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嘘は依存症の始まり

こんにちはなのだ。エイプリルフールが終わったので、今回は嘘についての話をするのだ。

嘘と言ってもいろいろあるのだが、エイプリルフールでもやってはいけない嘘を忌避する人は多いのだ。ネットではそれだけやらかしが多いということなのだが、何故ついてはいけない嘘をついてしまうのか、そこについても触れるのだ。

嘘は頻繁に姿かたちを変えるのだ。そして依存症も様々な形があるのだ。嘘と依存症の関連について、深く掘り下げていくのだ。


依存症は否認の病である

依存症と嘘の関連で最初に思いつくのはこれなのだ。嘘は状況によって呼び名が変わるのだが、ことに依存症者には否認という形で表れやすいことを、高知東生さんは話しているのだ。

一言で言えば、高知さんは「依存症者は生存戦略として嘘をつく」と述べているのだ。当事者は命懸けで嘘をついているのだ。依存対象にしがみつかないと死ぬと本気で思ってるので、依存を続けるためならどんな嘘でもつくのだ。

性依存症のテキストにはこうあるのだ。

 AAの文献によると、恨みが第一の犯人であると言えるだろう。恨みは他の何にもまして性的強迫症者を破滅させる。なぜならば、私たちは「恨みをはらす」のにアクティングアウト(行動化)以外の方法を思いつかないからだ。アクティングアウトは解決、武器、報復手段に見え始める。そして、どれだけ私たちを傷つけたかを相手にわからせる方法に見え始める。
 意識的にあるいは無意識に、私たちはスリップを正当化する理由を捜し出す。「最近ムシャクシャする」「誰も自分を理解してくれない」「何もかもうまくいかないんだ」
 私たちは、孤独で、傷ついたように感じて、人々に仕返ししたくなってくる。通りでぶつかってきた人、上司、恋人、親、そして自分自身に。神にさえも (そもそも、私たちが傷つき失望しているのは神の責任ではない だろうか?ならば神だって傷つき失望するべきだ)。
 私たちは自分の怒りが正当だと感じ、それにしがみつく。何があっても手離そうとしない。だから、私たちは性的強迫症の初期症状に気づくと、 そのことでさらにイラついてしまうのだ。

性的強迫症からの回復のプログラム 第二版

依存症者が嘘をついてでも依存対象にしがみつくのは、自分の怒りが正当であることを証明するためなのだ。その怒りの根源は大抵の場合幼少期の原体験にあり、その時の傷つきの感情から逃れるため、他人に心配をかけないように本当の気持ちを嘘をついて隠してきたのだ。

しかし、そこで自分の本当の感情は解消されないのだ。だから気晴らしに何か他のことで負の感情から解放されようとするのだ。いわゆるストレス発散なのだ。

幼少期の逆境体験があまりに過酷すぎると、一時的なストレス発散では負の感情から解放されないので常態化するのだ。つまり、本当の感情に対して嘘をつき続けることになるのだ。それがやめられなくなり、だんだん生活に支障をきたし、やがて人間関係を壊していくのだ。

そして先述の高知さんのポストに繋がるのだ。負の感情から逃れるためには自分の本当の気持ちに嘘をついてまで依存が必要で、それを実現させるために他人に嘘をつくのだ。嘘に嘘を重ねることが生存戦略となり、自分では抜け出すことができなくなるのだ。

自分が傷ついたことを隠すために始めた嘘が、最終的には自分が傷ついたことを他人にわからせるための嘘に変わってしまうのだ。しかし本人は自分が傷ついていることを否認するのだ。なぜならそうしないと依存を続けられないからなのだ。自分が傷ついたことを正直に言って(いつ裏切るかもわからない他人に)受け入れられてしまえば、依存をやめた上に他人に受け入れられない最悪の事態を恐れざるを得なくなるのだ。それだけは絶対に回避しなければならないので、そこでまた嘘を重ねるのだ。

依存症者は傷ついたことを隠す嘘と傷ついたことを他人にわからせる嘘を同時につくのだ。だから自分が依存症者であることを否認するのだ。

嘘は恨みから起こる

エイプリルフールにやってはいけない嘘にも枚挙に暇がないのだ。しかし、人を傷つける嘘をついてしまうのも、やはり恨みの感情の溜め込みから起こるのだ。

なぜ人を傷つける嘘を、本人は傷つけるつもりがないのについてしまうのか。それは恨みの感情を処理する行動パターン(生存戦略)が、子供のうちに誤った手段で出来上がってしまうからなのだ。それが「嘘で嘘を塗り固める」という行動パターンになると依存症という病気になるのだが、その生存戦略の行く末は依存症とは限らず他の精神疾患となってしまうこともあるし、精神疾患にならずとも犯罪行為として現れることもあるのだ。

そして、恨みの感情の処理には嘘をつくことが含まれる場合が少なくないのだ。依存症治療ではこの場合の嘘を「不正直」と呼ぶのだが、恨みや恐れを持っている相手への自分の行動パターンを探る棚卸し(ステップ4・5)のワークでは、かつて自分が理不尽にも相手から受けた嫌なことが行動パターンとして定着していて、今度は自分が受けた嫌なことをいつの間にか他人にしていることがあり、人を傷つけてきた行動パターンがあることを明らかにしていくのだ。

 他人をだますことは、ほとんどいつも自分自身をだましていることに大もとの原因があると言えるだろう。

グレープバイン 1961年8月(ビルはこう思う P17)

依存症治療に取り組むと、「嘘」の形が実に様々な変化をすることがわかってくるのだ。「不正直」「不寛容」「自己憐憫」「否認」「自己欺瞞」「自己正当化」など…挙げればキリがないのだ。依存症治療とは嘘の様々な変化を見抜いて自分がそこに陥らないように予防することであり、そのために自分の行動パターンを日々検査して修正していくことなのだ。
その根源にあるのは常に恨みの感情なのだ。恨みベースの行動パターンが定着していれば、自分が他人を傷つけるつもりがなくても他人を傷つける嘘をついてしまう、これは自分の意思で止めることはできないのだ。だからそれを変えるには治療が必要なのだ。

嘘と方便の違い

話は変わるのだが、得たイさんは鳥山明先生が先月亡くなられたのをきっかけにクロノ・トリガーをやっているのだ。その中で主人公のクロノが冒険の途中で命を落とすことになるのだが、それをクロノの母親に隠し通すシーンがあるのだ。母親ジナの「クロノは元気?」の問いに、パーティの一人が歯切れが悪くも「元気でやっている」と答えるのだ。

パーティに幼馴染のルッカがいる場合は彼女が最優先で話す

しかし、ここでパターンの変わるキャラが一人だけいるのだ。それがロボなのだ。ロボだけは本当のことを話そうとするが、それをエイラに止められるのだ。

クロノが死んだと口走ろうとするロボ
そこにエイラが割って入り「クロノは元気」と嘘をつく

このゲームではクロノが後に復活するので、(復活させなかったとしても)死んだことが母親にバレることはないので最終的には母親は傷つかないのだが、現実ではそうはいかないのだ。嘘がバレたらどう足掻いても相手が傷ついてしまうのだ。相手を傷つけない為の嘘は非常に難しいのだ。

「嘘も方便」と言うのだが、方便とは仏教用語で仏教の正しい教えに導くための仮の教えのことを言い、嘘とは違うのだ。仮の教えは嘘の教えではないのだ。それがいつの間にかごっちゃになって「嘘も方便」という慣用句ができ、他人を喜ばせるためなら嘘をついてもいい風潮ができてしまったように思うのだ。

クロノ・トリガーのこの展開は母親ジナを傷つけないための方便という扱いになると思うのだが、方便の本来の意味に照らし合わせればこれは方便などでは全然なく、不幸を先延ばしにするだけになってしまい予後が悪くなるのだ。この一例だけ見ても、現実で「嘘も方便」は使うべきではないのだ。

こういう嘘で他人を傷つけてしまったことがある人もいると思うのだが、これもまた自分の行動パターンのせいなのだ。そこの棚卸しをして行動パターンを点検をすることが人生には欠かせないのだ。

嘘の正しい使い方

「嘘も方便」を使うべきでないなら嘘は絶対悪かと言われるがそうでもないのだ。短所を長所に言い換えるのはよくあることなのだ。ただこの場合、言い換えることは嘘をついていることになるのだが、言われたほうがそれを嘘と見抜いて傷ついた場合、そもそもその人自身の思考パターンが嘘でまみれているから傷つくのだ。そこの配慮などの問題があるので、嘘は使い分けが必要なのだ。

先述の嘘は形を変えるという話の中に自己憐憫があったのだが、依存症治療の文献には自己憐憫の使い方について書かれているのだ。

自己れんびんの建設的な用い方
 私たちは、自己れんびんを神が与えてくれた方法で建設的に用いることができる。ある反応 (reaction) が行動 (action)を生み出すとき、そこには成功のメカニズムが働く。一人がほかの人を出し抜いて何かの仕事や偉業を成し遂げたとする。このとき、出し抜かれた人は自分の立場に恨みをもつ。けれども、もしこの恨みを、その人が新しい目標を達成するための行動の原動力にすることができれば、自己嫌悪や自己れんびんが健康的に用いられたことになる。
 たとえば、塗装が必要な家が2軒並んでいたとする。一方の家の勤勉な住人がペンキ、ブラシ、その他の道具を買って、自分の家の塗装を始めた。玄関先でロッキングチェアを揺らしながら座っていたもう一方の家の住人は、隣の男の行動に気がつき、自分の家の塗装がひどいことを知る。そして、彼もペンキを買って塗りかえを始めた。こうして二つの家の塗装が塗りかえられ、街もきれいになった。これは自己れんびんが健康的に用いられたケースである。二番目の男は反応して、自己れんびんに陥り、自分の家の塗装のひどい状態が嫌になったが、しかし、その反応をばねにして行動を起こした。
 人間は昔から、健康的な本能を原動力にして、社会を継続的に変化、 発展させてきた。お互いに向け合う反応が、私たちの知的能力を伸ばし、 社会の発展を生み出してきたのである。

JOE McQ著 回復の「ステップ」P173

自己れんびんの破滅的な用い方
 自己れんびんの破滅的な用い方とは、神が与えてくれた本能を生かして建設的な行動を起こすことができず、怠惰という行き詰まりへ向かうときに見られるものである。
 たとえば、塗装が必要な家が2軒並んでいた。一方の男が道具を買ってペンキを塗り始めた。玄関先でロッキングチェアに座っていた隣の男がそれに気づく。彼はペンキを塗っている男に怒りを感じる。そして自分の家の塗装をチェックするが、行動は起こさない。ロッキングチェアに座って、自分はなんて惨めなのだろうとつぶやく。「おれにはペンキを塗る金がない」 こうしてペンキを塗った男に対する恨みをいっそうつのらせる。すると自己れんびんも深くなる。一つの感情が引き金にな って別の感情が生み出されたのだ。この怠惰な男は、この先も隣の勤勉な男が何かを始めるたびに恨みをいだくことだろう。
 この二つのケースから、自己れんびんは行動を生み出す場合もあるし、怠惰を生み出す場合もあることがわかる。健康的な対応をするには行動を起こすことが大切であり、何もしないでいるのは不健康な対応である。

JOE McQ著 回復の「ステップ」P174

自己憐憫は負の感情のひとつなのだ。その感情に向き合うことができれば正直に「悔しいから俺もペンキで色を塗ってやる」と行動を起こすのだが、そこには「悔しくなんかない」という嘘があるのだ。しかし行動を起こした結果自分が相手と同じように発展すれば、悔しくなくなるのだ。嘘が誠になるとはこういうことだと思うのだ。

しかし、その「悔しくなんかない」という嘘をついても行動を起こさない(という行動パターンを取る)場合、嘘によってだんだん自分が不幸になっていくのだ。怠惰という行動パターンが自分を破滅に導くのだ。

ただし、文献にある「行動を起こすことが大事」は額面通りの意味ではないのだ。なぜなら破滅的な場合も怠惰という行動を起こしているからなのだ。行動パターンの違いにより結果が建設的か破滅的かに分かれるだけなのだ。そしてそれは自分の意思でコントロールすることはできないのだ。つまり、嘘の結果は自分の思い通りにならないのだ。

人間には様々な感情があり、それに嘘をつかないことはできないのだ。だから依存症治療では自分自身の点検が必要なのであり、それをやらなければ嘘で人を傷つける人生を送ることになるのだ。

依存症者は幼少期に傷つきの原体験があると得たイさんは何度も言ってるのだが、過酷な逆境体験をした幼少期には自分の本当の感情に対して適切に対処する能力がそもそもないので、自分の感情に嘘をつくという生存戦略を取らざるを得なかった結果、自分も相手も傷つける依存症者になってしまったのだ。これは既存の依存症だけに当てはまるものではなく、すべての人が幼少期の恨みに依存してしがみついた結果、様々な問題を引き起こすのだ。例えば性被害経験のある女性がミサンドリーになって男性全般を叩いたりするのも、恨みへの執着を極限まで拗らせた立派な依存症のひとつなのだ。

恨みの建設的な使い方をするには、それを治療に傾けるしかないのだ。神に祈り、治療の行動を起こすのだ。すべての恨みを赦しに変えることこそが、恨みの建設的な使い方なのだ。

今年のエイプリルフールはもう終わったのだが、今一度振り返ってみるといいかもしれないのだ。他人だけではなく自分を傷つける嘘をついてこなかったか、エイプリルフールだから嘘をついてもいいと正当化(=嘘の一形態)をしてこなかったか、それを考えるといいのだ。
そこから目を背ける(=嘘の一形態)ことを繰り返せば人生を詰むのだ。そうならないように、多くの人が信仰と治療に繋がれば幸いだと思うのだ。

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