『時間主義』

東京外国語大学　橋本健太

　２０１８年１１月３日の２３時半頃、僕はリオデジャネイロの下宿先で独り、youtubeを観ていた。確かその時期は個人的バズリを遂げていたSMAPのオレンジのカバー動画を漁っていた。スマホさえあればどこにいてもすることは変らんな。留学も半年以上経っていたが、専らビーチで本を読むかセミダブルベッドのうえでTwitterとyoutubeを漂う根暗な僕はその日も留学生として健気にクラブ街へ赴く選択権を放棄したままうつ伏せになっていた。
しかし、その夜僕はある緊張感をもっていた。それはまるで恋人と駅で待ち合わせ、「いま着いた」というラインを受け取ってから彼女が目の前に現れる１～２分前にしか味わえない緊張感と少し似ていた。しかしなんともまぁ、本当に残念ながら、危険なリオの夜をくぐり抜け女性と逢瀬を重ねたわけではない。お相手は、サマータイムだった。
サマータイム。夏の長い日照時間を有効活用するために標準時を一時間進める制度。期待される効果は照明の節約、交通事故や犯罪発生率の低下である。ところが多くの国で現在サマータイム制度は中止されている。日本は１９４８年から１９５１年の間のみ採用、ブラジルも１９３１年に同制度を導入するも２０１９/２０２０年度には実施しない法令を発表した。期待されるほどの省エネ効果が無い上に、健康障害の原因とも指摘され、さらにあらゆるシステムにおいて時間を変更するにはコストがかかったからである。
つまり僕とサマータイムちゃんとの出会いはそれが最初で最後だったのだ。「23：57」iPhone8の左上の表示にただならぬ想いを抱き、youtubeを閉じる。日常では凝視しない時刻アプリに意識を集中させる。こんなデザインだったっけ？この秒針、赤なのかオレンジなのかよくわからないな。いや時針に集中しないと。見逃してはだめだ。そう言い聞かせた。下り坂を駆け、愛するあの人に想いを伝えたい、もう一度会って話がしたいその一心で夏夜を跳んだ細田守の描く少女よろしく僕は秒針を見つめていた。本当は、仰向けに寝転がっていたのだけれど……23:57…23:58…23:59…いっっっけえええええええええ……「1：00」
　お、おおぅ。これが率直な感想である。確かに時を超えた。僕は時をかける青年だった。しかし釈然としない。1時１分のはずだったが、ダニエル・ウェリントンの針時計は平然と０時１分を指している。１時２分のはずだったが、そのデジタル表示は僕が実際に生きた時間とは時差があった。
直後、ものすごく損をした気分になった。深夜の幸せダラダラタイムの1時間が何者かに奪われてしまったのだ。Nossa Senhora ! さらに、サンクチュアリを荒らされたような嫌悪感があった。時間こそがこの世を司る不可侵的な概念ではなかったのか。生命に等しく与えられ、圧倒的正当性として人類の生活を支えて下さっている時間様を弄ぶとは言語道断。なんという冒涜。あ、サマータイムちゃん、君は悪くないよ。いけないのは大人達だ。Alô, Polícia？たったいま盗難に遭いました。
　僕の奪われた１時間は、翌年の２月１６日にポイと返却された。利子がどうとかいうことはあまり言いたくないが、それなりの誠意も見せずにきっちり１時間が返ってきたのだ。それでも、今まで心身を捧げてきた時間様からまた天啓を授かれるだけで僕は満足だった。
　本エッセイの提出期限が迫る現在は、２０２０年７月３０日。ダニエル・ウェリントンによると１８時半前。これを終えたらラーメン二郎に行く。そのあとは１９：４２府中駅発の上り電車で自宅へ。友人とオンラインゲームをする約束がある。２０時集合。いまから９４分後。
もう時間は盗られない。時間は絶対だ。カップ麺がおいしいのは３分１８０秒だし、サッカーは９０分５４００秒、１日は２４時間１４４０分８６４００秒。なぜかはよくわからないけど、そうやって小学校で習ったし。いままでそうだったから。