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無思想という思想

会社幹部から社員に向けて、一斉メールが配信された。社長のブログが炎上しているらしい。社長が言わんとする意図と正当性の説明に加えて、外部から苦情や問い合わせを受けた際の問答集が添付されていた。

ブログは、環境保護団体のメンバーが告発のために取った行動が不法行為に当たるとして逮捕された件について、容疑者を擁護し、警察を批判する内容だった。あっという間に2ちゃんねるにスレッドが立ち、社長と会社に対する激しいバッシングが始まった。

私は腕組みをして、うーんと唸ってしまった。そして、幹部宛にメールを送信した。社長の主張は会社の主張、つまりは社員である私の主張でもあると受け止められることは心外である。社長が自らの主張を発信するのであれば、公器である会社のウェブサイトから切り離して個人として行えばいい。問答集に縛られることなく、私は自身の意見で対応する。会社の方針に背くため、何らかの処分を私に科していただきたい。

幹部から返信が来た。我々は創立時から環境保護団体の活動を支持している。社長には社会に貢献する使命があり、反応を恐れて自粛するべきではない。問答集に従えないのであれば、こういう風に対応すればよいのではないか。

そこには私バージョンの問答案が提示されていて、言葉を失った。問答集は会社による社員への思想統制ですよ、というのが私の指摘だったからである。環境保護団体の行動にも社長の主張にも、個人として理解できる点はある。しかし、たとえ私が賛同したとしても個人としての判断であり、思想統制は受け入れられない。

直属の上司から呼び出された。私は意見を述べ、ブログは社長の主張なのか、それとも会社の主張なのかと問い質すと、社長の主張だと上司は答えた。そして、我々は宗教ではないと言った。後日、問答集は撤回すると正式に発表された。

私のような抵抗は、同僚たちからは見られなかった。会社が掲げる理念に基づいた仕事をしようと集まった社員であり、思想を同じくするという暗黙の了解は安らぎさえ与えていたのだと思う。


ワン・イシューで考えを同じくする人は、他の課題でも考えを同じくする、と感じることはないだろうか。環境保護の意識が高い人は動物愛護、人権問題、原子力発電、沖縄米軍基地、安全保障、憲法改正、オーガニック、菜食主義、社会福祉、代替医療、購読新聞に至るまで、多くの分野で共通する傾向を持ち、思想をかたちづくり、party を形成していると私は感じる。他方、2ちゃんねるで攻撃した人たちも多くの共通点により思想と party をかたちづくっている。

この現象を私には当たり前のこととは思えない。なぜ、何もかも共通するのだろうか。

前者は、北欧諸国が先行する社会福祉国家モデルへの志向が強い。同時にスピリチュアリティとの親和性が高い。後者は、新自由主義とナショナリズム、科学的思考を重んじる傾向がある。あくまでも個人的所感である。

多様性を重んじるカウンターカルチャーに人が集い、思想となり、気がつくと回りまわって全体主義に行き着いてしまうとすれば、なんという皮肉だろう。

既存の体制を破って熱狂をもたらし、気がつけば独裁と思想統制で黙らせる。ヒトラー、スターリン、毛沢東。道半ばで斃れた人だけが英雄として記憶される。ケネディ、ガンジー、ゲバラ。

肯定と否定を繰り返し、思想はスパイラルを昇るように見えて、実はエッシャーの騙し絵階段を繰り返している。


幹部も上司も同僚も、思想という言葉でくくられることには強い抵抗があったと思う。偏りの固定とするそしりや差別を感じてしまうからだ。実際の行動を見てほしいと思っている。だからだろうか、価値観という言葉に置き換えている向きがある。

養老孟司に『無思想の発見』(ちくま新書、2005)という著作がある。「無思想という思想」について書かれていて、この言葉は我が意を得たりと腹に落ちた。無思想という思想。この8文字をビーフジャーキーのようにゆっくりと咀嚼して像を結ぶならば、もはやこの本を読む必要はない。

一見、矛盾した逆説的な言葉である。ヒトは思想から逃れられない。度し難い宿命として脳がそういうつくりにできている。よって、無思想であってもそれは思想である。だから気をつけなければならない。なぜなら、無思想も思想であるがゆえに統制は可能だからである。

なんとか無思想を維持しながら日々を送れないものだろうか。属さない。離れる。その態度が無思想という思想を健康に保つ道なのではないだろうか。さもなくば、飛び込んで清濁併せ呑み、淫することで身を保つしかない。

なぜあの時、私は抵抗したのか。美しさを感じなかったからである。私がいかに醜くとも、美しさは私を支え得る。

ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

鴨長明『方丈記』

ゆく河は、体外ではなく体内を流れている。変化を続けるのは、社会ではなく自らなのだ。朝、目覚めると私は新しいと知る。

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