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「座右の銘」は偶像崇拝か否か

あらかじめ断っておくと、私は特定の宗教を信じてはおらず、何か詳しいわけでもない。それでも自分なりに調べて考えた結果がこの記事である。

ふとユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教が偶像崇拝を禁じている理由が気になってネットで調べてみた。様々な答え方がされているが、だいたい以下の二点にまとめられるようだ。

・偶像は所詮人が作ったもので、神とは違う
・人が作ったものを崇めるのは、人自身を崇めることと同じ

これを自分なりに、

・人は弱いので願望・欲望が偶像に反映される
・偶像を拝むことは、願望・欲望の正当化


と解釈してみたが、どうやら間違いではなさそうだ。

『 たとえ結果が見えなくても 』
http://maebashikyoukai.com/message/1703/

偶像とは人間の欲望の象徴である:旧約聖書 列王記第二より
https://ameblo.jp/ken-godbless/entry-11682834993.html

実体のない理想を見える形に描こうとすると人間の願望・欲望が入る、というのは色んな事に言えそうだ。たとえば現代における「アイドル」なんかは、まさに大衆の欲望を読み取って企業がプロデュースした偶像だろう。

ところで、私が人にとって最も大事なものは個人の信念や生き方だと思う。「座右の銘」とは、それらを分かりやすく表したもの、といえるだろう。すると、「信念を偶像にしたものが座右の銘であり、それを持つことは偶像崇拝」なのではないか?

しかしこれには違和感がある。座右の銘を自分の弱さの正当化に使ってしまう人もいるにはいるだろうが、そういう人ばかりではないはずだ。

どこがおかしいのだろう?まず座右の銘を持つというのは、それが表す信念を大事にすることであって、座右の銘そのものに傾倒することではないと考えられる。

次に、座右の銘はふつう心の強さや美しさが反映されるもので、願望・欲望などの弱さが表れてしまうことはあまりないのではないか、というのがある。本当に、尊い物を形にした像は全て邪念が宿るものだろうか?

一神教全てで像を作ることが絶対悪とされているわけではなく、プロテスタントを除いたキリスト教では「イコン」と呼ばれる信仰対象を描いた画像や立像が用いられる。崇拝の対象ではない道具としての像ならば認められているということだ。(初期から偶像崇拝ではないかという批判はあったらしいが)

ここから「座右の銘は信念のイコンだ」などというのは早計だろう。しかし、一種の像、偶像であるというのは一つの考え方ではないだろうか。そして、偶像であるということは偶像崇拝に陥る危険性もありそうだ。すなわち、

・本当に大事なのは座右の銘ではなく信念である
・単に自分にとって便利な言葉を座右の銘にしてはならない


ということなのだと思う。これを破ったとき、座右の銘は偶像崇拝になり下がり、自身を誘惑する悪魔となるのだろう。

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