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サンバイザーの家族写真

雪の日、喫茶店を見つけて駐車場に車を停めた。洋館の一軒家だった。エンジンを切り、外に出て、ドアを閉めた瞬間、鍵を車内に閉じ込めたことに気付いた。初めてのことでひどく狼狽した。JAFを呼ぶつもりはさらさらない。

喫茶店に入ると白を基調としたナチュラルなつくりで、夫婦と思しきふたりがカウンターの向こうにいた。恥ずかしながら、私は店の主人に車の鍵を閉じ込めてしまったことを伝えた。主人は車の鍵を取り出して私に渡した。「私の車で合鍵を取りに行けばいい」。

主人の車を借り、私は30分以上離れた自宅まで運転した。優しく降る雪、白く眩しい世界が自責の念を和らげてくれる。合鍵を持って、また喫茶店へと戻る。陽が射し始め、眩しいので運転席のサンバイザーを倒すと、一葉の写真が挟まっている。私は摘まみとって見た。

夫婦と小さな子どもがひとり、笑顔で写っている。

そうか。主人はある朝、買い出しに行く。信号が赤になり、交差点で停まる。サンバイザーを倒して妻と子を見る。信号が青になる。サンバイザーを戻してアクセルを踏む。白い世界、満ちてくる時間。

私は喫茶店に着いた。閉じ込めた鍵を車から回収し、店に入って鍵を返して礼を言った。キッシュとコーヒーを注文し、手づくりの木のテーブル席に着く。本棚から雑誌を抜き、テオ・アンゲロプロスのインタビューを読む。キッシュは濃厚で、とても美味しかった。

あらためて礼を言い、私は帰途についた。そして、自宅まで往復したガソリン代を払っていないことに気付いた。人として、社会性が全く身についておらず、鍵を閉じ込めたことよりも恥ずかしいことだった。




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