惑った。私がそれを着るように見えるのか?
混乱しながら、「いや、そうではないんです、スカートではなくパンツをください」と訴えると、その店員は、「いいえ、女性はスカートでないと印象が悪くなります。パンツはあっても良いですが、スカートは必ず一着持っておいたほうがよいかと」と食い下がった。
頭を強く殴られたみたいだった。
何も言えなくなっている私に、店員は「さあ」とその服を押し付け、試着室に押し込んだ。
どうやってその服を着たのか、あまりよく覚えていない。気づいたら、スカートを履いて鏡の前に立っていた。
「お似合いですよ」と店員が満足そうに笑った。
胸の中が冷たくなって、真っ直ぐに立てているのか、どうやって息を吸ったらいいのかわからなくなって、「あの、あの、私、もう結構です……」としどろもどろになりながら伝えて、急いで服を着替えて逃げるように店をあとにした。

惨めだった。恥ずかしくて、悲しくて、自分が馬鹿みたいだと思った。
男の子の服を着たくらいで、少し髪を短くしたくらいで、私は私らしくなれたと思っていた。

それからは、「男性のように見せること」により一層力を入れた。
とにかく女だと思われる要素を排除することに躍起になっていた。
男装は私にとって戦闘服だった。
女物の服をあてがわれること、女性として接されること、女性から同性のように思われること、それら全てが私にとって「敗北」であり、「屈辱」だったからだ。

あの頃と真逆だった。
私は「女だと思われたくない」ために、好きなものを遠ざけて、忌み嫌って、また自分とは別の人間を演じていた。

滑稽だ。結局私は「他人からどう見られるか」次第で自分を演出して、本当に好きなものを選べてなどいなかった。
Vtuberという世界で表現するようになってからもそうだ。
「私は中性的に見えているか?」「男にも女にも見えない、あるいは両方に見えるか?」をいつも気にしている。
声の出し方だってしょっちゅうわからなくなる。
自分の声や女々しい態度を嫌いになりそうになる。

私はいつも、誰かに「見られたい自分」を演出することに精一杯で、本当の自然体の自分がどこにいるのか、もう自分でもわからなくなってしまっているのではないか。

私は自分を誤解されることに耐えられないのだ。
女だと思われることも、男になりたがっていると思われることも、理解しているふうを装って実際には決めてかかられることも、嫌で嫌で仕方がないのだ。
誰にどう思われたっていい、これが自分なんだから、だなんて、今も昔も少しだって思えていないんだ。

私は可愛いものが好きだ。同じようにかっこいいものも好きだ。
女性っぽいからとか男性っぽいからとかではなくて、それを素敵だと思うから好きなのだし、なにを好きだってどう見られたって私は私のはずなのだ。

いつかこんなふうに他人の目を気にせず、自分が本当に好きだと思うものを好きなように選んで手に取ることができるようになるのだろうか。
本当の意味で、私らしい私になりたい。

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