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年齢を重ねるということ。


仕事に13年ぶりに復帰して
周りの方の、私への接し方が
ちょっと変わったなぁと思う。
ことごとく、力仕事が免除されるのだ。

例えば年度初めの教科書配布のとき。
箱づめされた教科書を、全職員で各教室へ運ぼうとバケツリレーならず教科書リレーをしていたら

「階段は危ないから、ここは若い先生に任せて」と副校長から言われたり

職員会議の後
教室の机や椅子を直そうとしていたら

「ここからは、若い先生たちに任せましょ♪」と
私より年上のマダム先生に声かけされたり。

前だったら、「ほら、即戦力がいた!」と
いの一番にやらされてたことが
ことごとく免除される。

前職を退職し、家にこもってから13年。
こちら側から、あちら側になったって
完全に理解した。

うーん…なんか最初は微妙な心持ち…。
昔、働いていたころと、心持ちは
全然変わってないようなつもりでいたけど
確実に、見た目や雰囲気が歳をとったということ。

40代半ば。
歳をとったとあまり実感がなかったけれど
でも確実に、実社会の中で
年齢ピラミッドの段階が上がったんだなと思った。

妙齢女子にとっては
このやんわりと突きつけられる現実が
「あぁ…そっか…」と一抹の寂しさをよびおこす。
一応、エイジングケアの化粧品も使ってたんだけどなって。


そして、力仕事を免除されたばっかりに
見た目の変化に見合うような中身の変化が
私にはあるのだろうかと、不安にもなった。


でも久しぶりにカウンセラーとして働き始めて
「あれ…?」と気がついた。
いい意味で、前よりも必死さが出ないのだ。


目の前の人、それは生徒だったり
先生だったりするのだけれど
その人たちが私と話すことで
何かいい方向に変われるようにとか
共通理解を持てるようになってほしいとか


そういう期待を持ちながら
何かの変化を必死で起こそうとしない自分に気がついた。
でもそれは、いい加減な気持ちでやってるとか
手を抜いてるとか、そういうことではなくて。


たとえばそれは
相手を説得させたり
納得させたりするための
説明スイッチが押されることが
少なくなったということかもしれない。

何でかな…と考えた時に思ったのは

自分が歳を重ねてきたことで
「時間をかける」ことの尊さを
身をもって知ることができたからだと思う。

長男が幼稚園生の頃
寒い冬の日、いっくら言っても
パジャマを着ないで寝てしまって
ヤキモキしていたこともあったけれど
いつの間にかパジャマを着ないで寝ることはなくなった。

あんなに必死に言わなくても
よかったんだなと今なら思えるし

夫が部屋を片付けられないのも
昔はもっと「何でだろう。片付けさせなくちゃ」ってイラっとしたこともあったけれど

それなりに忙しい夫の人生の中で
“片付け”は、単に優先順位が低くて
もしかしたら家族への時間を作ろうとしている
彼なりの優しさの裏返しなのかもしれない、
命に別状はないし、まぁいっか
と別の見方ができるようになった。

こんなふうに背景とか文脈とか経験の蓄積が
一見不可解な言動への「理解」を育む土壌になり

ふとした瞬間に
「理解」の芽がひょっこり芽吹く時がある。

わたしがそれなりに生きてきて
長い時間軸の中で物事を捉えられるようになり
“待つ”ことの価値を知れるようになった
ということなんだと思う。

そう、「時間を味方にできるようになった」
ということが
年齢を重ねてよかったことの一つだと思う。


だからその日、その時に分かり合えなくても
焦ったり、ヤキモキしたりせず

後になって「あの時言ってたのはこういうことだったのかな」と
いつか気づいてもらえる時が訪れるからと
見守ることができるようになった。

だからこそ
分かり合えていないと思うときに湧き上がる
自分の中の不安やモヤモヤを
スッキリさせるための
説明スイッチを押さなくてもよくなった。

不安やモヤモヤを
「抱えられるようになった」
と言えるかもしれない。


だから20代や30代なりたての頃よりも
仕事でも家庭でも
今は、ずっと楽になったかな。

40代半ば。
歳を重ねることっていいことだなと思えてる。

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