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逃走と解放

ビクトル・エリセ監督の映画『瞳をとじて』を鑑賞した。結論から言うと、残念だった。彼の描写と詩情が好きだった。物語への誘惑には抗し難かったのだろうか。期待が大きかったがために陳腐である印象は否めない。しかし、これでいいのだ。映画監督は私のために撮っているのではない。

それはともかく、ひとつの発見らしきものがあった。先に観た『PERFECT DAYS』と共通するのは、失踪した男の物語である。失踪とは第ニ者または三者の視点であり、本人にとっては脱出、逃走、解放である。

ラブロマンスもコメディーも、サスペンスもアクションも、すべての映画は逃走と解放の物語ではなかったか。だから人は映画館に行き、Netflixに登録するのではないだろうか。

真に満ち足りている人などいない。どこかで現状を打破し、解放されることを願っている。しかし自らを抑えて潜在化する。フィクションの世界に解放をゆだねる。

『めぐりあう時間たち』(2002年、アメリカ)という映画があった。ジュリアン・ムーア演じる女性には夫と息子がいて、傍目はためから見て幸せな家族である。しかし彼女に何かが芽生え、潜在が隆起し、家族から去ろうとする。幼い息子は母の隠された真意を感じ、泣き叫び追いすがる。

逃走も解放も、説明し難く理解し難い、言葉にできない動物的な勘である。逃走は刹那的な陶酔をもたらす。解き放たれる。しかし長くは続かずにむ。能動であったはずの解放が実は受動であり、自らを解き放つという新たな壁が立ちはだかる。

私は家から逃げ、解き放たれ、ひとりになれたことを心の底から喜んだ。解き放つエナジーはもう残っていなかった。2段、3段と続くロケットなのだ。噴射して切り離し、噴射して切り離す。軽く小さくなりながら大気圏を後にし、重力から逃れる。

逃走と解放は、人間にコードされた健全な衝動だと思う。所詮は人間なので、本当の解放には行きつかない。玉ねぎの皮を剝くように行きつかない。筋斗雲に乗った孫悟空はお釈迦様の掌を超えられない。それでも人間のごうであるがゆえに、続けることは健全だと思う。

大切なことは、出発することだった。

星野道夫『ノーザンライツ』

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