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ジェンダーの性的強迫症という名前のない依存症

こんにちはなのだ。

イーロン・マスクのTwitter買収の影響で、タイムラインが浄化されてきたのだ。そしてこれでもかというくらい流れてきたフェミニストや男女論のツイートが流れてこなくなったのだ。

そして同じ頃に、今年の2月に得たイさんのホームグループで謀反を起こして抜けた人が、今度は別のグループにちょっかい出してるらしいのだ。言い分としては「性依存のグループは男がいるから回復しない」とのことらしいのだが、得たイさんはこの話を聞いて思ったのは"すっごい強迫的だなぁ"だったのだ。

というのも、得たイさんは自助グループで恋愛依存の話をする時にはいつも、いじめによって女性不信に陥り小学2年生の頃には既に女性に憎悪を抱いていた原体験を話すのだが、その壮絶さで狂ってしまったことを幾度となく思い返しているからこそ、その彼女の強迫的な考えがわかってしまうのだ。

そしてネットを見れば、フェミニストのみならず普通の人も男が女がといがみ合っているのだ。このことについて考えていくと、世の中には実に異性嫌悪に強迫的な人が多くいることがわかるのだ。今回は異性や性への強迫的な嫌悪について話をするのだ。


ジェンダーの性的強迫症とは

得たイさんは性依存症と恋愛依存症の自助グループで回復を続けているのだ。性依存症とは性行動に強迫的であることで、強迫的とはあまりにも強い期待感や義務感によって縛られていること(強迫観念)で、それを自分の意思で止めることはできないのだ。これを性的強迫症あるいは強迫的性行動症と呼ぶこともあるのだ。

あらゆる依存症はそのすべてが依存対象に対して強迫的であることなのだが、摂食障害の拒食症のように、対象への嫌悪に執着することが自分の意思でやめられない症状もあるのだ。これが性や異性を嫌うことに囚われた場合はいわゆるミソジニーやミサンドリーと呼ばれることもあるのだが、これもまた性(ジェンダー)に強迫的な病気なのだ。性表現や異性を叩くことが自分の意思ではやめられないのだ。この成れの果てがツイフェミやインセルと呼ばれる人だったり、弱者男性と呼ばれる人の一部だったりするのだ。

ただ現状、セクシュアルの性的強迫症(性依存症)すら一般によく知られていないので、ジェンダーの性的強迫症においておやなのだ。「ジェンダーの性的強迫症」は得たイさんがそう呼んでいるだけでちゃんとした名前はないのだが、依存症治療の観点から見て確実に病気なのだ。それを放置することはれっきとした加害行為であり、性依存症の大もとになるものなのだ。

自らの性を抑圧する最多勢力・ツイフェミ

「ジェンダーの性的強迫症」がネットで最も目につくのがツイフェミなのだ。本来のフェミニストは性差による不自由から"解放"されるために活動するのだが、これは性依存症治療におけるセクシュアルリカバリープランと同じ考え方なのだ。強迫的な性行動を禁止して禁欲をするのではなく、自分にとって健全な性を選択し、性の解放をできるようにすることが目的なのだ。

ところがツイフェミのようなネットのフェミニストは、自分の生きづらさの責任を男性(クソデカ主語)に押しつけることを主な言動としているのだ。彼らの言い分は「女の被害は男と違って命の危険に直結する」にある、つまり力関係でクソオスは常に加害者側であると嘯き、女である自分は永遠に被害者で居続けるという「加害行為」をしているのだ。そして自らの言動(口撃)は暴力じゃないから犯罪じゃない、よって加害ではない(だから被害者で居続ける)という否認をしているのだ。

ツイフェミの思考回路は性犯罪者と同じで、その強迫的性行動がセクシュアルかジェンダーかの違いでしかないのだ。依存症治療の文献には「第一の犯人は恨み」とあるのだが、性依存・性暴力などの原因が恨みの感情の溜め込みを根本とするものとされていることはあまり一般に知られていない一方、ツイフェミの世の男性に対する「断罪」と「制裁」はまさに男性への憎悪を剥き出しにしているのだ。そこには性犯罪者と同様の被害者意識と正当化、そして否認があるのだ。ちなみに断罪も制裁も依存症の典型的な病気の症状で、彼らは先手で「認知の歪み」という言葉で自分の認知を正当化して他人を断罪するのが常套手段なのだ。

フェミニストを名乗らないまでも、典型的な男女観の囚われをする人は多くいるのだ。多くの人はそれをネットに出したりしないのだが、ネット上でそれを高頻度で出すようになってしまったら十分に強迫的なのだ。彼らのやっていることは「依存行為」だから大事に至って底つきするまで自分の間違いに気づくことができないのだ。いまこれが現在進行形で進んでいるのが、不正会計疑惑で取り沙汰されているColaboの仁藤夢乃氏なのだ。この底つき体験という「現証」までがツイフェミが依存症であることの証明なのだ。

性依存症者である得たイさんはその根本に女性への憎しみがあり、そして本当は親に愛されたかったのだ。女子のいじめと女担任の体罰から救ってくれない親に捨てられたと思っていたのだ。僅か6歳の小さな世界の中にあって女性に生殺与奪を握られたと思い込んで、自分が女性の生殺与奪を握ることを生存戦略にしていたので、それを正当化する言動がネットでやめられなくなってしまっていた、これこそツイフェミと同じ穴のムジナなのだ。


異性神格化という「モノ化」

女叩き・男叩きとは真逆の異性蔑視(ミソジニー/ミサンドリー)として、異性を神格化してしまう人もいるのだ。しかし真逆とはいいつつも、実は異性神格化は憎しみに内包されているのだ。

得たイさんは性依存症の男性で、自身が女性神格化によって自らを苦しめてきたので女性神格化について話すのだが、女性神格化には様々なパターンがあるのだ。以下に女性神格化ミソジニーの一例を挙げるのだ。

女性神格化には実に様々な形があるのだ。ツイフェミだったり、性犯罪叩きだったり、弱者男性だったり、恋愛コンサルだったりするのだ。彼らは様々な手段を用いてても女性を崇拝している、つまり神として扱っていて人間扱いしてない=モノ化していることが共通していて、それによって性(ジェンダー)を抑圧しているのだ。そして彼らは自我が強すぎるので、神をもモノ化しているのだ。

彼らはよく「異常独身男性」のウォッチングという名の同族嫌悪をやっているのだ。そしてそれは自らの異常性と暴力性を否認するためでもあり、その否認のために既婚であることを前面に出す人もいるのだ。その奥底には深いコンプレックスがあるのだ。

性依存性のプログラムにはこうあるのだ。

 恥は罪悪感と区別されなければならない。私たちの多くが、ときに強迫的に、罪悪感について話したがる。しかし罪悪感は恥ではない。
 罪悪感は自分が何か悪いことをしたと感じることであり、恥は自分が何か悪い存在であると感じること、と定義されてきた。罪悪感は「私は過ちを犯した」と思わせ、恥は「私自身が恥だ」と思わせる。
 罪悪感からは学ぶことができるが、恥はより深い自己嫌悪へと私たちを駆り立てるだけである。
 何かが本質的に間違っているように感じる。つまり私たちは、他の人のように人生を思う存分生きているように思えないのだ。

性的強迫症からの回復プログラム 第二版

以下は得たイさんが自助グループに繋がるきっかけになった、前述の4人目の人の発言なのだ。この人は得たイさんの性癖を非モテ克服という偏った物差しでジャッジしたのだが、その経緯として、得たイさんは自分の性癖を「恥」だと思っていたことからの解放を願って過去の犯罪行為について「分かち合い」をしたことから彼の下の発言に至ったのだ。しかし得たイさんの願いは叶い、現在では自助グループで依存症から回復し、「恥」と「罪悪感」を区別して性癖コンプレックスから解放されつつあるのだ。

もしそんな性癖があっても誰にも話さない、犯罪行為だからそれはそうなのだが、彼が言ってるのは「その性癖について犯罪の過去があるお前自身が恥だ」に尽きるのだ。それはそのまま彼自身が恥と罪悪感の区別がつかず、性に対して恥を抱えている証左なのだ。それは女性への恨みが根源で女性を崇めることに囚われていた元性犯罪者の得たイさんと同じ穴のムジナでしかなく、彼はいまだ女性や性へのコンプレックスから逃れるために非モテ克服という「依存行為」に耽溺しているに過ぎないのだ。

恥を隠すために自分の理解できない性を嫌悪する、いかに形を変えてもこれが強迫的であることには変わりないのだ。

何の依存症でも言えることなのだが、恥と罪悪感を区別して犯罪の過去を話せるようになることは回復への道筋であり、それを弛まず実践しているのが薬物依存の高知東生さん等で、逆に罪悪感と恥の区別がつかずに女性の味方パフォーマンスで猿山のボス猿を気取ってるのが、ジェンダーに強迫的な女性神格化ミソジニーなのだ。

強迫的でない異性批判もある

得たイさんは最近、セクシュアルリカバリープランを変更して、強迫的でないセックスにトライできるようにした、つまりスリップを恐れて止めていたセックスを解禁し、性の選択をできるようにしたのだ。

浮気や不特定多数とのセックスはすべてが悪ではないのだ。浮気やオフパコ、セフレとのセックスでも強迫的でないセックスをしている人は確かにいるし、そういう人はセックスに執着してないのだ。

アライさん界隈にも女性批判はするもののそれに対して強迫的でない、ホシュイさん(@araisan_216)という人がいるのだ。この人は界隈で有名なオフパコラーなのだが、彼が公開しているその"手口"(本人談)を読むと、まったく強迫的でないことがわかるのだ。

また、ミソジニーを自認している人もいるのだ。

強迫的でないということは、女性を叩くことが間違っていたらちゃんと罪悪感を感じ、それを恥じないということなのだ。前向きな姿勢だから、それは本来の意味のフェミニズムに近いような気もするのだ。強迫的でないミソジニー(日本語が矛盾しているように見える)もまた、性を解放する手段のひとつなのだ。

得たイさんは、強迫的でない方法で性を表現できる人がうらやましくて仕方なかったのだ。AV女優の紗倉まなや男優のしみけん、フェミニスト(本来の意味)のろくでなし子さん、エロ同人作家、エロ絵師など、そういう創作活動をやりたかったのだ。

しかし得たイさんはそれができるようになる一歩を既に踏み出しているのだ。得たイさんのTwitterがそのひとつであり、それを創作物としてコミケで世に送り出しているのだ。このたび冬コミ(C101)にも当選したので、得たイさんは自分の問題行動を大放出することにしたのだ。

適法じゃないやんけというツッコミはさておき、得たイさんは過去の問題行動を解放することによって、性を楽しむ許可を自分に与えていくことを諦めないのだ。それが得たイさん自身のジェンダーの性的強迫症からの回復への道筋なのだ。

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