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【コラム】善・成功と「自分を生かすこと」の勘違い#006

成功しただとか、自分を生かす方法を教えるとか。(→結局社会で上手くいく方法を教えている)
自分を生かすことを制限しているものを取りましょうと言う専門家だとか。(→結局重荷が取れてもどこにも進まない)
なぜ彼らの言うことが魅力なく「何だか違う気がする」のか?


■「悪のジャッジメント」と「善のジャッジメント」


6年か7年前に『悪のジャッジメント』というコラムを書いた。冊子にして当時のオンラインサロンメンバーに配った。
悪のジャッジメントとは「こういうことをするのは悪いことだ」という思い込みによって人のことも、そして自分のことも日々裁いているというショッキングな話題だった。

今月から無料公開しているので興味がある人は読んでみてほしい。
冊子【悪のジャッジメント】

今年の6月、『善のジャッジメント』というタイトルの短いコラムをFacebookにアップした。
【善のジャッジメント】

善のジャッジメントとは社会的に良いとされている考え方や物事を、素直に受け止めた人たちが「善とはこういうことだ」という思い込みのもと、そこから外れている人を『よくない』とジャッジする。
善人であるがために「よくないことをしている相手に、自分があるいは力を合わせて協力していこう」ということをする。善の押し付けがはじまる。

新興宗教のような無理な勧誘をするのではなく、「当たり前」とされている社会常識に従うので、思い込みで信じている方も、指摘されて改善しなければと思った方も無意識で受け入れてしまう。

実は「悪のジャッジメント」も「善のジャッジメント」も本質は同じだ。
同じ根っこの元に咲いた、色の異なる花だ。


■善のジャッジメントの方が罪深い


われわれはニュースで事件のことを見たり、ネットでそういう情報に触れると「悪」とは何と恐ろしいのだと考える。
近づきたくないと感じるし、もしこの立場に立ってしまったらどうしようなどと考えることもある。

しかしこの考えはかなり間違っている。

日本人はとかくリスクに怯える。起こってもいない物事への対処を、起こる確率が低いものに対しても、かなり以前からどうにかしようとする。
まさにリスクと共に生きており、リスクが大好きな民族だともいえる。

しかし私たちの首を締め付ける真綿は悪にはない。善にある。
本当は善(と悪)の奥にあるがそれは後で話そう。

善いこと、行いはそれが「よい」という理由によって私たちを強く制限する。起こりもしないリスクと比較して、私たちは善の思い込みに毎日悪影響を受け、足を取られ、望んでもいない人生を何十年単位で作り続けている。
日々のルーティンで自分のためにならない善き行いをしている。

このような正しい思い込みは、社会生活を営むだとか、保証された成功と幸せを手にするには都合がいい。
たとえば結婚して家を建てればこの上ない幸せだと多くの人が信じている。子供が生まれていろいろあったけど成人して家を出たら、何かを成し遂げた気持ちになる。
だが実際にやっていたことは自分自身の本心を封じて、社会で善いとされる雛形を守ったことだ。

自分でビジネスをはじめたなら、才覚を生かして億を稼くか、あるいは会社を上場させて有名になったり、または個人の収入額が人口@ピラミッドの上位になったことを喜ぶ。
だがその行いは全て、社会で成功するには?の定義に適ったものを踏襲しているだけで、自分の本心から始めたことでなければ、本心に従って進んだ結果ではない。

家庭の場合も仕事の場合も、これが正しいと信じている人は、江戸時代に生まれたなら江戸時代の社会が求める家庭像と仕事をしただろう。
アメリカに生まれたなら、アメリカ社会が求める正しい家庭と仕事を作っただろう。つまり背景など何でもよく、適応していればいいというスタンスの生き方をしているのだ。
もうひとつ共通することがある。
どの場合も社会に合わせて自分を殺している。控えめに言っても、自分からスタートして社会でどうするか?とあるのではなく、社会からスタートして自分を合わせることにある。

つまり自分らしさであるとか、心の本音など出る隙もない。
そういう生き方をしている。そういう人にとって、人生とは社会の良いものをその通りに手に入れることだ。


■自分を生かしましょう、の茶番


悪のジャッジメントも、善のジャッジメントも根っこは同じだ。
どちらも社会の常識が一番正しい、それに合わせて生きていくのだ、という規範になっている。
そしてわれわれは、その規範を拠り所に個人の性質を捨てるところからはじめる。

だからこの世界の中でいくら「自分を生かそう」「自分が大事だ」と言ったところで、その意味は

・社会性に則り、それに反する個性は上手に捨てて、社会性の中で活躍できることを探そう
・社会性を逸脱しない範疇で自分をもっと大事に扱おう

となる。
社会とは正義ですよ。身近な社会とは周囲です。家族や仕事仲間、関わりのある人は大事ですよ?それを大事にしていい関係を作り、幸福を感じることが良いことですよ・・・・といわれて首を傾げる人は少ない。
むしろ盛大に信じる。その通りだ、自分は間違っていた。もっと人間らしく生きていこう・・・・。

その通りだ。「人間らしく」はできる。
だが「自分らしく」はハナから否定されている

カウンセラーなり人のマインドを扱う専門家もこの前提のもと「善いこと」を行う。だから何も解決しない。
解決したと思える人や、実感する人は、自分のマインドに上手にマジックをかけられる人だ。いわゆる思い込みの力だといえる。
【前提が変わっていない】のに、事実自分の状態が自分を生かすことにはならない。社会的にストレスがなくなるだけでしかない。

こうして地平線の先まで限りない茶番が生まれては消えていく。


■真に自分を生かそうとするなら前提を変えるしかない


このような人のことを「いい子ちゃん」という。
いい子ちゃんは規範なので学級委員になったりする。自分の間違い(社会中心の)に気がつくと素直に認め謝り、修正する。

いい子ちゃんじゃない人は苦しむ。苦しみ方はジャッジメントだ。自分がいけないからこんなことになっている、と考える。なぜならそう考える以外にこの社会には答えがないからだ。少なくとも誰も教えてくれないからだ。
その姿に「あなたが悪いんじゃない」「ひとりで抱え込まないで」と善人が声をかけても、一時は気が楽になるかもしれないが、本質的に相手を肯定しているのではなく社会性を肯定しているのだから何の役にも立たない

ここまででわかっているルールがある。

善と悪の基準
良いこと悪いこと
上手くできること上手くできないこと

などは全て「社会性の中で自分を上手に運ぶことには役立つ」
「自分自身を生かすにはゴミクズほども役立たない」ということだ。

では自分自身を生かし、心が求めていることや望んでいるように運ぶにはどうする必要があるのか。

まず何より先に善悪のジャッジメントを止める必要がある。
それらは「誰かが決めた、平均的に喜ぶことができる決まり事」であり『自分で自分をよく知ることで見出した自分の喜び』ではないことを認める。

社会性から始めるということは、自分の求めを恒久的に2位以下にして常識感という素晴らしい考え方を1位にすることだ。そしてその1位に対して自分を振る舞わせようとする【前提】だ。
だからその中でいくら悪を減らし善を増やしたところで、本来自分が求めるような形には決してならない。だから上手くいけば行くほど、心が空虚になり?何でこんなことになっているんだろう?と答えが出なくなる。

【前提】を変える必要がある。
自分の求め、自分の望みを1位に据え置く。そして恒久的に変えない。
1位のために自分の体を動かし、頭を働かせる。1位によって心が作られるように変える。

ここまでは『概念』つまり、頭の中で行われることだ。
だが、これがなければ次へ進むことはできない。概念をそのままに行動を変えたところで何も変わらず、しかも何も上手くいかない。


■能受の関係を逆転させる


われわれは何も知らない赤ん坊から大人へのステップを踏むのに、この社会のことを学ぶ。たとえば言葉を覚えたり計算ができるように訓練をする。
教育とは基本的に、子供が社会に出た時にやっていくことができるようになるための訓練だ。

しかし大人になると次は社会に馴染むことを余儀なくされる。
会社とはこういうものだとか、車を運転するルールを守るような意識になる。
異性と恋をして結婚しようと思ったら、自分中心ばかりで上手くはいかない。たとえば入籍という作業がどれほど面倒でも、結婚をするなら役所に手続きに行かなければならない。
子供が産まれると子供中心の生活になる。少なくとも生まれてから数年はそうなる。こちらの思い通りに食べたり寝たりはしてくれない。忙しい時にこそ病気になったりする。

仕事そのものも同じだ。良い仕事をしようと考えるなら、社内的には上司なり会社の求めをいち早くつかみ、上手に答える段取りや方法を行うといい。
社外的にはクライアントが満足に感じたり、他社より自社を優位にしてくれるために必要なことを日々考え実践する。
コミュニケーションにも同じことが言える。誰かと関係を強化したいなら、相手がどんな人かよく知り、ニーズを把握する。応えられないこともあるかもしれないが、応えられる時はできる限りのことをする。応えられない時は一言お詫びを添える。

これらはどれもこれも外部状況を受動的に把握してから、自分の意思を反映するという順番になっている。
つまり「自分の求めを恒久的に2位以下にして常識感という素晴らしい考え方を1位にする」ということだ。

これを「自分自身を生かし、心が求めていることや望んでいるように運ぶ」ためにはどのような力学に変えるか。

結論は「受動→能動」を「能動→受動」のスタンスに変える。
これが第2の【前提】になる。
第1の前提は概念だった。第2の前提は力学だ。

すでにある何かの形に答えるスタンスを
自分の心の求めや望みからスタートして、それを外部で現実に変えていくというベクトルを基準にする。
『能動→受動』のあり方に変更する。


■最初の純粋な動機に従う


これが社会病に冒されていると、すぐ
「それでは物事はうまくいかない」
と考えてしまう。病魔は深い。

ちょっと考えればすぐにわかるが、うまくいくに決まっている。

たとえば実はユーチューバーをやりたいと気になって気になってしょうがないとする。時間をおいて落ち着いてもこの気持ちは変わらない。
つまり大なり小なり心が求めているのだ。
ならユーチューバーをやればいい。

すると

「いやいや、これからユーチューバーになるなら編集技術はもちろん、コンテンツを魅力的にするための戦略、継続のためのルーティン、チェンネル登録を増やすための作戦など、やることはたくさんある。それを自分はちゃんとできるか?」
「いや、マイペースでやろう。コツコツ視聴者を増やせばいい。継続できるようなペースでいい。コンテンツもやりながら考える。いや待て、そんな態度で本当に面白いものが作れるだろうか?」

などと考え始める。
ところがこの考え方は全て「受動→能動」のベクトルの考え方だ。
前提が元のまま進めようとしている。

なぜか?
どれもこれも「上手くいくため」に必要なこと、つまり社会に出す上で成功するなり良い状態を取るために上手くいくことが問題になっている。
そしてそのために自らの出足を重いものにして止めている

そうじゃない。
ユーチューバーになりたければ、発信したい何かがあるはずだ。それを今の自分ができる最高の範疇で、発信したいだけ発信する。
編集などできない。構成などできない。トークは下手くそだ。ビデオ撮影などしたことがない。継続なんてできるほど情報がない。関係ない。
発信したいと思ったーなら発信する。
だからチャンネル登録が3人だろうが、再生回数が5回だろうが関係ない。

それを現実で形にしたいと思った自分が形にするべく形にする

「じゃあ下手で誰も認めてくれなくてもやれってことか?」
そうだ。その通り。
自分がやりたいと思ったらやる。

「いやでも、そんなことならやりたくない」
あんたが最初にやりたいと思った動機はユーチューバーやりたいということだ。紛れも無い純粋な気持ちに基づいている
一方「上手くいかないならやめたい」というのは、やった結果どうなるかという起こっていないことだ。起こっていないことを中心に現在の活動を決める。これは「受動→能動」の前提になる。
そして純粋な気持ちを「いつも殺す」ことに一役買っている。

最初の純粋な動機に従う。そしてやる。
結果の上手い下手、良い悪いなどこの時点では心の求めや望みを制御する理由にはならない。これが「能動→受動」のルールだ。
この前提がなければ何事も望み通りにすることなどできない。


■ラテを飲め


じゃあ下手で、誰も認めてくれないことをやれというのか?
誰もそんなことは言っていない。そういう考え方こそ自分以外の基準に毒されている。

いいか。
自分が求めることは星の数ほどある。
自分が望むことは砂浜の砂の数ほどある。

『全部やれ』ということだし、手当たり次第にやれということだ。
上手い下手を気にしてそれができるのか?できるわけがない。
そんなことを考えている時間などあるはずがない。
自分の内的動機が「やれ」と言っている。
それを無視してきたから宙ぶらりんになっている。
やれ→やる、それだけだ。

「そんな自己中をやると人に迷惑をかける、結局はうまくいかない」という考え方もかなり神経毒にやられている。
そもそもそんなことは言っていない。

もしカフェで、今日はラテが飲みたいと思ったとする。メニューを全部見てもその気持ちは変わらない。
じゃあラテを飲め。心がそう求めているんだろ。
誰に迷惑をかけ、何が上手くいかないんだ。

それを相手に合わせるとか、好きなものはないから何でも飲める自分を作り込んできて、メニューも見ずに無難なものを飲めるようにしたお前自身に問題があるんだよ。
その結果、ラテひとつ、晩御飯ひとつ、休日の過ごし方ひとつ、雨の日にタクシーを使わず濡れて帰ることひとつ、どの「ひとつ」を取っても自分ではなく社会に妥協した生き方をしている。
これが自殺じゃなくて何だというんだ。

小さなものから大きなものまで、自分の求めを外の世界で現実に変換する。
下手ならそのための訓練をする。
慣れてきたら難度を上げていく。
内と外、自分と社会が対立したら、何とか自分を通そうとする。だが本当に通らない、または今通すと他の通したいものが通らない、など『あくまで自分の求めありきで壁にぶつかった時だけ「はじめて」妥協を検討する』

そしてその時妥協しても、次はどのように手にすることができるかまたやり始める。

ここまでが【前提】だ。
能動になろうが、求めを現実にできようが、それはスタートラインでしかない。ゴールではない。
これが常態になってはじめて、自分とはさらに奥深くどのような人間であり、もっと根源的、もっと真実何を求めどのような生き方をしたいのか?ということがわかってくる。

前提を自分で2位以下にしながら、自分や人生の深い求めを考えるなど、調理器具なしで高級フレンチを作りたいと言っているようなものだ。
いかに高級フレンチレベルの資質があろうとも、それではガキの戯れ言レベルでしかない。



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