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人は誰しもが年齢とともに緩やかに狂う

こんばんはなのだ。前回の記事を「主語がデカい」と言われてしまったので、今回はもっと主語をデカくしていくのだ(笑)。

皆さんの中には、応援していた推しが落ち目になってそのまま消えてしまったり、あるいは考え方が変質してしまったりなどを見たことがある人は多いと思うのだ。得たイさんもそんな経験がたくさんあるのだが、近年主に見かけるのは、活躍していた人が本来の目的と違う方向の発言を始めて失言などを繰り返して叩かれたり炎上したりするなど、そんな例が枚挙にいとまがないのだ。今回はどうしてそんなことになってしまうのかを考察するのだ。

今回もいつものように依存症治療の文献を引用していくのだが、なぜ依存症治療なのかというと、「生き方の原理」が示されているからなのだ。依存症はこの原理でなければ回復しない厄介な病気なのだが、逆に言えばこの原理さえ持っていればいかなる精神疾患にも効果があるということなのだ。
もっと言えばこの原理は病気でない人にも効くのだ。本来は全ての人が実践すべきもので、それが依存症治療向けにチューニングされているというだけの話なのだ。

逆に、この原理から外れた生き方をすればいつか必ず人生を詰むのだ。そしてその最たるものが依存症という病気なのだ。依存症は幸せから最も遠い病気と言えるのだ。


ColaboパロディAV騒動はなぜ起きたか

まずは性依存症治療の観点から、性に関する騒動を見ていくのだ。

この騒動は知っての通り、不正会計疑惑で問題になっている女性支援団体Colaboを、ラディカルフェミニスト達の活動によってAV新法が成立して仕事を奪われたAV業界がネタにした作品について物議を醸しているのだ。それだけならまだしも、この作品の主演であるAV新法に抵抗している女優の一人、月島さくらさんが炎上の要因となっているのだ。

この騒動が大きくなった要因はいくつかあるのだが、主因は月島さんにあると言えるのだ。というのもここ数ヶ月、彼女は本来の活動であるAVやAV新法への抵抗よりも男女論の問題に口を出していることのほうが多く、本来の目的外のところに狂犬のように噛みついてはレスバしているのだ。
そして、AV新法に反対の立場を取っているとしながらも賛成してロビー活動していた支援団体と深い関係のあるColaboと仁藤夢乃氏に、月島さんは当該作品に共演している稲森さんとともにColaboバスカフェの前で記念撮影をするなど挑発的なツイートをしていたのだ。当該作品が発表され、仁藤氏が法的手段を示唆した段階でも月島さんはColaboや仁藤氏への挑発的なツイートを続けているのだ。

最初はそうじゃなかった月島さんは、いつの間にかこうなってしまったのだ。男女論をやらなければ、仁藤氏との衝突もここまで大きくならなかったかもしれないのだ。

「AAの12の伝統」の伝統10にはこうあるのだ。

10.どのAAグループもメンバーも、AAを巻き込むような形で、外部の論争に対して意見を述べてはならない。特に政治や禁酒運動、宗教の宗派的問題には立ち入らない。アルコホーリクス・アノニマスのグループはだれに対しても反対の立場を取らない。そういう問題についてはどのような意見も表明しない。

AA 12の伝統(長文のもの)

12の伝統とは生き方のガイドラインであり、自助グループのローカルルールではないのだ。生き方の「原理」なので全ての人に該当するものなのだ。

これを踏まえて、今回はAAを適正AV業界に読み替えて考えるのだ。そうすると何が問題なのかというと、月島さんが本名の自身ではなく適正AV業界の一員の立場として、主に仁藤氏への挑発的な発言をしたり男女論(外部の問題)について話していることが仁藤氏から月島さん本人への衝突を生んでいることなのだ。それによって適正AV業界が危機に晒される可能性があることを想像できても良さそうなものなのだ。

そして無論なのだが、外部の問題への口出しによって敵ばかり作っているのは月島さんだけではないのだ。仁藤氏は言わずもがな、Colaboを住民監査請求した暇空氏などもそうなのだ。各々が本来の目的外のところで暴れ回って生き方を逸脱し、自らの選択で多くの敵を作ってしまったのだ。この騒動は各々が生き方を逸脱した集大成のひとつであり、逆に言えばそもそも暇空氏がColabo以外の外部の問題に口出ししなければこの騒動は起きなかったと考えられるのだ。

外部の問題をジャッジすることは、恨みの感情の溜め込みによって発生するのだ。私情を所属する場に持ち込むのを繰り返せば、そこは安全な場ではなくなってしまうのだ。

AV新法の行く末は、主にクリエイティブ職に従事していた得たイさんにとっても無関係な話ではないのだ。得たイさんも自分の食い扶持(AV動画編集の仕事)を減らすAV新法に反対の立場なのだが、そこに過度に言及して生き方を逸脱したら意味がないのでこの問題については(少なくとも依存症治療アカウントでは)極力口を出さないようにしてるのだ。

原理を外れた生き方は恨みが行動原理になる

さて、この騒動が回り回って、今度は初音ミクとの結婚で知られる近藤さんが炎上してしまったのだ。近藤さんは、友人である大田区議会議員・おぎの稔氏に例のAVを許可のもとで送付するとしたことがTwitter民の目について批判を浴びているのだ。
ここでネット論客が勝手に問題視しているのは、近藤さんが教育現場の公務員の立場かつ実名でAVについての発言をしているとされていることなのだ。

昨今、教育現場における性犯罪の問題が深刻なので教育委員会などがピリついているのもわかる話なのだが、そもそもこの国における教育現場というものは抑圧が常態化しているので、近藤さんの発信についても圧力をかけるのは(この圧力自体は不適切だが)必然であると言えるのだ。
上記の教頭の近藤さんに対する指示は言うまでもなく職業差別の思想が含まれているのだ。それだけでなく、過去にはプライベートの性的指向に対しても校長が口を出してきたそうなのだ。これもまた教育委員会からすれば「外部の問題」であり、教委が健全であるならば個人の性的指向に教委として意見を持つ(個人の意見を教委に持ち込む)べきではないと考えるのだ。

性依存症治療のテキストにはこうあるのだ。

 禁欲とは、部分的であれ完全なものであれ、このプログラムの道具にすぎず、禁欲することによって、⾃分の性がどのようにありたいかの選択を明確にすることができる。最終的な⽬的は、性を排除したり抑圧することではなく、神が意図するように性を⾃分の⽣き⽅の中に統合することである。強迫的な摂⾷の問題と同様に、私たちの⽬的は、根源的な⼈としての⽣き⽅の中で⾃由と責任を達成することである。⾷べることもセックスすることも、どちらも本来は健全な⾏為なので、どの性⾏動、恋愛関係、環境そしてものごとが、⾃分が⽣きていく上で適切なのかを決定する際に、神の導きを求める。
 私たちのほとんどが共通に持つと思われる特徴は、極端で、強迫的で、不正直で、巧妙で、搾取的で、そして虐待的な性⾏動をすることであり、私たちの⽣き⽅を⼿に負えない状態にさせてきた。性とは本来、正直で、思いやりがあり、⼈⽣を肯定し豊かにするものである。そのような性が⾃分の⽣き⽅の中に統合されるならば、私たちは⾃由になり、現実をありのままに受け⽌めて⽣きていけるようになる。

性的強迫症からの回復のプログラム 第⼆版

 時に完全禁欲は、⼀種の性的拒絶症であり、懲罰的な経験であり、単に性的なものを遮断してコントロールしようとする過酷で⼤げさな試みになることがある。私たちによくあることだが、⾃分に対して過剰に厳しくしたり、よい⽣き⽅を⾃分から否定したりしないよう注意しなければならない。

性的強迫症からの回復のプログラム 第⼆版

 ⼼に留めておくべきことは、抑圧したり、罰したりすることは回復に逆⾏し、不健康な⾃⼰否定からは何も得るものがないということである。私たちはセクシュアルリカバリープランを通して、⾃分の性的感情と愛を表現する機会を得るが、あまり理想や完璧を追い求め過ぎないようにしなければならない。⼈間にとって、愛することと性的な表現は、不完全でありながらも健康的なものだと理解するべきだ。

性的強迫症からの回復のプログラム 第⼆版

昨今の教育現場での性犯罪の特徴の一つは、発覚した段階で既におびただしい数の被害者が出ていることなのだ。つまり教育現場は、加害者が大多数の被害者を出すまで性犯罪が明るみに出てこないほど性を抑圧・否定する現場であると言えるのだ。その証左が性教育における「歯止め規定」であったり、あるいは校長や教頭の近藤さんに対する態度だったりするのだ。
教育現場の"性的拒絶症"は根が深いのだ。公立学校では宗教教育が禁止されているので、多くの人は自分の性的能力が(自分なりに理解した)神から与えられ、神の意図によって生活に統合すべきであることを知らないのだ。

教育基本法が公立学校で禁止しているのは特定の宗教に関する教育なので、実は現行法下でも性は神から与えられたものとして教育することはできると考えられるのだ。しかしこの社会では宗教そのものがタブー視されているので特定の宗教によらずに神の概念を教えるのが難しい、よって必然的に性もタブー視されることになってしまったのだ。
性と宗教は「生き方」について重要な概念であることが共通しているのだ。生き方を否定すれば深刻な人権侵害が起こるのは当然の話で、その最たるものが性犯罪であり、その土壌を宗教教育禁止の大義名分を以て積み重ねてきたのが今の教育現場なのだ。教育現場は国家レベルで緩やかに狂っていったのだ。

そしていつも言っているように、性の抑圧は「恨みが第一の犯人」なのだ。教育現場の性の抑圧も性犯罪も、共通して恨みの感情の溜め込みが原因なのだ。恨みの感情を解放するために必要なのは自分が絶対的存在によって愛されているという確固たる実感なのだ。その絶対的存在とは子供にとっては両親や学校の先生であり、大人になったら神様だと認識が変わるのだ。その神様を現場に持ち込むのを否定したから、教育現場で働く人は恨みの感情に支配され、性に抑圧的になるのだ。教育現場における宗教教育禁止は、恨みを行動原理として緩やかに狂ったから同じく恨みを行動原理とする性犯罪が多発したのだ。

人間の本質である性の乱れは生き方の乱れ

性犯罪の話になると何故かどんな人も豹変してキレ散らかす、そんな場面をネットではよく見るのだ。性犯罪が許されないのは深刻な人権侵害であるからに他ならないのだが、疑問なのはなぜ性犯罪が殺人よりも遥かに憎まれているかということなのだ。

性の考え方の問題(認知の歪み)は抑圧によって起こることは、一般にも知られるようになってきたのだ。しかし性行動にせよ考え方にせよ問題のある人はそれを知るよしもなく、暴走した本能のまま動いているのだ。そして男女ともにこれは同様なのだ。

先ほどの文献を引用したように、性とは本来、思いやりがあり人生を肯定するものなのだ。しかし、仁藤氏や郡司氏などのラディカルフェミニズムに見られるように、彼らや上記ツイートの図は性を否定しする人が本当に多いのだ。性を否定することは、自分や他人の人生を否定することなのだ。

 両親の性に対する歪な考えやこだわりは、知らず知らず私たちに深刻な影響を与えた。その結果私たちは、⾃分本来の欲求やニーズとは何の関係もなく、多くの⾝体的な恐れや強迫観念を抱くようになった。
 境界線が絶えず無視されている家庭では、近親姦は珍しいことではない。境界線を無視した最も極端なかたちは、⼤⼈と⼦どもとの実際の性的関係であるが、虐待の⼤多数の内容は(性⾏為を伴わない)情緒的な近親姦である。
 たとえば、秘密を分かち合う友⼈やパートナーのように、慰めを我が⼦に求める親は、感情的な近親姦にふけっているのである。このような親密さと責任の重さは、どんなに頑張って応えようとしても、普通の⼦どもの理解⼒や対処⼒を超えている。その結果、⼦どもは幼年時代を奪われ、この種の虐待の犠牲として、後の⼈⽣で⼤きな対価を払うことになる。

性的強迫症からの回復のプログラム 第⼆版

 私たちの中には、⾃⼰の性を悪であると思い込み、その⾃然な欲求をコントロールしようと何度も試みた⼈もいた。私たちは、⾃分⾃⾝の性から⾃分を切り離そうとして、しばしば性的であることを悪いことと同⼀視した。私たちはセックスを、健康的で⼈⽣を豊かにするものとして考えられなくなっていた。恥ずかしいと感じないことは、性的なことと思えなかった。
 私たちの⽣き⽅は分断され、性的な⾯を全否定したり、⼀⽅で性に耽溺してしまうという強迫的なサイクルに囚われていった。私たちは⾃分に起こっていることを憎み恐れていたが、にもかかわらずいつも屈してしまうアドレナリンのしびれるような快感は、避けがたいくらい魅惑的だった。
 はじめて強迫的なセックスの陰鬱な世界に惹きつけられたとき、私たちのほとんどがそれに興奮を覚え、同時に胸くそが悪くなった。その後、気がつくと何度もこそこそと繰り返していた。まるで内なる嫌悪を全て発散できる場所をついに⾒つけたかのようで、それはある意味、ようやく⼼からくつろげる「我が家」に戻ったかのようだった。私たちの誰もが、またたく間にハマってしまった。

性的強迫症からの回復のプログラム 第⼆版

われわれ性依存症者やラディカルフェミニストは、このように幼少期に人生(=性)を否定され、性は悪いものだと思わされてきたのだ。そして一般人の中にも、実に多くの人が虐待の大多数である情緒的な近親姦の被害者であり、その後遺症によって性犯罪の話を聞いた瞬間スイッチが入ったかのごとくキレ散らかすようになってしまったことが窺えるのだ。
性犯罪の話をネットで見て一度でもキレたことがある人は考えてみて欲しいのだ。自分の人生がいじめや虐待によって性そのものを否定されたことはないか、そして両親や周りの人が性を否定する、あるいは性を押しつけてくる(性的行動を見せつけてくる)人物ではなかったかを振り返ってみるといいと思うのだ。
得たイさんの父親は無神経にも性を家庭に持ち込んでいたのだ。日曜の昼間は熱湯コマーシャルを見せつけられたり、サービスカットがあるRPG(LUNAR2 ETERNAL BLUE など)を兄弟のいる前でプレイして、キャラの入浴シーンを見せつけられたりしたのだ。つまり父親の性的嗜好に対して同意を求められるという形で「情緒的な近親姦」を受けたのだ(実際そういうシーンが出たときに「ラッキー!」とか言われた)。
これが性的虐待であることは言うまでもないのだが、幼少期に性のあり方(性嫌悪を含む)を押しつけられた経験を、トラウマの再演として性犯罪者を憎悪するという虐待的な性行動に転嫁してしまう人は多そうなのだ。本人達はそれが生き方の結果だとはつゆ知らず、本能の暴走によって他人を傷つけているのだ。性犯罪者になら何を言ってもいいと言わんばかりの本能の暴走もまた、性の問題行動と言えるのだ。

そして、性犯罪者を憎悪したり叩いたりする人もまた、性犯罪者や性被害者と同様に人生が思い通りにならなくなっているのだ。彼らは普通の人と同様に性犯罪を断固否定しているのに、本能の暴走によって性犯罪否定じたいが問題行動となっていることに気づかないのだ。その最たる例が、凍結済みのなす中町千景などなのだ。

性の点検は生き方の要

自分の生き方を見直すに当たって、非常に重要なのが自分の性についての見直しなのだ。依存症治療では、12ステップの大もとであるアルコール依存症治療の文献において性の見直しの厳しさについて述べられているのだ。また、摂食障害のグループは女性の割合が多いのだが、摂食障害は性依存・恋愛依存を併発しやすいことを裏付けるかのように、文献には性についての厳しさが述べられているのだ。

 さて性について考えてみよう。私たちの多くは、この課題を徹底的に点検する必要があった。何よりも、分別をもとうと努めた。性の問題となると、話が本筋からはずれてしまうことが多いからだ。

アルコホーリクス・アノニマス P100

 私たちは、過去の自分自身の行為を振り返ってみた。私たちはどこで自分勝手であり、不正直であり、思慮を欠いていたか。誰を傷つけたか。根拠のない嫉妬、疑惑、反感を他人に抱かせなかったか。自分はどこで誤ったか、その代わりにどうすべきだったか。こうした事柄をすべて紙に書き出して、見つめてみた。
 こうして私たちは今後の、まともで健全な性生活をつくり上げようとした。これまでもったすべての性的関係について、それが自分本位だったかどうかテストをしてみた。自分たちの理想を考え、それに自分が沿えるようにと、神に助けを求めた。私たちの性的能力は神から与えられたものであり、したがって良いものであること。軽くあしらったり、自分中心に利用したり、また軽蔑や嫌悪すべきものではないことを、常に忘れないように心がけた。

アルコホーリクス・アノニマス P101

 私たちの性の状態について審判できるのは神だけである。誰かと相談することが助けになることもあるが、神をこそ最終審判者とすることだ。性に関して狂信的な人もいるし、またルーズな人もいることを、私たちはよく知っている。感情をむき出しにした考え方や助言は避けるべきだ。

アルコホーリクス・アノニマス P102

性の話はよく本筋から脱線することは多くの人が経験してると思うのだが、それもこれも各々が、人によるといえども、主に幼少期の何らかの傷つきにより生き方を脱線していることによって感情的になるのだ。だから性については厳しい目で生き方を書き出す、そして信頼できる人(自助グループでは「スポンサー」と呼ばれる回復者)と自分なりに理解した神に点検してもらうのだ。これによって自分が性に対して感情的になる「お決まりのパターン」が見えるのだ。

性についての論争は、各々が「お決まりのパターン」に従って行動しているだけという実に単純なものなのだ。すべての人にお決まりのパターンがあるのだ。そしてこれが究極的に進行した結果が依存症という病気なので、依存症と同様に絶対に逆らうことができない(自分の意思で止めることができない)のだ。
すなわち、何が正しいかは神に委ねられているのでさておき、お決まりのパターンとは依存症の数歩手前なので他者との衝突が発生するのだ。衝突を繰り返せばパターンは進行し、最終的に人生を詰むのだ。依存症(ことに性犯罪)が道徳や性教育の問題ではないことは、この法則に示されているのだ。

そしてお決まりのパターンを打ち破る方法も示されているのだ。

 性についてまとめよう。私たちは正しい理想を、不確かな状況については導きを、健康な考え方を、そして正しいことをする強さが与えられるのを心から祈った。もし自分にとって性が大きな問題なら、人を助けるほうに力を注ぐことだ。彼らが必要としていることを考え、彼らのために働くのだ。するとそのことが、自分を解放してくれる。衝動を鎮めてくれるのだ。放っておけば苦しみもだえることになるのは目に見えている。

アルコホーリクス・アノニマス P103

性の問題は得てして利己的な態度なのだ。性の問題が起きた原因をその人の「身勝手さ」と言う人は多いのだが、実はそうではないのだ。性の問題は即「生き方」の問題なので、生きるために必要な愛=承認を不当に稼ぐ手段としての問題行動だから利己的と言うのだ。
だからこれを打ち破るには、利他的な行動を起こすことなのだ。だから自助グループでは「サービス(役割)をやると回復する」と言われるのだ。他人のために何をしてあげられるか、そしてそれをするに当たって自分の利益の算段を排除できるかどうか、つまり無償の愛を与えられるかどうかが鍵なのだ。「愛されるより愛そう」とよく言われるのはこういうことなのだ。

ほぼすべての人が苦しんでいる性の問題からの解放を、得たイさんは回復している性依存症者の一人として願うばかりなのだ。そしてこれが国家レベルで実践するようになったそのとき、性に関するあらゆる問題が解消していくことを信じてやまないのだ。


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