中之条ビエンナーレからのインスパイア
群馬に住み始めてから、ずっと行ってみたかった中之条にて2年に1回行われるビエンナーレ。
家族はあまり興味を持っていないし、一人で行くには遠いため道中の運転時間が暇になってしまうなと思っていたら、友人から吉報が。
「10/21に中之条ビエンナーレ行きたいけど一緒にどう?」
しかも、この週は結構忙しくて詰まっていたのに、友人の指定の日だけ自分の時間にしようと空けていた。たまたまではあるけど、運命的に合致したのだと思った。「最高最善のタイミング」とはこのことだ。
ポスターにもなっていた狼のモチーフを展示している西島さんは、その友人のご縁のある現代アート作家さん。グッと現代アートが身近に感じる。
「真神」
真神とはニホンオオカミが神格化したもの。
「存在」「気配」「生命」を表現しようとしたとき「神」に行き着いた。
気高く偉大な雰囲気を纏った「神」的なものを視覚化した。
「吉祥」良いことが起こる前触れの象徴と言われる鳳凰を題材
タイミングが合わずに、西島さんにはお会いできなくて残念だったけど、エネルギーが違った。部屋に入った瞬間に感じる神々しさ、神聖さ、緻密さ、美しいという言葉では語りきれないけど、この造形はぜひ間近で見てほしい。
コイルのような銅線の渦の集まりで微妙な曲線が表現されていて、さらに所々に余白があることで鑑賞者が補完する、作者との共創感覚。
そして、今回私の心が動いたことは、建物も含め、街全体でアートを作り上げているあの空気感。ボランティアも町内の人で、みんなが関わっている、自分ごと化されている、街興し感が好き。これまできっとアートに縁遠かった人が、作家さん達と触れることで開花するであろう、その瞬間。目には見えないけど、その感動を私は妄想して楽しくなる。
一緒に行った友人のひとりは、影に美を投影していた。もう一人は、自分が動くことで作品が動くという体感に感動していた。それぞれの楽しみ方がそこにはあって、一人で行くよりもずっと気づきの多い時間になる。
さらに、行き帰りを車というプライベート空間で対話できたことが何よりもギフトだった。アートの話でいくと、蜷川実花が生き物に死という印象を通じて生々しく生を描いているという話や、足利がアートの街でN響を誘致できたり市長の気合いで変わるという話。薔薇は薔薇でもいろんな種類があって、好みはあれど、どれも素晴らしいという話。いろんな話題が心の中に残っている。
「答えは自分の中にある」
「自分を信じる」
「常に自分自身が試されている」
友人二人と話す時間、紡がれる言葉には、重みがある。
浮ついた言葉ではなく、自分の中に芯があって、そして地に足がついている。
いつも矢印を自分に向けている人たちだから。傾聴ももちろん上手いし、話す内容も引き込まれる内容ばかり。私は人と話すのが好きだ。でも誰とでもいいわけではない、自分の方に矢印を向ける人と話すのが好きなんだ。
行間から感情を汲み取りながら、そして時にメンターのような言葉を掛け合う。
良い悪いではなく、その事象にはどんな意味があるかを問うて、答えを模索する姿が心地よい。
表面的な部分、外向的な部分以外で見えるところと、心情の部分や内向的な部分はあえて表現を変えてもいいよね、という言葉はハッとさせられた。
私自身はついついストイックになりがち、追求しがち。でも、それは自己満足の観点でやっていることでもあるので、あえて外に見せずにやればいい。内側にはストイックに、外側にはマイルドに、そうやって魅せることは嘘でも偽りでもないんだから、言い方を適材適所にしているだけ。そう考えると、今の私のビジネスももっと柔らかいものにできる気がした。ゆるくはなくて、軽やかに崖を登る。いろんな話があったけど、今の私に必要な時間だったことは間違いない。
それは、きっとビエンナーレで見たアートからも刺激を受けたから。
鑑賞者に委ねる、余白こそがアート。
西島さんのアート作品のように。
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